「――とても、大事なことですから」


 *


 俺だ。俺がいる。

 俺は、目の前に広がる光景に、姉を追いかけた先に待っていた真実に、息を呑んだ。

 薄く透けた体が、寒気立つ。

 俺が苦手な白い部屋の、白いベッドの上には――とうの昔に灰になったものと思い込んでいた、自身の肉体があった。それは本当に自分なのかと疑いたくなるほどみすぼらしく痩せ細り、点滴をはじめとするたくさんのチューブにつながれ、口には酸素マスクを着けている。どれもこれも、死人には必要ないはずのものだ。ということは……

「あんたってほんとバカよね。ちゃんと生きるか、ちゃんと死ぬか、どっちかにしなさいよ」

 ベッドの傍らに座り込んで、疲れ果てたようにため息をついた亜沙美に「ごめん……」とけっして届かない謝罪をした俺の脳裏には、ひとつの可能性が浮かび上がってきていた。

 勝手な思い過ごしであってほしいけれど、これが事実だとするなら、目の前の痛々しい光景も、転生したはずなのに定期的に幽霊化してしまう現象も、繰り返される父と娘のいさかいも、その中で交わされる意味深な言葉も……すべてに納得できてしまう。そんな気がした。

 なんだ? なんだ? と恐怖にも似た感情を覚えながら混乱する一方、頭のどこか冷静な部分で、現状をきっちり分析している自分がいる。ここ数ヶ月、不思議な体験をいくつも積み重ねていくうちに、妙な免疫がついてしまったのかもしれない。

「まったく、どうしろっていうのよ。――脳死なんて」

 その姉の一言で、悲しい予感は確信へと変わる。

 お世辞にも賢いとは言えない俺が、そんな医療的知識と思考を持ち合わせていたのは、他でもない母の影響だった。

 以前、がんの進行により母が意識不明に陥った際、医師から告げられたことがあるのだ。このまま植物状態、もしくは脳死状態になってしまうかもしれないと。

 そのときは奇跡的に回復したものの、わずか十日後、母は眠るように安らかに、天へと旅立ったのだった。

 何度思い出してもさいなまれる過去の苦みに唇を噛みしめていると、ふいに病室のドアがノックされる。

「はい」

 亜沙美が短く返事すると、白衣姿の男性が顔を覗かせた。男性に気づいた姉は丸椅子から立ち上がり、かしこまった様子で会釈する。

「いらしてたんですね」

 同じように会釈を返した担当医らしき男性はそう言い、亜沙美に向かって淡く微笑みかけると、静かな足取りで歩み寄って隣に肩を並べた。

 そして、状態を確認するように俺の体をじっくり眺めてから、ためらいがちに口を開く。

「……まだ、心が決まりませんか?」

 その言葉に、亜沙美は切なげにまぶたを伏せた。

「……父は、生きているんだと言いました」

 医師は、ただ黙ってうなずく。

「もちろん、父の気持ちも分かります。ですが、この状況を生とみなしても死とみなしても、弟は目覚めない。そのことに変わりはありません。だったら、今のうちに少しでも誰かの役に立っておいたほうが、この子も幸せかなと思うんです」

 亜沙美は一度言葉を切り、「でも……」と震える声で否定した。

「そんなふうに考えている自分が、ときどきものすごく残酷に思えてくる。もっともらしい綺麗事を並べて、本当は逃げているだけなんじゃないかって。こうやって、日に日に弱っていく姿を見るのが怖いだけなんじゃないかって。私もう、どうしたらいいか……」

 そこまで言うと、ついにこらえきれなくなったのか、両手で顔を覆って嗚咽おえつする。

 そんな亜沙美を心配そうに見つめながら、医師は尋ねた。

「すまない。ひょっとして、私の先日の言葉が、プレッシャーになっているのではないですか?」

「いえ。そんな……」

 手を離さず、あわてたように首を振る亜沙美。すらりと白い手に隠された顔は、無念と哀しみの涙に濡れているのだろう。

 一時的ではあるが、一度は同じ立場になった身だ。姉の気持ちは痛いほど分かった。二十歳そこそこの少女が背負うには、荷が重すぎる。唯一の家族とも手を取り合えないとなれば、なおのこと。

 医師は、あくまで落ち着き払った口調でこう言った。

「長期にわたる生命維持が難しいことは事実ですが、今のところ、血流や循環器に問題はありません。卓也くんは頑張ってくれていますよ。どうか焦らず、お父様ともよく話し合われた上でご決断なさってください。――とても、大事なことですから」

 医師の言葉に、亜沙美はただただ、すすり泣くばかりだった。


 日没までには帰るつもりでいたのに、姉とともに病院を出た頃には、すっかり陽が暮れていた。外は濃くて深い闇に覆われ、辺りには真っ黒な山影が立ちはだかる。

 島谷家を目指して夜道を歩きながら、俺はもう何度目か分からないため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げるなんて言うけれど、今日は朝からずっと憂鬱な気分だから、逃げる幸せすらない気がする。

 なんということだ。また悩みの種が増えてしまった。

 自分は、命を落としてもなお、あんなふうに家族を苦しめているなんて。

 死というものが絡む以上、悲しませることは避けられないとはいえ、現状はあまりにも辛すぎる。捉えようによっては、覚悟を決めてただ終わりを待つしかなかった、母のときよりも過酷かもしれない。

 きっと、結論を出さない限り、父と姉の時間は止まったままだ。

 テレビで見る自殺志願者や孤独に悩む者はよく、「自分がいなくなれば周囲が幸せになる」などというような戯言たわごとを抜かすけれど、そうでもねぇぞと教えてやりたい。中途半端に死んだら最悪だぞ、と。

 落胆と怒りがごちゃ混ぜになった感情を抱きながら、島谷家を目前にしたとき、ある違和感を覚えた。

 灯りがすべて消えている。もう寝てしまったのだろうか。いくら夜とはいっても、まださほど遅い時間ではないだろうし、体調不良のふうかはともかく、父親は起きていてもよさそうなものだが。

 怪訝に思いながら中庭へ向かうと、外へ出るときに使用したふうかの部屋の窓が開け放たれていた。俺の外出を知った彼女が、帰ってきやすいようにと気を遣ってくれたのかもしれない。

「ふうか?」

 ありがたくその窓から部屋に足を踏み入れて、初めて気づいた。

 ――いない。

 室内は暗闇に閉ざされ、ぽつりと取り残された布団の中に、人の姿はなかった。奥まで潜っているのだろうかと、急いで掛布団をめくろうとした右手は、己をもてあそぶようにすり抜ける。

 いら立ちながら、しかたなく触れない手のひらをかざしてみたが、それはどこまでも平坦で、人間のぬくもりなんて一切感じられない。むしろ冷たいような気さえした。

 今日は特に具合が悪そうだったし、まさか、俺がいない間に何かあったんじゃ――

「ふうか……」

 夏のあのときと同じ、不吉な予感が這い上がってくる。

 今度こそ、彼女が遠いところへ行ってしまった気がした。

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