知らない真実


 *


 どうにか島谷家を抜け出し、知らず知らずのうちにたどり着いたのは、もう帰ることのない我が家だった。本当はもっと遠くまで足を運びたい気分だったけれど、猫のときと違って帰巣本能が働くわけでもないし、ふうかもいないので、あまり無謀なことはできない。

 となれば、選択肢なんてあってないようなものだった。まあここだって、誰かの手を借りなければ、中に入ることもできないわけだけれど。

 別に家出したつもりはないし、ふうかに心配をかけるのは不本意だ。

 少し風にあたって反省したら、すぐに戻ろう。

 俺はそんなことを思いながら、玄関前に腰をおろし、深々とため息をついた。

 ふうかの苦しむ顔と、穏やかな寝顔が順に浮かんで、

「なにやってんだ、俺はぁ~!」

 誰にも聞こえないのをいいことに、思いきり吐き出す。

 そばにいると約束したのに、なんだかんだ言いつつ、ここまで逃げてきてしまった。

 ふうかの心臓なんかよりも、俺のほうがよっぽどポンコツだ。

 うなだれて再びため息をついたとき、ふと足もとに影が落ちる。

 怪訝に思って見上げると――父が立っていた。

 相変わらず不機嫌そうな顔。あごには無精ひげを生やし、頭には黒いタオル。

 ほんっと変わんねぇなぁ……なんてぼんやり眺めていたら、

「うおっ!」

 ガラガラという音の後、突然、後頭部に衝撃を覚えた。父が引き戸を開けた拍子に後ろへ転んでぶつけたようだ。

 ちょっと涼むだけのつもりでいたのに、かすかな痛みを感じつつ負傷した部分をさすりながら、つい反射的に父の背中を追って家の中へ上がり込んでしまった。

 考えようによってはいい機会かもしれない。たまには実の家族の様子も確認しておくべきだろう。

 気持ちを切り替えて、不必要に息を潜めながら後をつける。

 家の中は日当たりが悪く、ひっそりと湿っていて、どんより暗い。まるで映画に出てくる幽霊屋敷だ。

 住んでいる人数が少ないせいもあるだろうが、そればかりが原因ではないと思う。

 毎日こんな状態だなんて、息苦しくてたまらない。

 父はまっすぐ食堂室まで行くと、食卓の前に座り込んで新聞を広げた。

 薄暗い部屋でひとり黙々と新聞をめくり続ける父。その渋い顔に向かってひらひらと右手を振ってみたけれど、当然ながら無反応だった。やはり、父にも俺の姿は見えていないようだ。

 勢いで来てみたのはいいが、特に何か目的があるわけでもない。このままぼんやり時間を潰すのも億劫だし、かといって帰るのも……

 ぐるぐると悩んでいたら、また玄関の引き戸の開く音がした。

 どこか威圧的な足音が近づき、出入り口から――姉の亜沙美が顔を覗かせた。その視線は、ゆっくりと射貫くように父の背中を捉える。

 ――姉ちゃん。

 亜沙美は音楽教師になるため、都内にある大学の教育学部に通っていたと思うが、今は時期的に夏休みのはずだ。よく見ると、右手にビニール袋を提げている。どこか買い物にでも行っていたのだろうか。

 まるで避けるように、父が新聞を畳んで立ち去ろうとすると、

「……ねぇ」

 すれ違いざま、彼女は低い声で呼び止めた。

 父も渋々といった様子で立ち止まる。

 交わらない視線。互いから伝わってくる、ぴりついた雰囲気。

 亜沙美が、ゆっくりと切り出す。

「本当にどうするの? ――卓也のこと」

「え、俺!?」

 予想外の言葉に、思わず声を上げた。もちろん、誰にも聞こえない独り言に終わったけれど。

 ――どうするってどういうことだよ。だって俺、とっくに死んでんだろ?

 混乱する俺をよそに、姉はいら立ちを露わにして食堂室に足を踏み入れ、ビニール袋を荒々しく食卓の上に置くと、出入り口にたたずむ父を振り返った。

「いい加減向き合ってよ。こればっかりは他の誰かに決めてもらうわけにいかないんだから」

「……病院で面倒見てもらってるんだ。何も問題ないだろ」

 背を向けたまま、父が初めて口を開く。

「だからっ、そういうことじゃなくて! 今の状態をずっと維持し続けるのは難しいって、先生も――」

「やめんかッ――――!」

 突如、雷のような怒号が、室内を貫いた。

 張り詰めた静寂。

 亜沙美は圧倒されたように目を見開き、父のいかつい体は、荒れ狂う感情に震えている。

「たしかにあいつは……あいつはほんとにバカだ。とんだ親不孝者だ」

 父は必死に押し殺すように呟いて、「でも、でもな……」と続けた。

「あんまりにもバカだから脳みそがぶっ壊れちまっただけで、まだ、まだ生きてるんだよ……俺より先に逝くのは、母さんだけで充分だ……」

 寡黙かもくで不愛想な父にも、こんな瞬間があるのか。こんな、こんなにかなしい声で……

 父の訴えに、亜沙美は涙を呑むように俯いた。

「そんな……そんなの……私だって、できるなら目覚めてほしいって、そう思ってるわよっ……!」

 濡れた声で叫び、弾かれたように顔を上げると、潤んだ瞳で父をきつく睨みつけ、部屋を飛び出す。

「姉ちゃん!」

 全速力で駆けていく姉の背中を、俺はあわてて追いかけた。

 追いかけなければならないと思った。その先にきっと、自分の知らない真実があるから。


 *


 肌を撫でる生ぬるい風で、私は目を覚ました。すっきりと青かった空は、徐々に夕暮れを受け入れ始めている。

 軽く頭を上げると、

「……っ」

 視界が歪み、鐘をつくような重い傷みが内側から襲ってきた。

 全身が火照り、意識もふわふわとしていておぼつかない。

 また熱が上がったようだ。この感じだと末期――三十九度を超えたあたりだろうか。

 感覚で体温が分かるなんて嬉しくない能力を身につけちゃったな……と苦笑したとき、あることに気づく。

「卓也……?」

 彼が、いない。

「どこ……?」

 今日の彼は幽霊姿だから、猫のときのように自由は利かないはずなのだが。

 また夕風が頬を撫でる。どこから吹いているのだろう。

 頭痛に耐えながらもう一度頭を上げてみると、目の前の中庭に面したガラス窓がわずかに空いているのが目に入った。彼はあそこから外へ出たのかもしれない。

「怒らせちゃったかな……」

 私はしゅんと呟いて、氷枕の上に頭を戻した。その中身は溶けて常温水になり、額に貼られたシートもすっかりぬるくなっている。彼が出ていったとも知らず、ずいぶんと長時間熟睡していたようだ。

 彼が力になれないことを気に病んでいると察していたのに、父の形ある優しさに、つい甘えてしまった。

 彼のことをないがしろにしたつもりはないけれど、もしも疎外感や孤独を感じさせていたのなら、それはほかでもない私の責任だ。

 このままではきっと、互いの心にわだかまりを残したまま過ごすことになってしまう。今日が終わったら、彼とはまたしばらく、飼い主と飼い猫の関係に戻らなくてはならないのだから。

「謝らなきゃ……」

 彼を捜しに行かねばという使命感と焦りが先走るが、悲しいかな、今の私の体にどれだけむちを打っても、そんなパワーは湧いてこない。

 こうして目を開けているだけでも、脳はまだ眠るようにと絶えず指令を出し続け、まぶたを重くしていく。

「卓也……」

 私は眠気にあらがうことを諦めてむなしくこぼし、一抹いちまつの不安を抱いたまま、そっと目を閉じた。

 彼は、ちゃんと帰ってきてくれるだろうか……?

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