いてもいなくても一緒じゃん


 *


 夜が明けても、ふうかの体調はかんばしくなかった。

 熱が三十八度台前半まで下がったことを除けば、むしろ悪化したくらいだろう。

 今日も今日とて、俺は、苦しむふうかの姿をただ傍らで不安げに見つめていることしかできない。

 それは、猫の姿だろうと人間の姿だろうと同じことだ。もしかしたら、言葉が通じないという歯がゆさはあっても、きちんと肉体があるぶん、前者のほうがいくらか力になれていたかもしれない。

 ――大丈夫か? 頑張れ。辛いよな。しんどいよな。

 苦しげにあえぎ、ときには呻きさえする横顔に、薄っぺらな励ましの言葉が浮かんでは消えていく。意思の疎通ができたところで、かける言葉も見つからないなんて。情けないにも程がある。

 自身に失望しながら、歯がゆい思いでひざを抱えていると、

「……っ!」

 突然、ふうかが蒼白い顔を一層蒼くして首をもたげ、枕もとに置かれた洗面器に向かってえづいた。嘔吐したようだ。

「おっ、おい。だいじょ――」

 激しく咳き込む背中をさすろうと、とっさに手を伸ばして――俺はまた自分の無力さを痛感する。

 寂しさにも似た落胆を覚えながら、おとなしく引っ込めるほかなかった。

 一通り吐いてから少しずつ呼吸を整え、ひとまず落ち着きを取り戻したふうかは、一度深く息をついて氷枕の上に頭を戻すと、

「だいじょうぶ……だから」

 懸命に笑顔を作ってみせる。

 そんな顔をさせたいわけじゃないのに。

 彼女の優しさすら、素直に受け取れず、複雑な感情に変換されて、胸の奥で渦巻いてしまう。

 何も言えずにいると、手もとのスマホを操作して電話をかけ始めた。

 何かあったときは、こうして親に助けを求めるのだ。要するに、病院でいうナースコールのようなもの。念のためその近くには、発作止めの錠剤が入った例のポシェットと、天然水のペットボトルも置かれている。

 こんなときくらい付き添っていてやれないのかと思うけれど、そういうわけにもいかないのだろう。そばにいるだけで何もできない自分に、彼らを責める権利などない。

『もしもし? どうした?』

 数回のコールの後、低く優しげな声が応えた。

 普段は母親がいるのだけれど、今日は知り合いの葬儀があるとかで、遠方へ出かけている。泊まり込みになるらしく、代わりに父親が看病に来ていた。

「ごめんパパ。ちょっと吐いちゃった。あと、トイレ行きたくて……」

『分かった。すぐ行く』

 父の頼もしい返事に、ふうかは安心したように通話を切る。――俺には見せてくれない、幼い子に戻ったような表情。

 程なくして部屋にやって来た父親は「あぁー、苦しかったね……」と気の毒そうに言って手早く嘔吐物を片づけると、ふうかをひょいと抱き上げてトイレまで連れていった。

 いつもは数時間に一度、ふらふらとおぼつかない足取りで壁をつたいながらトイレに向かう姿を見るけれど、今日は歩くことも辛いらしい。それとも――父親だから甘えているのだろうか。

 自分の中の感情や考え方が、どんどんねじ曲がっていくのを感じたけれど、どうすれば止められるのかも分からなかった。

 トイレから戻ってきた後も、父親はちょくちょくふうかの世話を焼いた。お粥を食べさせたり、冷却シートや氷枕を取り替えたり、汗を拭いたり……やっていることは母親と何ら変わりない。

 けれど俺の心には、母親のときとは明らかに違う感情が絡みついていた。

 お門違いなのは分かっている。どうせ何もできやしないのだから。

 でも、彼女を献身的に支えるのは自分でありたかったと、その安堵しきった笑みを向ける相手は自分であってほしかったと、どうしてもそう思ってしまう。

 すべて理屈で割り切れてしまえたら気楽なのだろうけれど、実際はそうはいかないことのほうが圧倒的に多い。

 ここまで激しい嫉妬心を抱いたのは、生まれて初めてだった。想い人の隣にいるのが同じ男だというだけで、こうも掻き乱されるものか。

 なんだって三ヶ月に一度の貴重な日に、こんな惨めな思いにさいなまれなければならないのだろう。

「三十八度七分……また上がってきたね」

 何度目かの来室の際、父親はふうかに熱を測るよう促し、手渡された体温計を見て心配そうに顔をしかめた。

「辛いだろうけど、安静にしてればそのうちよくなるから。今はゆっくり休んで」

 そう言って、愛娘の前髪をそっと撫で、部屋を後にしようと立ち上がる。

「パパ……」

 その背中を、ふうかが寂しげに呼び止めた。

「寝るまでそばにいてくれない……?」

 甘えるように呟いてから、背中を向けた彼女。照れ隠しだろうか。

 自然と俺のいるほうへおもてを向ける形になったが、彼女がこちらに視線を送ることはなかった。

 父親はやわらかな吐息を漏らしてきびすを返し、傍らでひざを折る。

 そして、赤ん坊をあやすように優しいリズムで背中を叩けば、ふうかの顔からすっと険しさが消え去り、次第にまぶたが閉じられて、五分も経たないうちに健やかな寝息を立て始めた。

「……おやすみ」

 父親が手を止め、ほっとしたように囁いて腰を上げる。

 部屋のドアが静かに閉められ、足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。

 独り取り残されたような静寂の中で、俺はふうかにすり寄り、あらためて寝顔を見つめてみる。

 それは、先ほどまでうなされていたとは思えないほど深く、穏やかなものだった。

 ――俺なんか、いてもいなくても一緒じゃん。

 ずっとこらえていた重苦しいため息とともに、自虐的な笑みが漏れる。

 もうダメだ。限界だ。

 いけない。このままでは彼女が目覚めたときに積もり積もった黒い感情をぶつけてしまうかもしれない。理不尽な暴言を浴びせて傷つけてしまうかもしれない。ただでさえ気を遣わせているのにそんなことになったら笑えない。今のうちに頭を冷やしてこよう。外はまだ明るいから日没までに帰ってこればいい。そしたら「よく眠れたか?」なんて何食わぬ顔で笑ってやるんだ。

 言い訳――自身に対する説得材料を脳内で並べ立てている最中、中庭に面した窓が偶然にもわずかに空いていることに気がついた。

 これはきっと、誰かからのお告げだ。やはり、少し冷静になれと言われているのだ。

 俺は気が変わらないうちに立ち上がり、窓の隙間に役立たずな透けた体をねじ込んで中庭へ出る。

 去り際、ガラス越しに見たふうかは、やっぱり気持ちよさそうに眠っていた。

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