🐾試練の秋 散りゆく時間と彼らの命
「明日は、ずっとそばにいてね……?」
平和な日常とは、とても崩れやすく危ういものである。いつどんなふうに変わってしまうか、それは誰にも分からない。
立夏の出来事を境に、ふうかはよく体調を崩すようになり、発作も頻繁に起こるようになった。一度起きてしまったことで、それまで気づかれないようにと張り詰めていた気持ちが、緩んだのかもしれない。
学校も、週に二,三日は休むことが当たり前のようになってしまった中で夏休みを迎え、彼女はこの日も病床に伏して三十八度を超える高熱や頭痛、繰り返し襲ってくる吐き気などと必死に闘っていた。そんな状態が、一昨日からずっと続いている。
苦しげに呻きながら仰向けから左横に姿勢を変え、二、三度咳き込んだふうか。最初こそ「季節の変わり目はいつもこうなの。すぐ治るよ」なんて笑っていたけれど、近頃は本当に辛そうだ。まるでそれをあざ笑うかのように、窓の外には青々とした空が広がり、さんさんと太陽が照りつけている。
どうしてこうなってしまったのだろう。少なくともあの海で倒れるまでは、明るく元気な少女だったのに。そう、見えていたのに。
それはどうしたって、数年前の悪夢と重なって、不安がにじり寄ってくる。
かつての母もそうだった。体調なんてめったに崩さず、野球以外は何事にも興味を示さない出来の悪い息子に、毎日がなっていた肝っ玉母ちゃんだったのに、がんが発覚したとたん見る間に小枝のように痩せ細っていき、呆気なく帰らぬ人となった。
「さむい……」
ふうかのか細い呟きに、窓際に座り込んで彼女の様子をうかがっていた俺は、少しでも温めてやれたらと、素早く布団に潜り込む。
その瞬間、背中にちょっとした重みを感じた。
季節的にはまだまだ暑いが、悪寒のせいで厚めの掛布団でないといられないらしい。
寄り添った体はパジャマ越しでも分かるほどひどく熱を帯び、ぐっしょりと汗をかいていた。
はぁ、ふぅ、と荒い息遣いは、彼女の苦しさをそのまま表しているようで、聞いているこっちまで苦しくなってくる。
「ウィン……」
苦しげな吐息の隙間で名前を呼ばれ、
――どうした?
問うように見つめると、
「ありがと。あったかいよ……」
彼女はかすれた声でそう言って、高熱のためか、やけに潤んだ瞳をふっと細める。
今にも消えてしまいそうなほど儚げな微笑みにいたたまれなくなって、
「……なぁ、ふうか。お前、死なないよな?」
こらえきれず、けっして口にしてはいけないことを尋ねてしまったけれど、もちろん届くはずもない。切実な想いは、頼りないひと鳴きに変わるだけ。
それでも彼女は、何かを察したように、瞳に疑問の色を滲ませる。
「……何か言ってる?」
ふたりはしばし無言のまま見つめ合っていたが、
「うーん、猫の姿だと分かんないや」
やがてふうかが諦めたように弱々しく笑った。このときばかりは、言葉が通じないことにこっそりと感謝した。
「でも、今夜にはまた会えるから」
彼女の一言に、ふと気づく。
そうか、今日は八月六日――立秋の前日。深夜の十二時を回って日付が変われば、人間の姿に戻れるはずだ。
「待ってるね」
楽しそうに囁く彼女は、先ほどよりいくらか元気そうに見えた。
そんなことで喜んでくれるなら、こちらとしても嬉しい。
ただ、この小さな奇跡が、お互いにとって本当にいいものなのかどうかは、よく分からなくなってしまったけれど。
真夜中、三ヶ月に一度訪れる妙な感覚で目を覚ました俺は、なるべく音を立てないようにそっと起き上がって、薄く透けた両手のひらを見つめる。
そして、ため息とも単なる吐息ともつかないものをひとつして、また横たわった。
左横を向く。視線の先には、氷枕に頭を預けて額に冷却シートを貼り、相変わらず荒く苦しそうな呼吸を繰り返すふうかの姿。
今日は発作こそ起きていないものの、熱はじわじわと上がり続け、就寝前に測ったときには三十九度を超えていた。そんな状態では、言うまでもなく眠りも浅いだろう。起こさないようにしなくては。
そう思いながらも、半透明の右手を、彼女の汗ばんだ頬へと伸ばしてしまう。けれど、どんなに願っても、両者が交わることはない。
けっして触れ合えない、自分と彼女。
分かりきっていたはずなのに、かすかに感じるやわらかさと熱に、やり場のない切なさが込み上げる。こぼれそうになるため息を呑み込んで、そろりと手を引っ込めたそのとき、
「たく、や……」
しぼりだすような声とともに、疲労と苦しさに
――あぁ、ほら。やっぱバカすぎだろ、俺。
罪悪感が募る反面、彼女が目覚めてくれたことに安堵の入り混じった喜びを感じている自分も、
――大丈夫か?
――苦しいか?
そんなありふれた言葉しか出てこなくて、
「……ごめん」
結局謝ってしまう自分も、全部、全部嫌いだ。大嫌いだ。
つくづく嫌になる。
そんなマイナス思考の連鎖に
「卓也、なんか最近謝ってばっかりだよ?」
胸の内を見透かしたように、ちょっぴりおどけた口調で指摘された。
気を遣わせている――そう思ってまた心が沈んだけれど、
「そうかもな」
と曖昧に笑うほかなかった。
すると、ふうかは困ったように眉を下げ、
「こっちこそごめん。さすがにこんな調子じゃ、どこにも出かけられないね……」
なんて言って、ひとつ咳をする。
夏の日と同じく、ふたりでどこかに遠出するつもりだったのかもしれない。
でも、彼女の言う通り、今の状態で出かけるなんてもってのほかだ。
そうでなくても、また出先で倒れられたりしたらたまったものじゃない。
前回のように、うまい具合に助けが来てくれるとは限らないのだから。
顔面蒼白で、痛みに耐える彼女。目の前で呆然とするしかない、無力な自分。
思い出しただけでも手が震え、血の気が引くような感覚がする。
あんな恐怖は、もう二度と味わいたくない。
「なに言ってんだよ。いいってそんなん」
動揺を押し隠しながら、当然の一言を返すと、彼女は「ねぇ」とまぶたを閉じた。
「明日は、ずっとそばにいてね……?」
胸が、詰まる。どうしようもなく、苦しい。――こんな俺でも、必要としてくれるのか?
「――あぁ。明日っていうか、もう今日だけど」
思わず揚げ足を取った。そうでもしないと、泣いてしまいそうな気がして。
自分は今、ちゃんといたずらに笑えているだろうか。自信なんてこれっぽっちもない。きっと、すごく情けない顔をしているだろう。
ふうかは「もう」と微笑交じりに漏らして、再び浅い眠りの中へ落ちていった。
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