「……ごめん」
*
話を終えて、ふぅっと一息ついた彼女に、俺がかけられる言葉は、ひとつだけだった。
「……ごめん」
全然、知らなかった。
彼女が今までどんな哀しみや苦しみと
知ったところで当時の自分が変わったとも思えないけれど、彼女の口から語られた
あの頃はひたすら、自分のことで精一杯だったのだ。
それなりに事情があったとはいえ、降りかかってきた絶望を言い訳にして、甘えていた。
どうして、なんで俺がって、そればっかりで。
他人の気持ちなんて、どうでもよかった。
自分は彼女を傷つけて、それでどうしたかったのだろう。彼女はこちらの苦い経験も過去も知った上で、すべてを受け入れていたというのに。
何かいざこざがあったわけでも、裏切られたわけでもない。
ただ、自分が失ったもの――生きがいを持ってのびのびと過ごしている彼女が、気に食わなかっただけ。妬ましかっただけ。
もしかしたら俺は、復讐のために人を殺す殺人犯よりタチが悪いんじゃないだろうか?
そんなことすら思った。
「なんか……ほんとに……」
何か言わなければと思うけれど、気が急くばかりで何ひとつ言葉にならない。
そんな様子を気遣ってか、彼女が「ちなみに」と明るい声を出す。先ほどとは違う、純粋な励ましの声。
「三つ編みはね、入院中に、持ってきた本全部読んじゃって暇だったとき、ママが教えてくれたの」
そう言うと、毛先を三つに分け、真ん中を軸にして交互に絡ませていく。
「やってみると理屈はシンプルなんだけど、初めて見たときは魔法みたいで」
彼女が微笑んで手を離せば、縄のような模様を描いていた黒髪は、ふわりと波の中へ戻る。
「だから、どんなにダサいって言われても、これだけはやめられないんだ」
遠い昔を懐かしむように話す彼女に、やっぱり「ごめん……」と謝ることしかできなかった。
俺は、ほんとにバカだ。
死んでしまったのではないかと不安になるほど熟睡しているふうかの寝顔を見ながら、俺は深いため息をついた。
大きな発作は相当体力を
そんな彼女の傍らで眺めるともなしに空を眺めていたら、いつの間にかすっかり陽が落ち、辺りは夜の
帰宅したのが午後一時過ぎだったから、かれこれ十時間近くこうしていることになる。
数ヶ月前のやんちゃな自分なら耐えられなかっただろうが、今はちっとも苦痛ではない。むしろ幸せなくらいだ。だって……
「じゃあ、また何かあったら呼んで」
よこしまな考えを遮るように、玄関からふうかの父親の声がした。
体のことを考慮してか、ふうかの部屋は一階にあるので、室外の物音がよく聞こえるのだ。
「ええ」
母親が短く答える。
こんな夜遅くまで居座っていたということは、夕飯や入浴もここで済ませたのだろうか。
ふうかも話していたけれど、長年別居状態にあっても、仲は悪くないようだ。完全に
父親が玄関のドアを閉めた音を聞き届けた俺は、いたずらを見つからずに済んだ子供のようにほっと胸を撫でおろした。
と同時に悶えたくなるような恥ずかしさに襲われる。
――なに考えてんだ、ったく。
彼女の寝顔を間近で見られて嬉しい、なんて。
――どこの変態だよ。色恋ボケもいい加減にしろ、俺のバカ。バカバカバカ。
自分をこき下ろして落ち着きを取り戻すと、今度は忘れかけていた暗い気持ちが心にのしかかる。
規則正しく穏やかな呼吸を繰り返す横顔に、あらためて思う。
自分は本当に、何をしていたのだろう。そしてこれから、いったい何をしてやれるのだろう。
苦しむ彼女に、手を差し伸べることさえできないのに。
見ず知らずのカップルが助けてくれなければ、この愛しい寝顔は永遠に見られなくなっていたかもしれない。
また、ため息が漏れる。
ダメだ。今日はもう寝よう。三ヶ月前、春の夜の出来事が偶然でないとしたら、あと一時間もしないうちに強制的に眠らされる。その前にさっさと寝てしまおう。
一刻も早く邪念を払おうと、どうしても体をすり抜けてしまう掛布団を気にしながら、彼女に背を向けて隣に横たわったとき、
「おはよう」
突如、その背中から聞こえてきた声に肩をぴくつかせる。
「悪い。起こしたか?」
後ろを振り返って詫びると、彼女はいたずらっぽく微笑んで首を横に振った。
「違うよ。よーく寝たから元気になって、すっきり
まだ半ば寝ぼけているのか、子供じみた口調で彼女は言う。
「そーかよ」
素っ気なく答えて前に向き直ると「ねーねー、お相手してくれないの?」なんて、からかうようにますます幼稚な反応を示した。
かすかな違和感が背中のあちこちをくすぶっては消えていく。何やら、指先で遊ぶようにつついているらしい。
お言葉通り、すっかり復活したようだ。
「ちょ、やめろって」
「まだ拗ねてるの?」
返ってきた一言に、思わずむっとした。
「別に、拗ねてるわけじゃ……」
「じゃあ、落ち込んでる?」
――まったく、こいつにはかなわない。
「……そりゃ、まあ」
降参しつつも、悔しさを捨てきれずぶっきらぼうに答えると、彼女は楽しそうにクスッと笑った。
「優しいんだね、卓也は」
ごく自然に続けられた言葉に、危うくノックアウトされそうになる。
が、姿勢を変えて天井を仰ぎ、どうにか持ちこたえた。
「優しくなんかねぇよ」
仰向けのまま、涼しい顔を取り繕って投げやりに言うと、彼女は「ううん」と包み込むように否定する。
「どんな間違いを犯しても、
凛とした口調で告げ「だからね」と一点の曇りもない瞳でこちらを見つめると、
「今は罪悪感でいっぱいかもしれないけど、これから一緒に変わっていけたら、それで充分だと思うの」
そう言って、ふっと表情を崩した。
――あぁ、もう……
俺はたまらずこぼれそうになった三文字をすんでのところで呑み込んで、代わりの言葉を探し、
「お前さ」
努めて冷静な声を出す。
「いたことあんの?」
当然、質問の意味が分からなかったらしく、ふうかは「え? なにが?」とちょっと間抜けに訊き返してきた。
片手で頭の後ろを掻きむしる。
「……彼氏、とか」
低く呟くと、彼女は噴き出して小刻みに肩を震わせた。
「どうしたの、急に」
明らかに面白がっている様子に、少なからず落胆する。――俺は対象外ってわけか。
どうしてこんなふうに思っているんだろう。あんなに癪に障る存在だったはずなのに。
ふと今の自分を客観視して不思議に感じながら、
「いーだろ、別に」
ふて腐れたように返すと、彼女はやっと息を吸って答えた。
「あるわけないでしょ。だって私だよ?」
密かに喜びを噛みしめる。
俺って単純だなと思いつつ、彼女の自らを見下すような物言いが気にかかった。
「分かんねぇじゃん、そんなの」
現に、淡い想いに
そんなことを考えながら言ってみたけれど、彼女はそれには特に答えず「卓也は?」と返してきた。
「ないよ」
即答する。
にもかかわらず「うそだぁ」と茶化すような声が飛んできた。
「嘘じゃねぇし。俺、野球ばっかでそういうの全然興味なかったし、ひじ壊して野球辞めてからは、グレてヤンキー仲間とつるんでたから、女なんて寄ってこなかったよ」
包み隠さず話しても、彼女は不満げだ。
「だって、野球やってた頃、卓也に憧れてた女子、たくさんいたんだから」
「それこそ嘘だろ」
乾いた笑いで受け流すと「ほんとだもん!」と頬を膨らませる。
「野球部のエースなんてかっこいいに決まって――」
猛烈に反論しているかと思ったら、あくびに口を塞いだ。
すっきり覚醒したとか言っといて結局眠いんじゃん、と含み笑いを漏らしたとき、
「あっ」
ふと思い当たる。
「もしかしてお前、三ヶ月前のリベンジしようとか考えてる?」
まさかと目を見張って訊くと、彼女はごまかすようにぺろりと舌を出した。
「……バレた?」
その反応に、俺は「うげぇ」と思いきり顔をしかめる。
「マジかよ。俺はもう付き合わねぇからな!? どうせ眠りの魔法とやらで強制的に眠らされんだから、無駄な抵抗だぞ!? つーか病人はさっさと寝ろっ!」
矢継ぎ早に言って、ぷいと背を向けた。
彼女は「えー、つれないなぁ」「もう散々寝たもん」なんて駄々をこねていたけれど、
「さっきあくびしてただろっ!」
冷たくはねつける。
もうこれ以上は、心臓が持ちそうになかった。
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