この上ない喜び


 *


 体に負担をかけないよう、できる限り物静かに過ごす。母の言いつけを守って、規則正しく生活し、バランスの取れた食事をする。

 学校の休み時間はたいてい教室の隅で本を読み、それに飽きると、校庭で遊ぶ子供たちをぼんやりと眺めた。まるで、けっして入り込めないテレビ画面の中の光景を見るかのように。

 そんな灰色の日々に一筋の光が差し込んだのは、本当にひょんなことからだった。どうして今まで気づかなかったのだろうと思うほど。

 それは中学一年の夏、国語の授業で初めての中間テストを返却されたときのことだ。

「島谷さん」

「はいっ!」

 数名の生徒に続いて名前を呼ばれ、少し緊張しながら教卓の前に立つと、

「とってもよくできていましたよ」

 国語教師の女性はそう言ってやわらかに微笑み、問題用紙と解答用紙を差し出してくる。

 思わぬ言葉に不意をつかれてきょとんとした後、脳が意味を理解すると、にわかに焦燥感しょうそうかんの入り混じった喜びが湧き上がってきた。

 急いで用紙を受け取り、足早に席へ戻って確認してみる。

 92。

 満点に届くまで二桁もない数字を目にしたとたん、喜びが一気にその色を濃くした。

 間違いがひとつと、部分点の問題がひとつあっただけで、あとはすべて正解。一瞬、誰かのものと入れ違ったのではないかと疑ったが、氏名欄には、たしかに自分の名前が書かれている。

「ウソ……」

 思わず、驚きが漏れる。

 信じがたいけれど、証明するものが目の前にあるのだから、これ以上疑いようもない。

 何度確認しても、同じこと。

 考えてみれば、昔からテストの出来は悪くなかったけれど、小学校の頃なんてよほどでない限りみんなそれなりの点数は取っていたし、そもそも自分のレベルを気にしたこともなかった。

 まさか、こんな私が……?

 いや、待て。思い上がるな。たまたま国語だけよかったという可能性も充分にあるじゃないか。

 そんな自分へのささやかないましめも、嬉しいことに思い過ごしに終わった。

 全五教科、八十点以上。

 最も自信のなかった数学でさえ、ギリギリのところでその枠を外れることはなかったのだ。

 己のこととは思えない驚きは、やがて「これだ!」という自信に変わった。

 勉強なら、病弱な自分でも周囲と対等になれるのだと。

 そう気づいてからは、ただひたすらに、夢中になって勉強した。学習はスポーツと違って、あまり体力面を心配する必要もなかったし、才能なんていらない。高望みせず、きちんと理解していれば、努力したぶんだけ結果がついてくる。

 母や教師に好成績を褒められるたび、この上ない喜びを味わった。

 認められるってこんなに嬉しいことなんだ、と。

 貧弱ひんじゃくな体のせいで、これまでどんなことにもチャレンジすら許されなかった私にとって、それは救済とも言える発見だった。

 同年代の多くは億劫おっくうに思いながら渋々こなしているだろうことに、楽しさや希望を見出せる自分が、ちょっとだけ誇らしくもあった。


 ささいなきっかけから優等生の地位を獲得し、相変わらず大変とはいえ、充実した日々に変化が起き始めたのは、中学三年の夏の終わり頃だったと思う。

「あれ?」

 その日、登校してみると、なぜか下駄箱の中に上履きがなかった。

 しかたなく担任に事情を説明してスリッパを貸してもらい、教室まで行ったら、出入り口付近のゴミ箱にそれが捨てられていた。拾い上げて自分のものかどうか確認し、軽く汚れをはたいてそのまま履く。

 忍び笑いを背中に聞きながら、忘れないうちにスリッパを返しに行った。びっくりしたし不快だったけれど、別に悲しくはなかった。

 妙なことはそれから毎日続いた。

 聞こえよがしに悪口を言われたり、「バカ」「ブス」なんていう暴言を書き殴った紙切れを机に入れられたり、廊下でぶつかられたり。

 幼稚な攻撃の数々が、二,三人の男子グループによって意図的に行われていることは、すぐに分かった。

 世間的にはこれを「いじめ」と呼ぶのかもしれない。

 でも、さほど気にならなかった。彼らほどあからさまではないにせよ、自分が周囲からうとまれているという自覚はあった。

 出る杭は打たれるものである。それが、自分のような陰気で内気な人間であれば、なおさらだろう。

 彼らは、大勢の声を代表して、行動に移しているだけなのだ。

 それに、こう言うと語弊ごへいがあるかもしれないが――彼らの意思表示は、ちょっとした喜びですらあったから。

 幼い頃はみんな自分のことに精一杯で、隅で孤立している私を好奇心以外で気に留める者はいなかった。いざ成長してみれば、それとなく距離を置きながら、腫れ物に触るような扱いをしてくるか、「あの子いつもああだよね」と日常の一部として受け流すかに分かれただけ。

 友だちなんていなかった。家族や教師を除けば、私――島谷ふうかという人物は、誰の心にも存在していなかったのだ。

 だから、曲がりなりにも彼らの心の中には自分の居場所があるのだと思えば、非情な振る舞いも自然と許すことができた。客観視してみると、我ながらおかしな考えだなとは思うけれど。

 彼らはきっと、ターゲットが疲れ果て、破滅していく様を期待していたのだろう。けれど、ちっとも効果が見られないから飽き飽きしてしまったようで、嫌がらせは次第に勢力を弱めていった。

 ただ、そんな中でも、しつこく粘り続ける男子がひとり。

 彼が元々は将来有望な野球少年で、女子たちから密かに憧れの眼差しを向けられていた瀬戸卓也だったこと、その挫折や苦い過去について知ったのは、卒業を間近に控えた頃だった。

 攻撃はけっして派手なものではなかったし、彼の苦労を知ってからは、私ごときでストレス発散になるならと今まで通り平然とあしらっていたけれど、だからといって彼が飽きることはなく、それは卒業する前日まで執拗しつように続いた。

 卒業式を終えて自宅に戻り、自室でほっとため息をついたとき、とたんに肩の荷がおりた気がした。

 真っ先に浮かんだのは、瀬戸卓也の顔。彼にはもう会いたくないと思った。

 私が進学するのは、自宅から一番近くにある地元の高校だ。担任には成績の良さから都内でも名高い進学校を薦められたが、金銭面と体のことを配慮して断った。

 偏差値はそれほど高くないけれど、瀬戸卓也の学力は校内で最下位を争うレベルだったらしいので、間違っても顔を合わせることはないだろう。

 これで縁は切れるはずだ。

 そんなことに考えをめぐらせてから、ふと思った。

 ――私、瀬戸くんのこと、怖かったんだな。

 気を張って強がっていたつもりも、自分の気持ちを偽ってきたつもりもない。でも、彼の非情さを許容する一方で、どこか恐怖を感じていた自分がいたことに、このとき初めて気がついた。

 彼に対して恨みや憎しみこそ抱いていないけれど、けっしていい人だとは思わない。月並みな考えだけれど、自分が辛い思いをしたからといって、他人を傷つけていい理由にはならない。

 彼が私を嫌いなように、私も彼が嫌いだ。

 そりが合わない相手にまで、優等生でいるのはやめよう。もうこれっきり縁は切れるだろうし、別にいいじゃないか。

 そうやって自分の中で区切りをつけたはずだったのに――今、いくつもの偶然が重なって、二度と会いたくないと願ったはずの彼と、とても不思議な関係にあるのだ。

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