愛の証


 *


 家族みんなで川の字になって眠った最後の夜のことは、今でもよく覚えている。

「ねぇパパ。パパがいなくなっちゃうのは、ふうかのせい? ふうかが、びょうきだから?」

 左隣に寄り添う父のほうを向いて尋ねると、父は哀しそうに眉を下げた。

「それは違うよ。ふうか」

「じゃあ、どうして? ねぇ、なんで?」

 納得できず縋るように訊き返せば、「パパの言う通りよ」と反対側から母の声。

 はっとして、今度は母のほうに寝返りを打つ。

「ママがいけないの。一緒にいると、パパを傷つけちゃうから」

 母はそう言って「ごめんね……」と震える声で謝り、優しく抱きしめてくれた。背中から、ふわりと父のぬくもりが重なる。

 私の心臓は、物心ついたときから欠陥品けっかんひんだった。

 生後間もない頃に医師から告げられたという。いまだ原因が解明されていない難病で、完治する方法は臓器移植しかないらしい。

 ちょっと走っただけで息が切れ、大きな発作が起きるたびに死が脳裏をよぎる。そんな体では、当然、他の子供たちと同じ生活は望めなかった。

 小学校に上がると、一緒にぬいぐるみで遊んでいた友だちが、グラウンドを駆け回るようになった。体育の授業ではリレーや鉄棒をし、夏になれば、広いプールで気持ちよさそうに泳いで、水をかけ合ってはしゃいだ。

 でも、私には全部、できなかった。

 ――みんなと同じことができない。私は、みんなと違うんだ……

 いつからか、悪い種が芽吹くように生まれた疎外感そがいかんは、心身の成長とともにその存在を大きくし、まだ無垢むくな私の心を押し潰していった。

 私本人だけではない。ゆっくりと確実に進行していく病魔は、家族の気持ちや関係さえも次第に壊していった。

 母がヒステリックに癇癪を起こし、父はわけも分からず謝りながら、困ったようにそれを見つめている。そんな光景も、気づけば日常になっていた。

 そして小学二年の冬、ついに父が家を出ることになったのだ。きっと私のいないところで、何度も話し合いを重ねていたのだろう。

 両親のあたたかさに包まれた私は、目の奥が熱くなり、鼻の奥がつんとするのを感じた。

 ――いけない。ないちゃダメだ。ないたらパパとママがこまっちゃう。

 目尻までせり上がってきた涙を、必死になってこらえる。

「でもね、ふうか。これだけは信じて。ママは別に、パパのことが嫌いになったわけじゃないの」

 母の言葉に、涙声で「パパも? パパもおんなじ?」と問うと、当たり前だとでも言いたげに、背中でふっとやわらかな吐息が聞こえた。

「もちろん。ママのこともふうかのことも、大好きだよ」

 それならどうして行ってしまうのだと、当時はそればかり思っていたけれど、今なら分かる。大好きだからこそ、愛しているからこそ、私たちは距離を置く必要があったのだ。

 嫌いになってしまわないように。これ以上、壊れないように。

「ほら。だから、サヨナラじゃないのよ?」

「みんなが元気になったら、また一緒に暮らせるから。それまで少しだけ、ね?」

 その夜は、やっぱり我慢できずに、ちょっとだけ泣いた。

 ちょっとだけのつもりだったのに、パパとママが優しくてあったかいから、涙が止まらなくなってしまった。

 結局、その夜は泣きながら眠った。


 翌朝は、家の中が妙に静まり返っているように感じた。

 玄関で靴を履く父。

 その背中を見つめながら、時が止まってしまえばいいのに、なんて思った。

 でも、小さな私の小さな願いは、届かない。

 やがて父は立ち上がってゆっくりと振り返り、

「いい子にするんだよ」

 そう言って、玄関先で見送る私の頭を撫でた。

 荷物は、右手に握られた茶色いトランクひとつだけ。たったそれだけが、私には、父がものすごく遠い場所へ行ってしまう証明のように思えた。

 幼い子供には、ちょっとした違いが必要以上に大袈裟に映ってしまうものだ。

「ママを困らせないように」

 穏やかな口調を崩さず言う父に、

「うんっ!」

 精一杯、元気な返事をする。

 昨日たくさん泣いたから、今日は絶対泣かないんだと、そう心に決めていた。

 悲しいのは私だけじゃない。それを、強く感じたから。

 私ばかりいつまでもメソメソしているのは、ずるい。

 そんな私に、父は少し切なげに微笑むと、

「あっ、そうだ」

 思い出したようにコートの内ポケットを探りだす。

「お守り」

 差し出されたのは、赤いチェック柄にリボンがあしらわれた小袋。

 私はそれを、少し不思議に思いながら受け取る。

「ありがと。……開けてもいい?」

 今度は自然と明るい声が出た。突然のプレゼントは、悲しい気持ちをほんのちょっぴりやわらげてくれた。

 父も嬉しそうにうなずくのを見て、私はいそいそと、でも丁寧に封を開けた。

 中から顔を出したのは、シンプルでいてどこかおしゃれな、デニム生地のポシェットだった。

 私は嬉しさでぽっと頬が上気するのを感じ、さっそくそれを肩から斜め掛けすると、

「にあう?」

 モデルのようにくるりと一回転してみせた。

「うん。とっても」

 父は満足そうに答えて、もう一度私の頭を撫でた。

 そして、本当に行ってしまった。

 いつか、必ず帰ってくるから。――そんな誓いを最後に。

 悲しかったし寂しかったけれど、ポシェットの魔法のおかげで泣かずに済んだ。父の誓いを信じて、笑顔で痛くなるほど手を振った。

 きっとまた会える。笑って一緒に暮らせる。

 昨日の夜に聞かされたことを、心の中で何度も繰り返しながら。

 でも、あの日から十年が経とうとしている今も、現状は変わらないままだ。

 ときには、あの夜の言葉も父の誓いも、すべては大人の建前だったのではと疑うこともあった。けれど事実として籍は抜いていないようだし、父とは月に一度は面会をする。発作で倒れれば、血相を変えて飛んできてくれる。

 それらは私にとって、どんなにきらびやかなアクセサリーや、甘く優しい言葉より信頼できる、紛れもない愛の証だった。

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