「頼むから」
*
ポシェットの中に入っていたのは即効性のある薬だったようで、服用した瞬間からふうかの顔にはみるみる血色が戻り始め、救急車に乗り込んで病院へ着いたときには、すっかり落ち着きを取り戻していた。
俺はそれらを拒絶するように、室内をうろつきながら苦々しく顔をしかめた。
病院は苦手だ。どうしたって思い出してしまうから。
閉ざされた未来。弱っていく母。バラバラになった家族。
思った以上に早く終わりを告げてしまった人生のうちで、どん底と言っても過言ではないほどの、悪夢の日々を。
まぁ、よほど腕のある先生に助けてもらったとか、同室の誰かと大親友になったとか、そういうドラマチックなエピソードでもない限り、病院は辛くて当たり前の場所なのかもしれないけれど。
ベッドから体を起こし、窓を見つめて黙りこくっているふうか。三つ編みがほどかれた長い黒髪は、朝と同じように波を打っている。でも今はそれを、かわいいと思う余裕もない。
何か諦めたような表情のまま一向に口を開こうとしない彼女に、どう声をかけたものかと悩んでいると、
「ふうかっ!」
あわただしく病室のドアが開き、頭の後ろでひとつに束ねた髪を揺らしながら母親が病室に駆け込んできた。よほど急いだらしく、激しく息を切らしている。
後を追って入ってきたのは、痩せぎすの男性。初めて見る顔だけれど、もしかして父親だろうか。くしゃくしゃとした癖のある黒髪と、黒縁眼鏡から覗く少し頼りなさそうな瞳が、どことなくふうかに似ていた。
「もう、また勝手なことして! こうなるといけないから、ひとりで遠出はしちゃダメだって、いつも言ってるじゃない!」
呼吸を整えてベッドに歩み寄るなり、荒く語気を強めた母親に、ふうかは「ごめんなさい……」としおらしくうなだれる。
「どこ行ってたのよ」
しかし、続けられた質問には、鋭い視線を返した。
「勝手に出かけたのは謝る。だけど、どこに行ってたかなんて、ママには関係ないことでしょ?」
娘の反抗的な一言に、母親は瞳に確かな怒りを宿す。頬を張りそうな勢いだ。
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃないか。無事だったんだから」
すかさずとげとげしい雰囲気を察知した父親が、やんわりと口を挟んだ。だがそれも逆効果だったようで、母親はますますいきり立つ。
「あなたは黙ってて。だいたい、あなたがいつもそうやって甘やかすから――」
怒りの矛先が父親に向いたそのとき、病室のドアが規則正しくノックされ、
「島谷さん、先生がお呼びですので、少々よろしいですか?」
まだ経験の浅そうな若い女性看護師が顔を覗かせた。
「あ……はい」
「分かりました」
ふうかの両親は、何事もなかったかのように会釈して返事をすると、看護師についてしずしずと病室を出る。
ドアが閉められる音を最後に、暗く淀んだ空気が降りた。
「今年は、ひとりじゃなかったんだけどな……」
再び窓に視線を戻し、心なしか悔しそうに呟いたふうかに「大丈夫か?」と訊こうとして、やめた。
バカみたいだ。あんなの、大丈夫じゃない。大丈夫なわけない。
だから代わりに、
「どうしたんだよ……」
さっき言えなかった言葉をかけた。
すると、
「……たまにあるんだ」
ふうかは静かに答える。それから、ゆっくりとこちらを振り返り、
「たいしたことじゃないの。ほんとに、大丈夫だから」
なんの説明にもならない言葉をぎこちない笑顔に包み、瞳で訴えかけてくる。
もう、これ以上は聞かないで――と。
申し訳ないがお断りだ。俺はそこまで優しくない。それは、彼女もよく知っているだろう。
「突然ぶっ倒れて救急車で運ばれといて、たいしたことないって。そりゃあねぇだろ。お前、俺をどこまでバカだと思ってんの?」
「あの海ね」
彼女はことさらに声のトーンを明るくする。偽りと、拒絶の明るさ。
「まだパパと一緒だった頃、家族みんなでよく行ったんだ」
「……逃げんなよ」
「離れて暮らすようになってからも、夏になると私ひとりでこっそり行ったりしてたの。たぶん、ママが知ったら嫌がるから。海だけは、今までバレたことなかったのに――」
「オイッ――!」
たまらず声を荒らげると、彼女は驚いて怯えた小動物のように肩をすくめる。
はっとした。
「ご、ごめん……」
我に返った俺はか細い声で謝罪をこぼして俯き、唇を噛み、拳を握り締める。
腹が立ってしかたがなかった。彼女が重大な秘密を隠し持っていたこと、それを頑固に語ろうとしない態度にもだが、何より自分自身に。
初めて会った日に動物病院まで走ったとき、やたらと長引いていた息切れ。年齢のわりに早すぎる就寝時間。
――今日で冬も終わるんだ。なんか、ほっとするなぁ。
――見るだけだから持ってきてない。泳ぐのは嫌いなの!
彼女の何気ない言葉。
そして、肌身離さず持ち歩いていたポシェット。春先の軽い体調不良だって。
今思えば、小さな疑問が、ヒントがそこかしこにあったのに、それを深く考えようともせず、のうのうと過ごしていた自分が不甲斐なかった。許せなかった。
こんなに、近くにいたのに。
俺は、おもむろにベッドの脇へ歩み寄ると、片ひざをついてふうかと視線を合わせた。
「なぁ、俺って家族なんだよな?」
自ら発した言葉に胸の奥が鈍く痛んだけれど、気づかないふりをした。
ふうかは首だけで小さくうなずく。
「だったら、ちゃんと教えてくれよ。俺、今日逃したら三ヶ月お預けなの知ってるだろ?」
じっと見つめても、返事はなかった。
普段は聞き分けが良すぎるくらいの彼女が、こんなにも必死に隠したがっているのだ。相当知られたくない何かがあるのだろう。
無理を強いていることに、心が痛まないと言えば嘘になる。けれど、こちらだって引き下がるわけにはいかない。
これは義務だ。そう――家族としての。
「頼むから」
なおも
浜辺で倒れたとき、痛みを
そして、覚悟を決めた眼差しで、言った。
「私の
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