🐾変化の夏 揺れる想いと君の秘密
「海が見たい」
「よっ、おはよ」
ふうかがもぞもぞと動きだしたのを見計らって、上からひょっこり顔を覗かせると、彼女は薄目を開け、丸くし、それからふっと細めた。
「卓也……」
眠気の残る声で名前を呼んだ彼女に、俺は姿勢を正してにっとはにかんでみせる。
「お前の憶測、合ってたみたいだぞ」
そう。今日は五月五日――立夏だ。彼女が待ち望んでいた日。夏の、始まりの日。
その言葉に、また目をぱちくりさせて布団から起き上がり、
「へぇ、こんなことって本当にあるんだね。半分くらいは妄想のつもりだったんだけど……」
カレンダーを眺めてぼんやりとこぼしたかと思うと、緩く波打つような癖のある髪を、枝毛でも探すようにいじり始めたふうか。まだ今ひとつ頭が働いていないようだ。
そんな無防備な寝起き姿に、俺はくすぐったいような気持ちを覚えながら咳払いをし、
「で? どっか行きたいとことかないわけ?」
意図してあの朝と同じ台詞を投げかけた。すると、彼女は顔を上げ、「へ?」と目を丸くする。完全に立場が逆転していて、思わず笑ってしまった。これで眠気も吹っ飛んだことだろう。
「今日はお前のしたいことに付き合ってやるよ。三ヶ月前のお返しだ」
そう言うと、彼女はようやく
「でも、お返しならもう――」
「俺がいいっつってんだからいいの。ほれ、言ってみ?」
深夜、人間の姿に戻ったときから、今日はこうしようと決めていた。
渋るふうかを少々強引に押し切り、堂々と構えてみせると、彼女はしかたないなというふうに微笑んで、
「うーん、そうだなぁ。じゃあ……」
思案するようにあごに手を当て、天井を見上げる。
程なくすると、すっとこちらを見つめて顔をほころばせた。
「海が見たい」
しばらく電車に揺られてやってきたそこは、ゴールデンウィーク中のためか、たくさんの家族連れでにぎわっていた。
空が、太陽の光が、世界が眩しい。それは、大人に隠れて馬鹿をやっていた時期には、見ようともしなかった景色だった。
もっと素直で、きれいなもの。
ふたり並んで砂浜に座り込むと、ふうかは凝り固まった体をほぐすように大きく伸びをする。
「お前、水着は?」
ちょっとからかってやろうかと横顔にそう話しかけたら、彼女は「なによ、いきなり。もう、卓也のエッチ!」とそばかすが目立つ頬をほんのり赤く染めた。
「見るだけだから持ってきてない。泳ぐのは嫌いなの!」
「なーんだ、つまんねぇ。お前、夏も嫌いなのか?」
「夏じゃなくて、泳ぐのが! っていうか入るにはまだ早いでしょ」
「わぁー!」
楽しそうな
爽やかな風が、夏らしい紺色のワンピースと、お馴染みの三つ編みを揺らす。
麦わら帽子が飛ばされないよう片手で押さえながら、子供のようにはしゃぐ後ろ姿は、静かにたゆたう白波と青によく似合った。
問答無用で対象外、のはずだった。
なのに、いつの間にか芽生えた想いは、月日を重ねるたび、じわりじわりとこの胸をしめつけていく。
きっと環境がよくなかった。そばかすだらけのブサイクで、自分の殻に閉じこもった根暗で、癪に障る優等生。そんな不格好な容れ物の内側が、あまりにも純粋かつ繊細だということを、ひとつ屋根の下、嫌というほど見せつけられてしまったから。
分かっている。彼女と自分はあくまで飼い主と飼い猫であって、こうして三ヶ月に一度、ちょっと不思議な関係になるだけ。
それ以上でも以下でもない。それ以上に、なってはいけない。
「ねぇ、卓也も――」
おいでよ、とでも言おうとしたのだろうか。
でも、答える間もなくそれは途切れて、彼女の背中がふっと視界から消えた。
「ふうか……?」
そこでようやく気づく。――砂浜に、倒れ込んだのだ。
「ふうか……!?」
一泊遅れて緊急事態を認識した俺は、あわてて彼女のもとへ駆けつけた。
傍らでひざをつくと、彼女は蒼白い顔をして苦しそうにあえぎながら、心配かけまいとしているのか、かすかに口角を持ち上げる。
どこか遠くを見つめているような、
「だい、じょう……ぶ。ちょっと、はしゃぎすぎちゃ――っ!」
消え入りそうな声で言いかけて、痛みをこらえるように顔をしかめた。
よく見ると、胸の少し左側を片手でぎゅっと押さえている。
「痛いのか? おい、どうし――」
肩に手をかけて抱き起こそうとして、現実を突きつけられた。
そうだった。自分は彼女に触れることすらできないのだ。助けを呼ぼうにも、姿も見えなければ声も届かないのだから意味がない。
じゃあ、どうすればいい? 何ができる? いったい、何が……
考えようとすればするほど頭の中が真っ白になり、彼女が痛みを訴えているのと同じ個所が、狂ったように早く脈打っているように感じる。もう、体なんてないくせに。
激しいいら立ちと焦りを覚えながらも、成す術なく呆然としていると、
「どうしました!?」
「大丈夫ですか!?」
事態に気づいたカップルらしき男女が駆け寄ってきた。反射的に立ち上がってスペースを空ける。自分にできることはこれくらいだ。
「く、すり……ポシェットの中に……取って……」
もはや喋ることもままならないらしい。
しかし、苦しげな彼女の訴えを聞いた瞬間、今日までなんとなく腑に落ちなかった違和感のすべてが、重大な意味を持った気がした。
不吉な予感が体を這う。この胸騒ぎ――知っている。
誰かに否定してほしかった。
俺の考えすぎだ。
いくら自分に言い聞かせたところで、一度生まれてしまった疑惑はそう簡単に消えてはくれない。
「薬? これですか?」
ポシェットの中から錠剤を取り出し、ふうかに見せる女性。
「今、救急車呼びますね」
そう言ってスマホを取り出し、落ち着いた様子で耳に当てる男性。
俺はただ、見知らぬふたりの冷静ですみやかな対応を、どこか絵空事のように、少し遠くから眺めていることしかできなかった。
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