「いいね」

 

 *


 今日このときまで、彼女は俺の嫌がらせなど、気にも留めていないのだと思っていた。痛くもかゆくもないのだと。

 でも今、瞳を見て分かった。それは違う。

 本当は、怖くて怖くてしかたがなかったのだ。

 遅すぎる罪悪感が胸を覆い、今まで「ウィン」として築き上げてきた彼女との信頼関係が、音を立てて崩れていくような気がした。そしてそれを嫌だと、むなしいと思ってしまった。

 身の程知らずもいいところだ。

「えっと、あっ、っと……」

 突然取り戻した記憶と、様々な想いにすっかり取り乱していると、彼女がこちらを見つめたままそっと唇を動かした。

「――いで」

「え……?」

 うまく聞き取れず、混乱が渦巻く頭で訊き返す。

「逃げないで」

 今度こそはっきりと耳に届いた一言に、頭を殴られたような衝撃を覚えた。

「私も逃げない。だからここにいて。いつもみたいに」

 続けられた言葉で気づく。どうやら彼女は、俺がウィンであることを瞬時に理解したらしい。他に誰もいないのだから、ちょっと考えれば分かったかもしれないけれど。

 言いようのない戸惑いの中にいる俺には、言われた通りに行動する程度の思考力しかなかった。指示に従い、ロボットのようにぎこちない動きで、彼女に背を向けて横になる。

「とりあえず今は寝よう。私もパニックになってて冷静に話せる気がしないから。もしかしたらこれ、夢かもしれないし。そうだよ、夢だよ。私とウィンが同じ夢見てるんだよ、きっと」

 必死に説得するような彼女の言葉に、ひとまずうなずいて目を閉じたけれど、眠れるはずがなかった。

 だって、同じ年頃の異性と、狭い部屋にふたりきりだなんて。ましてや、一枚の布団の中で寄り添って眠るなんて。

 猫の姿ではなんの疑問も抱かずやっていたことだけれど、なんならついさっきまでぴったりくっつくほどの勢いだったけれど、一度意識してしまったらもうダメだった。

 背中で、パジャマのこすれる音が何度も聞こえたから、きっと彼女も眠れなかったのだろう。


 結局、日が昇っても、俺の体は人間――正確に言えば「幽霊」のままだった。

 どちらからともなく後ろを振り返り、

「おは……よう……」

「お、おう……」

 上の空で挨拶を交わす。

「夢じゃ、なかったみたいだね……」

「だな……」

 案の定寝不足らしい彼女の顔は腫れぼったく、目はひどくうつろ。きっと自分も似たような状態なんだろうなぁ、と働かない頭で思った。

「とりあえず」

 彼女は布団から起き上がると、

「状況を整理しよっか」

 そう言ってその場に正座し、威嚇する獣の警戒心でも解くように、やわらかな口調で続ける。

「教えてくれる? どうして、猫の姿で私の前に現れたのか」

 彼女の言葉に後押しされ、俺も向かい合って正座すると、これまでのいきさつをぽつりぽつりと話した。

 バカとしか言いようがない死に方をし、数年前にがんで亡くなった母にあの世とこの世の狭間でこっぴどく叱られて、危うく地獄に落ちかけたこと。転生のチャンスをもらい、黒猫へと生まれ変わったこと。空腹で行き倒れていたところを、偶然助けてもらったこと……

「なるほど」

 一通り話し終えると、彼女は腕組みしながら二,三度深くうなずいた。

 一般的に考えれば、かなり非現実的な話だと思うのだが、あっさり納得したようだ。深夜から続く一連の流れが、そういった感覚を麻痺させているのかもしれない。

「でも、今なんでこうなってるのかは、俺にも分からない」

 俺が薄く透けた両手のひらを見つめながらこぼすと、彼女は「あぁ、それね。私も色々考えてみたんだけど」と言って腰を上げ、壁にかけられたカレンダーの前に立つ。

「昨日はなんの日だったか、覚えてるよね?」

 突然の問いに、

「節分だろ?」

 小首をかしげながら答えると、彼女は「そうです」とまた大きくうなずいた。

「昨日も言いましたが、冬はもう終わり。こよみの上では今日から春なのです」

「うん。で?」

 じれったくなってきて思わず声が尖る。長ったらしい話は嫌いだ。

「日本にはきちんと四季があります。ということは、季節の変わり目も四回あるということ」

 安っぽい教師口調のまま、彼女は、

「今日、二月四日が立春、五月五日が立夏……」

 カレンダーをめくりながら、口にした日付を順に指で示していく。

「八月七日が立秋、十一月七日が立冬です」

「はあ」

 投げやりな返事に、ようやくこちらのいら立ちを感じ取ったのか、

「でね」

 と口調を崩した。

「ちゃんと時計見てたわけじゃないから断言はできないんだけど、あなたが現れたとき、夜中の十二時を回ってた――日付が変わってたと思うの。つまり私が言いたいのは――」

 そこまで言ってこちらに駆け戻ってくると、ひざをついてぐいと顔を寄せ、

「季節が変わったその日だけ、人間の姿に戻れるんじゃないかってこと!」

 無邪気な子供のように瞳を輝かせて叫んだ彼女に、思わず体をのけぞらせる。

 一応筋は通っている気がするが、そんなこと、本当にありえるのだろうか。

 俺が経験したこと以上にファンタジックな仮説を熱く語る彼女は、島谷家へ初めて連れてこられたときに見た、母親の姿に通ずるものがあった。あまりの気迫に、茶化すこともできない。やっぱ親子なんだな。

 それにしても、今まで特に意識したことがなかったけれど、近くで見ると、彼女はきれいな目をしていた。

 黒くてきれいに澄んだ目。

 一瞬でもそんなことを思ってしまった自分にやましさを覚え、ぷいとそっぽを向く。

 彼女はその瞳で、これまで何を見てきたのか。

 きっと自分とは全然違うものを見て、全然違う受け止め方をしてきたのだろう。

 住む世界が違う、というやつだ。

 どうせ、俺なんて。

 昨夜の嫌な記憶を引きずっているせいか、自分でも知らぬ間にひねくれモードに入っていると、

「ふうかー?」

 遠くから母親の声がした。足音もだんだんと近づいてくる。

 まずい。

 気難しそうな母親のことだ。知らない男が娘の部屋に侵入しているなんて知られたら、どうなることか。

 もしかしたら発狂して、警察に通報されるかもしれない。もう警察沙汰はごめんだ。

 とっさに布団の中に身を隠そうとした俺を、

「待って。隠れなくていい」

 やけに落ち着き払った声が制した。

「けど……」

「大丈夫だから。たぶん」

 今ひとつ信頼性に欠ける一言を重ねられ、渋々ながら胡坐をかく。

 ――なんだよそれ。修羅場んなっても俺は知らねぇからな?

 ひとりでむくれていると、どれほども経たないうちに母親が出入り口のドアから顔を覗かせた。

 目が合った。

  と思ったのだが、彼女はまったく驚いた素振りも見せず、娘のほうへ視線を移す。

「休みだからっていつまでゴロゴロしてるの。起きてるなら朝ごはん食べにいらっしゃい」

「うん。今いくー」

 のん気な返事をした彼女に、「早くしてね」と言い残し、そのまま去っていってしまった。

 しばしの沈黙。

「ね? 言ったでしょ?」

「そのドヤ顔やめろ。ムカつく」

 どうやら俺の姿は、全員に見えるわけではないらしい。むしろ、ふうかにしか見えないのかも。

 まあ幽霊なのだから、当たり前と言えば当たり前か。

「うーんと、それで、話を戻すけど」

 こちらの不機嫌な態度を気にかける様子もなく、彼女は姿勢を正しながら相変わらずのんびりと話しかけてくる。

「どっか行きたいところとかないの?」

 予期せぬ問いかけに、俺は「は?」と目を丸くした。

「だってさ、さっき話したことはあくまで私の憶測だし、またいつこの姿に戻れるか分かんないよ? 肉体があるわけじゃないからできることは少ないかもしれないけど、もし、『ここ行きたい!』とか、『あれやりたい!』とかいうことがあったら、今のうちにやっておかないと」

 今日は週末だから私も付き合ってあげられるし、と微笑む彼女を見つめながら、俺はぽかんと口を開けた。見つめ返す彼女の瞳は、真剣そのものだ。

 そして、

「……家族に、会いたい」

 開いた口からこぼれ出た言葉に、自分が一番びっくりした。

 ――何を言ってるんだ!? 俺は。

 数ヶ月前の自分が聞いたら、「ハハッ。マジかよ、お前」なんてあざ笑うだろうか。

 とたんに恥ずかしさが込み上げてきて、顔が一気に熱くなる。頭の中が混乱して、言い訳を並べる余裕すらない。

 でも彼女は、馬鹿にするわけでも、からかうわけでもなく、ただ生真面目な表情をふっとやわらげて、言った。

「いいね」

 どこまでもひたむきで、優しげな眼差し。彼女の瞳は、やっぱりきれいだ。

「会いに行こう。卓也の家族に」

 卓也、と名前を呼ばれた瞬間、それは胸の奥で何度もこだまして、じわりとみわたっていくようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る