死の淵に立たされるまでは
*
俺は、幼い頃から野球が大好きなわんぱく坊主だった。中学に上がると、もちろん野球部に入部。
好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。メジャーリーグを夢見て練習に打ち込むうち、めきめきと上達していった。
夢が現実になる日もそう遠くない。俺はもちろんのこと、周りの誰もがそんな淡い期待を抱いていた。だからこそ、過酷なトレーニングにも耐えられた。
しかし、順調だった夢への道のりは、あまりにも突然に閉ざされた。
三年の夏、中学時代最後の大事な試合を目前にして、ひじを壊してしまったのだ。
選手生命を絶たれ、失望する俺に追い討ちをかけるかのように、さらなる災難が降りかかった。
これまで、風邪らしい風邪もめったに引かなかった母が、突如大病に侵されたのだ。進行性の乳がんだったらしく、気づいたときにはすでに手遅れ。入院してわずか二ヶ月でこの世を去った。
もう何もかもどうでもいいと、たまりにたまった鬱憤をどうにか晴らしたいと
彼女はけっして目立つタイプではなく、教室の隅にひっそりと身を隠して過ごすような、いわゆる「ぼっち」だったのだけれど、どういうわけか成績だけは優秀だった。
野球ばかりに打ち込んでいたせいで勉強のほうはさっぱりだった俺は、定期テストの返却時などに、彼女が教師に「よくできてたぞ」なんて褒められている姿を見るたび、悔しさに奥歯を噛んだ。
――なんであんなやつが。
普段は影を潜めているくせに、こういうときだけしゃしゃり出てくる。それが、なんの苦労もしないで栄光だけを手にしているようで、無性に腹立たしかった。
俺はこんなに苦しんでるのに。唯一の特技も夢も奪われて、もう、何もできない。何も、残っていない。
なのに誰も助けてくれない。
この世はいつだってそうだ。金があるやつのところにばかり金は回ってくるし、恵まれているやつに限ってチャンスが与えられる。
みんな、自分と同じ苦しみを味わえばいいのにと、ずっとそう思っていた。
ある日、野球を辞めて以来つるむようになった同じ中学の悪友たちと夜道を歩きながら、
「なぁ、なんか島谷ってムカつかね?」
たまらず不満を漏らしたのが、すべての始まりだった。
俺のぼやきに、ふたりは怪訝そうに足を止める。
「は? 島谷? 誰だそれ?」
「……あー、ダサ子のことか」
ひとりが答えた何気ない一言に、俺は「ダサ子?」と自分の口の端が意地悪く歪むのを感じながら訊き返した。
「なんか、女子の間ではそう呼ばれてるらしいぜ?」
――なんだ。あいつ、女子からも嫌われてんのか。
「俺のカノジョが言ってた。『今時三つ編みおさげとかありえなーい』って」
「ハハッ。たしかに」
まるで本人に直接仕返ししたかのような爽快感を勝手に覚えながら、こらえきれずに噴き出して肩を震わせていると、
「あー! 言われてみりゃあいたなぁ。そんなやつ」
もうひとりもようやくピンときたらしく、声を張り上げる。
「アレだろ。テストでいっつもいい点取ってるブサイク」
「そうそう。そこがまたムカつくんだよなぁ」
「アニメから出てきた、根暗委員長的な?」
俺たちろくでなしの笑い声が、夜空に瞬く星までをも汚すように低く、そして大きく響いた。
ひとりではないことを知り、歪んだ自信を持ってしまった俺は、翌日から仲間のふたりとより結束し、本格的に島谷ふうかへの嫌がらせを開始した。
上履きを捨てたり、聞こえよがしに悪口を言ってみたり、思いつく限りの暴言を書き殴った紙切れを机の中に忍ばせてみたり。
さすがに暴力を振るう根性はないし、これ以上悪目立ちはしたくなかったので、小学生が仕掛けるようなちっぽけなことばかりやっていたが、それでも精神的ストレスは相当なものだろうとほくそ笑んでいた。塵も積もれば山となる、と言うように。
しかし、彼女は一向に壊れなかった。
廊下ですれ違っても、わざとぶつかっても、嫌な顔ひとつしない。それどころか、こちらなど眼中にないといった様子で見向きもせず、ダサ子の象徴である三つ編みを揺らしながら去っていく。
まさか、犯人を特定できていないのだろうか? いや、これだけ分かりやすくやっているのだ。そんなはずはない。
じゃあ、努めて平然を装っているだけ? そうも見えない。無理をしているなら、少なからず疲れや動揺が伝わってくるはずだ。
悪友たちも手応えのない嫌がらせに飽き、次第に離れていった。
いつか、気持ちの糸が切れるかもしれない。
そう思ってしつこく攻撃を続けたが、ついに卒業を迎える日まで効果は見られなかった。
やがて、都内でも筋金入りのヤンキー校として知られる高校に入学し、最も手短なストレス発散方法を失った俺は、ますます邪道に走った。
酒や煙草の味を覚え、ミリ単位だった髪は伸ばして剃り込みを入れ、耳にはいくつもピアスを付けた。そんな格好で夜遅くまで町中をほっつき歩けば、似たような趣味を持つ不良たちが自然と寄ってくる。
そうして形成された集団の中で、ふざけたことや、人に言えないようなことをたくさんした。ひとりではためらってしまうことも、仲間がいると罪悪感が薄れるから不思議だ。
俺だけじゃない。周りだってやっている。似たような思考をして、似たような道を歩んでいる人間が、自分の他にもたくさんいるのだ。
その事実は、中学時代と同じく、良くも悪くも俺を無敵にさせた。
気だるげな日々を刺激的に塗り替えてくれる、緊張感と
なんの価値もない人生だと分かっていたけれど、それでいい、俺はそうやって生きていくんだと、当然のように思っていた。
不良仲間との忘年会でバカ騒ぎした帰り道、わけの分からない激痛を最後に、死の淵に立たされるまでは。
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