「嘘だろ……」
*
俺――ウィンを迎え入れて数日が経つと、母親は毎日パートへ出るようになり、ふうかは近くの高校に通うようになった。急に小忙しく振る舞い始めた彼らを見て、不思議に思っていたが、すぐに思い当たった。そうか、冬休みが終わったのだと。
つい先日まで自分も人間だったはずなのに、そんなことにも気づけないとは。慣れって恐ろしい。
周囲の生活パターンに馴染んでくると、俺もまた、外を自由に散策するようになった。
しばらくしてそのことを知ったふうかは、「車に気をつけてね」と忠告したものの、過度な束縛はせず、何かあったときのためにと首輪に鈴を付けて、自宅の住所を書き込んでくれた。初めて会った日に彼女が選んだ、赤い首輪だ。
ふうかが学校へ行くのと同じ時間帯に外へ出て、昼になると、彼女がいつも置いていってくれるドライフードで空腹を満たすため一度ダイニングに戻る。そしてまた出かけ、日が暮れる頃に帰ってきて家族みんなで夕飯を食べる。
そんな飼い猫としての生活も悪くないなと思いながら過ごすうち、気づけば拾われてから一ヶ月ほどが経っていた。
二月三日――今日は節分だ。この家の豆まきは、瀬戸家とは比べものにならないほど物静かで上品だった。
瀬戸家では毎年この日の夜になると、鬼のお面をかぶった父に、大はしゃぎしながら我先にと豆をぶつけたものだ。それも、母が病に倒れてからはぱったりやらなくなってしまったけれど。
今となっては、数少ない楽しい思い出のひとつだ。
そういえば、今年は自分もいないのか。残された父やふたつ年上の姉は、今頃どうしているだろう。
母が亡くなってから、まだ何年も経っていない。度重なる不幸に、心を押し潰されてはいないだろうか。
ろくな人間でなかったことは自覚しているけれど、仮にも家族だ。いなくなって清々したなんてことはないだろう。そう思いたい。
とはいえ――父と娘だけの、ひっそりと暗い空間。あのふたりが。
想像しただけで息が詰まりそうだ。
中庭に面した窓際で夜風に吹かれつつ、しみじみと物思いにふけって苦い気持ちになっていると、
「今日で冬も終わるんだ。なんか、ほっとするなぁ」
ふうかが、升に入った大豆を庭先にまきながら、ぽつりとそんなことを呟いた。
――なんだよ。お前、冬嫌いなのか?
俺の問いかけは聞こえるはずもなく、
「まぁそんなのはカレンダー上の話で、まだまだ寒いんだけどね」
なんて言って、彼女は困ったように笑う。
程なくして豆をまく手を止めると、
「お風呂行ってくるね」
まるで何かを振り払うように、小走りで風呂場のほうへ向かっていった。
*
私は、脱衣所まで来ると足を止めた。
ちょっと本気で走っただけなのに、息が上がっている。
「もうっ……なんでっ……」
息を切らしながらこぼし、胸を抑えてうずくまる。
庭で独り言を呟くうち、だんだんと腹が立ってきたのだ。
悔しい。
これくらい私にもできる。そう思いたかった。
けれど、現実はいつだって容赦ない。
こんな自分、大嫌いだ。
*
――ん?
いつものようにふうかと同じ布団に入って眠り込んでいた俺は、妙な違和感を覚えて目を覚ました。
変な姿勢で寝ていたせいで体が痛いとか、トイレに行きたいとか、そういうよくあることではない。
もっとぼんやりしていて、説明のつかない感覚。
最初の頃は、律儀にケージの中で丸くなって寝ていたりもしたけれど、あそこはどうも狭苦しくて、隔離されているようで落ち着かない。それに、風呂上がりのふうかは、とてもあたたかくて心地いいのだ。いつの間にか、こんなふうに彼女に寄り添って眠るのが当たり前になっていた。
今日も、いつもと同じように眠ったと思うのだが。
――なんだぁ?
安眠を妨害されたことにいら立ちながら、俺はうっすらと目を開ける。すると、いつかのように人間の手があった。
ふうか――のものではない。彼女はいつも、自分と背中合わせで眠っているはずだから。だとすれば、いったい誰の……?
だんだんと眠気が飛び、鮮明になった視界に映った手のひらは、ぼんやりと薄く透けているように見えた。
意識がはっきりしてくるにつれ、もうひとつ、あることに気づく。下半身からまっすぐ、何か長いものが伸びているような感覚。
まさか。いや、でもそんなわけ……
半信半疑で体を起こすと、明らかに違った。もう忘れかけていた、かつて人間だった頃の感覚が、そこにはあった。
「嘘だろ……」
声が出る。きちんと言葉になる。
はっと視線を落とした先には、目覚めたときに見た手のひら。ゆっくりと前を見やれば、二本の脚があった。
人間に、卓也に、戻っている。――震えた。
けれどその輪郭はやはり曖昧で、どこか浮遊しているようにおぼつかない。母の声に導かれて空の上へ昇った、あのときのように。
そう、まるで……
真っ先に浮かんだ疑惑を確かめるため、手もとに落ちていた赤い首輪に触れると、見事なまでにすり抜けた。
「やっぱり、か……」
ほっとしたような、少し残念なような、複雑な気持ちを抱きながらため息をついたとき、
「ん……」
隣で寝ていたふうかが、小さな声を漏らして、こちらに体をよじらせる。起こしてしまったようだ。
目が合った瞬間、夢と現実の狭間を漂っていた彼女の瞳が、大きく見開かれた。その眼差しには、恐怖の色さえ感じる。
幽霊を見ているから? ――違う。そんな単純な理由ではなさそうだ。
「せ、瀬戸くん……!?」
怯えた声色で紡がれた一言に、息を呑む。
「なんで、俺の名前……」
驚きを隠せないまま口にしたとたん、ビデオを逆再生するように、記憶が頭の中を駆けめぐった。二度と思い出したくない、苦みと痛みを伴って。
――こいつ、どっかで見たことあるような……
初めて顔を見合わせたときに脳裏をかすめた、あの感じ。
――そうだ。そうだった。彼女は……
「
どうして、今日まで忘れていたのだろう。忘れていられたのだろう。きっとこんなふうだから、地獄に落ちかけたのだ。
――俺、中学の頃、こいつのこと、いじめてたんだった……
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