新たな生活


 *


 連れてこられたのは、個人経営の小さな動物病院だった。助けを求められる場所は、案外身近なところにあったらしい。といっても、人間の力なしでは行くことさえできないけれど。

 レトロな三つ編み少女は、相当走ったのか、病院に着いてからもしばらく息を切らしていた。顔立ちと背格好から推測するに、年頃は転生前の俺と同じくらいだろうか。若いくせに体力ねぇんだな。

 死を覚悟したわりに俺の体は健康だったようで、簡単な診察をして、体の汚れを落とし、点滴をしてもらって終わった。

 人間――じゃなかった、生き物はいつだって少し大袈裟なのだ。

 点滴効果ですっかりパワーを取り戻し、待合室で少女のひざの上に寝そべって会計を待っていると、彼女がその頭から背中をそっと撫でた。

「あなた、意外とお利口なんだね」

 なんだよそれ、バカにしてんのか? と鼻で笑ってから思い出す。

 ――あぁ、そっか。猫って普通、洗濯ネットとかに入れないとおとなしくしてねぇんだっけか。

 考えてみれば、我が家にも俺が幼い頃に老猫がいた記憶があった。高齢だったから頻繁ひんぱんに病院へ連れていったが、何しろ臆病者でつかまえるのに苦労していた気がする。

 できるものならすぐにでも脱走したいところだけれど、仮にも助けてもらった身だ。今くらいはおとなしくしといてやろう。

 ここで飛び出したところでまた痛い目を見るだけだろうし、見た目は猫でも中身は人間のままだ。病院で騒いではいけないという程度の常識は心得ている。こんな俺でも、一応。

 答える代わりに顔を上げて小さく鳴いてみせると、彼女はもう一度俺の頭を撫で、なんの前触れもなくこんなことを言い出した。

「ねぇ、名前、何がいい?」

 ――名前? ってことは俺、飼われんのか? お前んちで?

 突然の提案に、大きな目をさらに丸くした俺にふっと微笑みかけると、

「冬……ウィンター……」

 さっそく名前を思案し始める。

 気ままな野良猫生活を満喫するつもりでいたけれど、現実はそう甘くなさそうだ。飼われることで奪われる自由もあるかもしれないが、少なくとも、唯一にして最大の問題である食料は保障されるだろう。案外おいしい話かもしれない。

 できれば、もうちょっと美人でかわいい飼い主がよかったけど……

「ウィン!」

 すっかりその気になっていたら、彼女が突然声を上げた。予想以上に響いてしまって気が引けたのか、あっと口を塞いでこちらに視線を落とす。

「……どう?」

 囁き声で尋ねられ、のん気に前足で耳を掻いた。無意識にやってしまってから、今の俺は本当に猫なんだなと痛感する。

 ――ウィン? よく分かんねぇけどいいんじゃねぇの?

 正直、美味い食べ物と気持ちいい寝床さえあれば、あとはどうでもよかった。

 ――お前は……ふうかっつったか。まあ、よろしく頼むぜ。

 賛同と挨拶の意を込めてまたひと鳴きする。そんな俺を見つめて、ふうかは嬉しそうに眼鏡の奥の目を細めた。


 前言ぜんげん撤回てっかいだ。

 病院を出て、ペットの同伴が許可されているショッピングモールでの買い物に付き合わされてから、新たな我が家へと足を踏み入れた俺、卓也――あらためウィンは、ダイニングで念願だったはずの食事と睨めっこしていた。

「食べないの?」

 一向に口をつけようとしない俺を促すように、ふうかが「ほら」とエサ皿を差し出してくる。俺は反射的に数歩後ずさって、彼女に鋭い視線を投げた。

 ――当たり前だッ! こんなベチャベチャでグチャグチャなもん食えるかッ!

 ゴミ山で行き倒れていた彼に用意されたものは、胃に優しいウェットフードだった。ふうかなりに気を遣ったのかもしれないけれど、臭いはきついし、おそらく食感も最悪だろう。

 それに、繰り返すようだが、見た目は猫でも中身は人間なのだ。そう考えれば、せめてお粥か赤ん坊の離乳食あたりを出すべきではないのか?

 まあ、彼女にとって自分は、道端で拾った黒猫以外のなんでもないのだから、こんなことをぼやいたってしかたがないのだけれど。

 あーもう、やめだやめだ! やはり野良猫のほうが性に合っている。

 なんて思い直してエサ皿にぷいと背を向けたとき、

「あぁ~、待って待って。いかないで」

 ふうかが情けない声で引き止めた。

 なんだよと恨めしく振り返ると、

「じゃあ、こっちは?」

 彼女は幼い子供のご機嫌を取るように言って、違うエサをもうひとつの皿に入れ始めた。

 大袋から流れ出る、丸い粒たち。粒と皿がぶつかり合う、軽やかな音。どうやら今度はドライタイプのようだ。

「はい。どうぞ」

 リベンジすべく差し出されたそれに、俺はそろそろと近づく。

 鼻先で臭いを嗅いでみる。さっきのものよりずいぶんとマシだった。

 思えばつい昨日まで、道路に落ちたスナック菓子や、汚く濁った水たまりで命をつないでいたのだ。これくらいどうってことないではないか。

 空っぽの胃はきゅるきゅるとどこか苦しげな音で訴え続け、今ならお腹と背中がくっついても驚かない自信があった。

 欲を言えば刺身の一切れでも持ってきていただきたいところだが、無謀なのは分かっている。白米を当たり前のように食べている日本人だって、いつか昆虫を貪る日がくるかもしれない。目の前にあるものを食って生きていくしかないのだ。ここまできてわざわざ死を選ぶようなことはしたくない。

 意をけっして、ひと粒口に含む。恐る恐る噛み砕いた瞬間、

 ――う、美味い! 美味いぞっ!?

 魚の風味を主とした芳醇な香りが口内に広がる。

 ――今時の猫はこんなに美味いもん食ってんのか! 猫のくせして生意気だなぁ、コノヤロォ!

 夢中になって食べていたら、ふと視線を感じた。上目遣いで見ると、ふうかが勝ち誇ったような眼差しでこちらを見つめている。

 ちょっと悔しいが、ここは素直に認めよう。俺の負けだ。

「ね? 美味しいでしょ? ちゃんといいやつ買ったんだから」

 ――おう、恩に着るぜぃ! これからも同じのにしてくれよなっ!

 俺は、あっという間に空になったエサ皿を隅々まで舐め回しながら、心中で彼女に礼の言葉を放った。

 ちゃっかりおねだりもしておく。どうせ届いていないだろうけれど。

 もちろん、キャットフードは猫の味覚に合わせて作られたものであって、本来ならば人間が美味だと感じる要素はどこにもない……はずだ。

 頭では分かっている。それでも美味い。

 つまり俺はもう、「猫に転生した人間」というより、「人間の頭脳を持つ猫」といったほうが正しい体になっているということなのだろうか。

「うーん、ま、食べられるならこっちでいっか。生まれたての子猫ってわけでもなさそうだし」

 ふうかが、やたらと気取った海外セレブ風の猫が描かれた大袋のパッケージを眺めながら独り言ちたとき、ふいに玄関のドアが開く音がした。

「ねぇ、ふうかー?」

 俺は皿を舐めるのをやめて顔を上げ、聞き覚えのある声にぴんと耳を立てる。

 この声は、たしか――

「ママだ」

 俺が思い当たるよりも先に、ふうかは緊迫した口調でそう言って俺を抱き上げると、まるで隠れ場所でも探すように室内を右往左往し始めた。

 ――おい、まさかお前、俺を飼うってまだ伝えてないのか? あ、そういや、拾ってそのまま病院走ったんだったな。そりゃ無理ねぇわ。

 気楽に構えている俺とは裏腹に、ふうかは必死で俺を隠そうと駆け回っている。でも、こんなところに隠れ場所などあるはずもなかった。

 そうしている間にも足音は着実に近づいてくる。ここまできたら、今さらダイニングを飛び出して別の部屋へ移動するわけにもいかない。

 そして、彼女の懸命な努力もむなしく……

「ふうか、ちょっと買い物行ってくるから財布返し――」

 ついに母親と鉢合わせてしまう。

「あ……」

 諦めの呟きを漏らして振り返ったふうかの腕に抱かれたまま、俺は、部屋の出入り口から顔を覗かせる女性の姿を捉えた。ばっちり捉えてしまった。

 ――あーあ、終わったな。

「何その猫」

 母親は状況を把握するなり、低い声でそう言うと、

「あ、あのねママ! これはその、えっとぉ……」

 しどろもどろになりながら言い訳を探すふうかのもとへ、長く淡い栗色の髪を振り乱しながら近づき、ぴたりと立ち止まった。

 そして軽く腰を屈め、じっと俺を見つめる。

 猫は体には汗をかけなかったはずだが、現状はまさに冷や汗ものだった。

 ――俺、このまま追い出されるのか?

 だったら今のうちに自分から逃げてやろうかと思ったそのとき、

「か……」

 ――か?

「かわいい~!」

 え……?

 こちらの予想に反して甘い声で叫び、だらしなく顔をとろけさせた。

 どうやら重度の猫好きだったようだ。なんだか一気に拍子抜けしてしまう。ふうかも呆気に取られたように、ぽかんと口を開けていた。

 しかし、胸を撫でおろしたのもつかの間、

「ねぇ、この子どうしたの? どこで拾ったの? これからどうするの? 飼うの? 飼うのよね? ね? ね?」

 母親は熱い眼差しでふうかに詰め寄る。

 あまりの圧力に戸惑いながら、「えっ、う、うん……そうしようかなって……」と答えるふうか。

「で、とりあえずエサと首輪だけ買ったんだけど……あ、あと、病院も連れてったりしたから、結構お金使っちゃ――」

「あら、いいのよそんなの。お金より命のほうが大事なんだから。ねー、猫ちゃん?」

 母親は上機嫌にそう言って、俺の頭をくしゃくしゃと撫で回す。

 ――い、痛い! ったく、どいつもこいつも雑に扱いやがって。あとな、猫ちゃんはやめろ、猫ちゃんは。あんたの娘が付けた名前があんだからよ。

 また毒突く俺だったが、実のところまんざらでもなかった。かわいいなんて言われたのは、初めてだったから。

 その後、母親が買い物ついでにケージやらトイレやらを揃えてくれ、俺の新たな生活が始まったのだった。

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