🐾始まりの春 思わぬ出会いと苦い過去

自由の代償


 最初こそ驚きを隠せなかったが、猫としての生活は、思った以上に快適なものだった。

 好きな場所で寝て、好きな時間に起きる。何時になろうと叩き起こされることもないし、学校という窮屈な建物の中で教師に怒鳴られることもない。

 のびのびと散歩をしている最中、他の野良猫のテリトリーにうっかり侵入して喧嘩を吹っかけられるなんてハプニングもあったが、適当に威嚇していたら、どういうわけか相手のほうから逃げ出してくれた。

 俺、猫向いてるかもっ!

 これからは誰にも邪魔されず、野良猫として悠々自適ゆうゆうじてきに生きてやろう。

 喧嘩に勝ったことですっかり気を良くし、のん気に構えていた俺だったが、そんな自信は、ある問題に直面したとたん、あっけなく崩れ去った。

 そう――食料だ。

 猫には衣類も学力も必要ないけれど、生きているのだから当然腹は減る。そしてそれは今までのように、黙っていれば誰かが恵んでくれるわけではない。食費を稼いでくれる人も、料理してくれる人もいない。

 人間だった頃はさして苦労しなかった、生きるために最も重要な部分を、今になって自分ひとりの力でカバーしなければならないとは。皮肉な話だ。

 自由の代償だいしょうは、あまりにも大きすぎた。

 残飯を漁ろうにもカラスに横取りされるし、他の野良猫を真似て道行く人間に愛嬌を振りまいてみても、たいていは無視されるか、不快そうに顔をしかめられて終わりだ。スナック菓子のかけらでも飛んでくれば報われたほうである。

 どうも、この黒さと威圧的な顔つきが原因らしかった。昔から黒猫が横切ったら不吉なことが起きるなんて言うし、そもそもこの姿に生まれ変わったのが間違いだったのかもしれない。こんなことなら、年老いたじいさんにでもなったほうがまだマシだった。

 そういえば母は、転生の話を持ち掛けたとき、「人生」ではなく、「生涯」という言葉を使った気がする。特に気にもしていなかったけれど、もしかするとあれは、人間としてやり直せるとは限らないという暗示だったのだろうか。

 しばらくは川の水や水たまりの水を飲んでやり過ごしたが、三日もすればそれも限界を迎えた。

「水……食い、もの……」

 街灯の明かりだけが照らす夜の中、悪魔が呪文を唱えるように呻きながら、おぼつかない足取りで自分と同じ真っ黒なゴミ袋の山に倒れ込む。

 もう歩けない。足が、体中が痛い。

 というより、その痛みや苦しみの感覚すら麻痺し始めている。それが、何よりの危険信号のように感じた。

 視界は水面を通したように歪み、呼吸はすでに虫の息だった。

 せっかく転生したというのに、このままでは一週間も持たずにまた死んでしまいそうだ。

「フッ……笑えねぇな」

 むんとした悪臭を放つゴミの山は、最期の記憶としてはこれ以上ないくらいに最悪だった。

 やっぱり人間には――っていうか俺もう人間ですらないけど――ひとりひとりに見合った終わりが用意されているのだ。

 更生なんて、そうそう簡単にできるもんじゃない。

 もう一度おぎゃあと生まれるならともかくとして、中身は俺のまんまなんだから。

 どうしたら歪まずに、汚れずに生きられただろう。立ちはだかる困難から、目をそらさずにいられただろう。

 誰か教えてくれたらよかったのに……

 俺は乾いた笑いを漏らすと、いつか見た赤黒いマグマの中で苦しみ続ける覚悟をしつつ、ゆっくりと引きずり込まれるように眠りに落ちた。


 ビニールがこすれ合うような音がする。

 薄目を開けると、まばゆかった。

 もしかして、神様が特別に天国へ……

 馬鹿げた考えが脳裏をかすめたとき、無情にもその光を何かがさえぎる。

「……?」

 首を少し持ち上げて、目の前でうごめくそれに焦点を合わせると、人間の手だった。

「あっ、よかった。生きてる」

 人間はほっとしたように控えめに呟いて、ゆらゆらと振っていた手をおろし、青空とともにその表情を見せる。

 三つ編みおさげに、古めかしい黒縁眼鏡。色白だけどそばかすだらけの顔。

 こいつ、どっかで見たことあるような……

 そう思った瞬間、ふわりと優しく抱き上げられた。

 ――え、は? ちょっ、何すんだよ! 放せッ!

 心中で必死に叫ぶが、もはや今の俺には、抵抗するのはおろか、鳴き声を上げる気力すら残されていなかった。

 腕でも引っ掻き回して今すぐ逃れたいこちらの心境など知る由もなく、少女は全速力で走りだす。

 不満に思いながらも、やむを得ず彼女の胸の中で揺られていると、

「あっ」

 彼女は思い出したようにこぼして方向を変え、ある一軒家の中に入っていった。自分の家なのだろうか。

 玄関先のハンガーにかけられたバッグから何かを取り出すと、素早くボトムスのポケットに忍ばせ、ちょっと後ろめたそうに外へ出た。

 そして慎重にドアを閉めたとき、

「ふうか? 何やってるのよ? ゴミ捨ては?」

 背後からふいに聞こえた母親らしき声に、ギクリと肩をぴくつかせる。

 が、

「ちゃんと行ってきたよ! もー、重すぎた!」

 ふうかと呼ばれた少女は、振り返ると同時にあっけらかんとそんなことを言って、また走りだした。素早い動きのおかげで、幸か不幸か俺の存在には気づいていないようだ。

「あなたが自分で行きたいって言ったんじゃ――」

「そうだ、ママ。ちょっと財布借りるねー」

 少女は背を向けたまま母親の言葉を遮ると、隙を与えないよう、口早に言い残してどんどん遠ざかっていく。

 内心ではかなり焦っているのか、抱きしめる腕に力が入っていた。く、苦しいんですが……

「え? ねぇ、ちょっとぉ! あんまり走ったら――」

 状況が飲み込めない母親が呼び止めても、もう聞こえないふりだ。

 しばらく走って、やがて母親の気配が完全に消えると、彼女は、

「た、助かった……」

 と呟き、安堵したように小さく息をついて腕を緩めた。

 たまらず隙間から顔を出した俺に、

「ごめんね。苦しかった?」

 なんてのん気に笑いかけてくる。

 ――あ? へらへら笑ってんじゃねぇよ。あんなシメられたら、フツーに苦しいに決まってんだろ。つーかこっちは死にかけてんだ。もっとてーちょーに扱え、てーちょーに。

 大きな目で彼女をにらみつけ、届くはずもない毒を吐いたが、やがて忘れかけていた疲労と眠気に襲われ、白い腕の中で再びまどろみ始める。

 なんだか悔しいけれど、人のぬくもりをこんなにもあたたかいと思ったのは、久しぶりのことだった。

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