めくるめく季節に、君ともう一度
雨ノ川からもも
🐾プロローグ 終わりの始まりは黒猫
「これが俺……なのか?」
いっっっっ、ってぇ――――――!
信じられないほど激しい衝撃を感じ、声にならない叫び声を上げてはっと目を開けると、見知らぬ橋の前に立っていた。
ほんの一瞬、声を発する自由さえ奪った激痛は嘘のように消え去り、体もやけに軽い。
不思議に思いながら目を凝らせば、深い霧で霞む橋の向こう側で、ひとりの女が手招きしている。
作りもののようにしなやかで長い黒髪、白い着物から覗く腕や脚はおそらく――色白ですらりと細い。
――おっ、なんか、かわいい子っぽい。
和風のおしとやか系女子が自分を呼んでいる。そうなれば、俺の中に「行かない」という選択肢はなかった。
俺は己の美少女センサーに従って、鼻歌交じりで意気揚々と橋を渡り始める。
が、半分ほど渡ったところで、はたと立ち止まった。
――いや、ちょっと待て。冷静になるんだ、俺。
不気味なほど静かな周囲。囁くように漂う、生ぬるい風。今まで感じたことのない、陰気でおどおどろしい雰囲気。
これって、もしかして……
最悪の予感が脳裏をよぎると、急速に不安が押し寄せてきて、俺は思わず橋から身を乗り出す。
そこには、黒いパーカーにジーンズを身につけ、すっかり乱れてしまったツーブロックの黒髪を好き放題に伸ばした、やたらと目つきの悪い男の顔があった。絵に描いた不良のような自分の姿を映し出しているのは、鏡ではなく水――川だ。
さあっと血の気が引いて、足がすくんだ。
いつだったか聞いたことがある。人は死に際に三途の川なるものを渡って、あの世に行くと。
――え、俺死んだの? っていうか、これから死ぬの? ……ってことはあれ、関わっちゃいけないやつじゃん。幽霊じゃん。
たしかにあの痛みは尋常ではなかったけれど、まさか死ぬなんて。
助けを求めるように橋の向こう側へ視線をやると、飽きもせず着物の女が手招きを続けている。だいぶ距離が近くなったおかげで、彼女の
――ま、いっか。
予想を裏切らない美しさに酔いしれるうち、死に対する恐怖がだんだんと薄れていくのを感じた。
別にこの十七年間の人生に、特別な思い入れがあるわけでも、未練があるわけでもない。幽霊だかなんだか知らないが、こんな美少女に導かれて天国へ行けるのなら、それも悪くないだろう。
気を取り直して、スキップでもしながら橋を渡りきろうと一歩踏み出した、そのとき、
「止まれ! この大バカ息子ッ!」
なんだか懐かしい声に
「う、うおぉー!」
間抜けな声を上げながら、遠ざかっていく三途の川と美少女を名残惜しく見送っていると、ふいに強風が吹き荒れる。
次に目を開けたときには、眩しい青が果てしなく広がる空間に浮遊していた。全身がじわりと熱い。
ここは、空の上……?
柄にもなく詩的なことを考えてしまい、何してんだかと自身に対してせせら笑っていると、
「なに笑ってんだい、この親不孝者!」
先ほどと同じ声と、似たような怒号が頭上でこだまする。その瞬間、「大バカ息子」や「親不孝者」などのヒントのおかげもあって、声の主がひらめくように分かった。
「母ちゃん……?」
そうだ。これは、二年前にがんで亡くなった、母の声だ。
「あぁ、そうだよっ!」
ちょっとがさつで男勝りな態度。
覚えている。いくら俺でも、世界でたったひとりの母の声は、はっきりと。
あぁ――あぁそうだ。間違いない。母ちゃんだ……
ぶっきらぼうな返答を噛みしめていると、不覚にも視界が滲んだ。死んでても涙って出るんだな。
「で? いったいどうするつもりなのさ」
感動するこちらをよそに、母は意図の見えない質問を投げかけてくる。
「どうするも何も、これから一緒に天国へ行くんじゃ……」
さも当然のように言うと、「はぁ!? ほんっっとにバカだねお前はっ!」といら立ちと驚きのこもった怒りをぶつけられた。
てか、さっきからバカバカ言いすぎじゃね? 俺にも人権というものがあるんですけど。
心の中の抗議もとても口には出せず、ただ委縮して母の声に耳を貸す。
「あんたねぇ、未成年のくせして大晦日に酒ガブ飲みした挙句、バイクの無免許運転で自損事故起こして死んだやつが、天国なんか行けるわけないだろ?」
え、そうなの? 人間ってその程度で悪人扱いなの? 厳しくない? それくらいみんなやってない? まあ俺、他にも色々やらかしたけどさ……
また心の中でぶつくさ呟いていたら、突然、足もとにブラックホールのような穴が開いた。
なんの気なく穴のほうに視線を移すと、マグマのようにたぎる赤黒い液体の中で、棒みたいに痩せ細った人間たちが浮き沈みしている。ゾンビを思わせる、絶望に満ちた呻き声を上げながら。
地獄だ、と直感で思った。
「今のあんたが行けるのは、ここだけだよ」
情け容赦ない母の一言に青ざめる。
ここへ落ちる? 冗談じゃない。
「それが嫌なら、転生して、二度目の生涯を歩んで、しっかり更生することだ――」
「はい! 神様、仏様、お母様! わたくし
母が言い終わるや否や、俺は食い気味に宣誓する。意味はほとんど分かっていなかったけれど、それらしい言葉を並べ立ててみた。
地獄落ちを逃れるためなら、なんだってする。……この消えかけの命を捧げること以外なら。
すると、母は物憂げに嘆息し、
「まったく、あんたって子は……」
ほとほと呆れたように漏らす。
祈る思いで天を見つめていると、頭上で指を鳴らすような音が響き、足もとで自分を待ち受けていた穴が静かに口を閉じた。
「……途中で投げ出すんじゃないよ」
威厳ある母の言葉に、嬉しさと安堵が胸をしめつけて、また違う涙が滲む。
「うんっ……!」
幼い子供のように答えた直後、再び強風が吹き荒れ、
「えっ……」
俺は真っ逆さまに落ちていった。
「ってぇ~……」
本日二度目の激痛に
街路樹はきれいさっぱり葉を落として褐色の枝を
「さっびぃな……」
寒さに凍えながら立ち上がったとき、
――んっ?
とある違和感を覚えた。
足が――短い。
それに、立ち方もなんだか変だ。二点でなく、まるで椅子の脚のように、四点で支えている感覚がある。
――んんっ?
怪訝に思って足へ視線を落とせば、それは黒く毛むくじゃらだった。そっと持ち上げて裏を確認すると、人間には不要なものがついている。その独特な形と心地いい感触に、巷の女子高生なんかが「かわいい~」「超プニプニ~」とはしゃぐ、アレが。たしか、滑り止めの役割を果たすんだったか。
ひとつの疑念を抱いた俺は、もう一度地面に座り込むと、恐る恐る自分の頭に触れた。
ある。人間の頭には絶対にないはずの、三角がある。
さらに、そこからゆっくり手をおろしていく途中、何か細長いものが二、三本、手のひらをくすぐった。
もうここまできたら、可能性はふたつにひとつだろう。
俺はいざ真相を確かめるべく、季節を先取りした春服や高級そうなバッグが並べられたショーウィンドウに駆け寄る。
すると、ガラス越しに――小柄な猫と目が合った。
真っ黒な毛色、月のような黄色い光彩に浮かぶ大きな瞳も真っ黒、盲点だったお尻のあたりから伸びるしっぽも、やはり真っ黒。
……は?
「これが俺……なのか?」
二度目の人生は――黒猫?
「えぇぇぇっ!? 何これ? なんなんだよ、これっ! いや、薄々覚悟はしてたけどっ! マジで人間じゃねぇの!? ねぇ、ねぇ!」
空に響くような絶叫も、パニックも、傍から聞けば、
「ママー。ねこさんがふくみてなんかいってるよー?」
幼い子供の興味を惹くような、猫のかわいらしい鳴き声に過ぎなかったらしい。
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