家族


 *


「いただきます」

 かたわらで、ダイニングテーブルの前に座り、マーガリンと真っ赤ないちごジャムをたっぷり塗り広げたトーストを頬張る少女。

 いったい、何を見せられているんだろうか? 俺は。

 そう思うけれど、他にいるところもなければ、することもない。

「食べたいの?」

 横目で尋ねられ、

「いや、全然」

 即答する。強がりなどではない。

 本当に空腹を感じないのだ。昨日の夕飯から何も食べていないというのに、いまだにこの腹は音ひとつ立てない。

 自身の体に起きた妙な変化にぼんやりと置いてけぼりにされたような感覚のまま、俺はただ黙ってトーストをかじる彼女の横顔を眺めていた。


 準備を整えた俺たちは、瀬戸家の裏庭の塀に身を潜めていた。島谷家から歩いて三十分ほどのところにある、和風の古家だ。

 こんなこともあろうかと、猫の姿のときにルートを確認しておいてよかった。

 塀から顔を覗かせれば、ガラス窓越しに、リビング――なんて洒落たものではないので食堂室と呼ぼう――が見える。小さな食卓がひとつと、椅子が四つ。あとは棚の上に24インチの薄型テレビがあるだけの、殺風景な部屋。

 同行者がいる以上は勝手に中へ上がるわけにもいかないし、他にこっそり観察できる場所もないので、ここで家族が現れるのを待つことにしたのだ。

「ねぇ、本当にお腹空いてないの?」

 いつもと変わらない三つ編みおさげ姿の彼女が、望遠鏡を覗き込みながら尋ねてきた。ベージュのトレンチコートを羽織り、肩からは望遠鏡の他に、デニム生地の小さなポシェットを提げている。

「ああ。不思議なくらい全然空かない。たぶん、この体では死んでるからだろうな」

 時間が経てば何か変化があるかなと思ったけれど、その後も特に代わり映えしなかった。

 以前、極限の空腹に苦しめられた経験を持つ身としては、「これはこれで便利かも」と思わなくもないが。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、

「あっ、来たかも!」

 相変わらず望遠鏡を覗き込んでいた彼女が声を上げた。思った以上に早く登場してくれたようだ。

 最初に現れたのは父。その背中を追うように入室した姉の――亜沙あさ

 食卓を挟んで、身振り手振りを交えながら何やら話し合っているらしい。生前の記憶が影響しているかもしれないが、その様子は言い争っているようにも見えた。

 と、

「ん。見てみる? 持っててあげるから」

 こちらの心中を察したように、彼女が望遠鏡を差し出してくる。

 幽霊の性質をきちんと理解したフォローに感謝しつつ、彼女のほうへ寄って接眼レンズを覗くと、姉の姿がズームアップされていた。左右の耳から上だけをひとつに結った長い黒髪を感情的に揺らしながら、何かを懸命に訴えている。

「悪い。親父のほうに移せるか?」

 そう頼んで、彼女に一度ピントを合わせ直してもらい、再びレンズを覗き込んだ。

 父も渋く険しい表情。大工という職業柄、癖になってしまったのか、頭には黒いタオルを巻き、仏頂面で両手と口を忙しなく動かしている。

 どうやら、見間違いでも思い過ごしでもなく、相当な口喧嘩が繰り広げられているようだった。

 呆れたのか安心したのか分からない、複雑なため息をついたとき、ふいに父が体の向きを――

「こっちに来るぞ、隠れろ!」

 彼女とふたりでさっとしゃがみ込んで、塀に身を隠す。大多数の人間には見えない体になっても、やはり反射神経で動いてしまう。

 間一髪、すぐあとに窓が激しい音を立てて開き、

「お父さん待って! 待ってってば!」

 姉の鋭い叫び声が飛んでくる。

「ねぇ、お願いだからちゃんと話を聞いてよ! 私ひとりじゃどうにもできないことだって――」

「分かってる!」

「分かってないじゃない! お父さんってどうしていつもそうなの!? 嫌なことから目そらして、ウジウジして。恥ずかしいと思わない!?」

 お互いの感情という炎に、言葉の油を注ぎ合うような、終わりの見えない口論を聞いていたら、たちまち気が滅入ってしまった。

「もういいよ……行こうぜ」

 姿が見えないのなら、どうせ声も聞こえないのだろう。

 憂鬱な気持ちを吐き出すように呟くと、隣の彼女は、

 ――いいの?

 と眼差しで問いかけてくる。

 それには特に答えず、立ち上がって歩きだす。彼女は焦ったようについてくる。

 庭先で言い合うふたりの声は、まだまだ静まりそうになかった。


 たまたま不穏な現場に居合わせてしまっただけなのに、険悪な雰囲気がこちらにまで伝染して、帰り道はなんだか重苦しい空気が漂っていた。

「……本当に、よかったの?」

 遠慮がちに尋ねてきた彼女に、俺は黙ってうなずく。

「うち、昔からああなんだよ。今に始まったことじゃない。あのままそばで聞いてたって、止められたわけでもねぇし」

「そう……」

 俺が生きていた頃も、あんな口喧嘩は日常茶飯事だった。姉が何かと難しい年頃のせいもあっただろうが、母が亡くなってからはより激しさを増した気がする。まったく口を利かない時期もあったので、言い争うようになっただけ改善されたのかもしれない。

 そんなふうだったから、あの家には帰りたくなかった。現実から目を背けるように、なるべく目立たないところで、仲間と一緒になって小さな悪事をいくつも重ねた。

「少なくとも喧嘩する元気はあるってことだろ? それが分かっただけでもよかったよ」

 家族と会話するどころか、家にすら気が向いたときにしか帰らなかった自分のことを棚に上げて、もっともらしいことを言ってから、ふと思った。

 いや、むしろ、大いに落ち込んでなぐさめ合ったほうが、親子の絆が強まったりしただろうか?

 肩を抱き合う父と姉の姿を想像してみたけれど、あの壮絶なバトルを見てしまった後では、ひどく青臭い家族映画のワンシーンのようで、乾いた苦笑が漏れる。

「その……悪かったな、色々」

 俯き加減でとぼとぼと隣を歩く彼女に、俺は初めて謝罪の言葉を口にした。今日だけでなく、今までのことをすべて謝るつもりで。

 彼女はそのことを知ってか知らずか、何も言わず首を横に振る。

「……捨てるか? 俺を――ウィンを」

 気まずくなったこの際だからと思い、ずっと気がかりだったことを訊いてみた。

 すると、彼女は驚いたように足を止め、じっとこちらを見つめる。

「どうして……?」

「どうしてって、そりゃあ……いくらかわいがってた猫でも、その中身が自分をいじめてたやつだって分かったら、嫌じゃん」

 まぁ普通はありえないけどな、と軽く笑いながら横目で隣を見やると、彼女は眼鏡の奥の瞳を悲しそうに曇らせた。

「家族を捨てるなんてできないよ」

 たった一言が、ぐっと胸に迫る。

 そうか。父や姉だけではない。彼女にとっても、俺はもう家族なのか。たとえ、姿が違っても。

 返す言葉を失っていると、彼女は「それに」と静かに続ける。

「嫌がらせしてたのって、瀬戸くんだけじゃなかったでしょ? 私、クラスでも浮いてたし、共感する人がたくさんいたってことは、何かそれなりの理由があったんだよ。それが顔とか性格とか、私の力や意識だけで直せることだったのかは別としてもね」

 そして、毅然きぜんとした態度で断言した。

 だから、もういいの――と。

「じゃ、じゃあさっ」

 一方的に話を終わらせられる前に、俺はあわてて口を開く。

 彼女の言い分はたしかに正しいかもしれないが、それではこちらの気が済まなかった。罪滅ぼしをしたいわけではないけれど、正論で言い負かされたようで、なんだか悔しい。

「なんか、してほしいことないかっ!?」

 口走った直後、自分のバカさ加減に嫌気がさした。

「……してほしいこと?」

 彼女もきょとんと目を丸くする。

「いや、これはその、別に変な意味じゃなくてっ! 俺の自己満っていうかっ!」

 すっかりたじろぎながら口にすると、彼女は「何それ」とおかしそうに小さく笑った。当然の反応だろう。何を言っているのか、自分でもよく分からない。

 それでも彼女は、

「うーん、してほしいこと、かぁ」

 考えるように空を見上げながら、ゆっくりと歩きだした。

「じゃあ、私のこと、ふうかって呼んで。私も、卓也って呼ぶから」

 多少の気恥ずかしさを覚えつつも、俺はこころよくうなずく。

「あと、もしまた明日から猫の姿に戻ったら、今まで通り、ちゃんと私に甘えてくること」

「そんなことでいいのか?」

 少し先を行く背中に尋ねると、彼女――ふうかは、「そんなことって」とこちらを振り返った。長い三つ編みがふわりと風に揺れる。

「これ、結構難しいと思うけどな」

 言わんとするところが分からず「えっ?」と訊き返したら、不敵な笑みを浮かべた。

「だって私、ブサイクで根暗かもしれないけど、一応女だよ? 本当に、ふたりっきりのとき、ひざにすり寄って甘えたり、できる?」

 思わぬ挑戦的な表情と発言に、ふたつの意味で固まる。

 彼女でもこんな顔をするのかと。そして――もしかしてあの、星空の下でわらった帰り道、悪友たちとの会話を聞かれていたのか? と。

 そんな様子を見て、ふうかはまたクスッと笑った。

「ごめんごめん。ちょっと意地悪だったね。でも、これでおあいこ。この話はもう終わりにしよ」

 さっぱりと締めくくった彼女。

 俺の胸の奥では、まだ様々な感情がひしめき合っていたけれど、どれもうまく言葉にはできなかった。

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