第36話 天と地を別つ日

 丹田を破壊されてなお、ティアマトは世界そのものが内包するエーテルを用いて肉体の再生を進めていた。左肩の辺りから吹き飛ばされた半身と腹の傷は既に半分以上も再構築を完了し、完全に復活するのも時間の問題だろう。


「狙うのは丹田にある魂だ。アルカの空けてくれた穴が残っているうちに、イスカンダルの矢を撃ち込むぞ」

「まだ間に合います。ベルは矢を撃つ準備をしておいてください!」


 ティアマトの腹までもう少しの位置まで近づいたその時。沈黙していた竜が不意に咆哮を始める。

 大きく開いた口には紫色の怨嗟が溶岩同然に濃く煮えたぎり、莫大なエーテルが収束していくのが分かった。


「ボク達に気づいたんだ……! 攻撃してきます!」

「ぐっ……先に頭をなんとかするか……!」

「駄目です。ベルは矢の準備だけに集中してください!」

 ――アルカは全身にイスカンダルの燈を纏い、印を結んでいく。

「ベルはボクが守ります。信じて!」


「分かった!」


 ベルは腰の翼から弓羽を広げ、片方の腕は弓に添えて狙いを定めるように下から前方へと向ける。もう一方の腕が弓を引くと、両手の間にイスカンダルの燈が巨大な矢を綴り始めた。

 ブケファラスは飛び上がって宙を駆け、ティアマトの腹に空いた穴へと矢を届けられるように二人を上空へと運んでいく。


 その光景を見たイスカンダリアの民は、皆同様に思った。エヌマエリスに、かつて民が愛した王と錬金術師アルケミストが戻ってきたようだと。


 ティアマトは半壊したままの上半身を持ち上げ、灼熱の怨嗟が沸る炉心と化した頭部を標的へと向ける。その有様は最早生命ではない。永遠の世界の継続を望まない叛逆者を排除する為の装置として、肉体の存続すらも放棄した母なる竜は〈獣へと成り果てて〉いた。

 かつて善き王であろうとした者の奪われた理想。その残骸が悍ましい悲鳴を上げながら、楽園を破壊せんとする意志を消し去る為に、最後の力を炎に変えて解き放つ。

 欠損した半身に空いた穴から噴き出した怨嗟の奔流が無差別に世界を焼き尽くしながら、口腔から吐き出された一条の熱線だけは一直線にアルカ達へと向かっていく。

 眼前を埋め尽くす光を前に、少年はただその先に待つ未来だけを信じて唱えた。


演技アクション――【最果ての呼び声】!」


 円の軌道を描くイスカンダルの燈を起点に、九つの水流が背後から立ち昇って螺旋を描きながら頭上へと昇っていく。水流はその一本一本が竜の首となり、咆哮を上げながら炎へと食らいついた。

 その根本から少しずつ姿を現したのは、ティアマトの半身にも匹敵する、人智を超えた大きさの鯨鮫ジンベイザメであった。サメの背中には星空が広がり、水から成る九つの竜の頭部を顔の周りに広げて、悠々と上空を泳いでいく。


「これは……カプリコン⁉︎」


 最果てを望むアルカの想いに応えるように、演技アクションから登場者キャラクターへの進化を果たした【最果ての呼び声】は、角笛のような声を響かせながら母なる竜の怨嗟を飲み込んで消し去っていく。


「よくやった。それでこそ、おれの一番の家臣だ」


 どこか懐かしいベルの言葉に、アルカはふしっと笑顔を浮かべる。


「当然です。ボクはイスカンダルの燈を継ぐ者ですから!」


 最高の相棒が切り拓いてくれた王道が、絶対的な支配の摂理に空いた暗い穴へと繋がる。

 大王は僅かな迷いも恐れもなく、その中心へと人々の願いを乗せた矢を放った。


「さらばだ、ティアマト。世界は返してもらうぞ!」


 飛んでいく希望の燈がまさに世界の中心へ届かんとした刹那。闇の奥から伸びた一対の腕が、矢の先端を掴む。


「乃公の楽園を……貴様ら風情に壊されてなるものかあああああああッ!」


 燈で出来たベル・ゼブルの残滓が上半身だけを闇の中から這い出させ、恐るべき執念で矢を握り留める。そして肩から生えるもう一対の腕に怨嗟の炎を灯し、両手を固めた鉄槌に込めて振り下ろすと、燈の矢を粉々に砕いてしまった。

 砕かれた燈は霧散し、同時にベルの身体に宿っていたイスカンダルの力も役目を終えて散逸していく。


「くっ……! こんな所で……!」

「誰もこの楽園からは出さぬぞ! 何故人間だけが楽園を追放され、愛しい者との別離に苦しまなければならぬ? 白知の神の為に、知の探究などという唾棄すべき使命に縛られる必要はない! 同じティアマトの子である人間にも、星々と同じように永遠を享受する権利がある筈だ!」


 ベル・ゼブルの残滓は狂った口調で、懸命に人間を擁護する。彼こそがかつてティアマトに食われた、気高き大王の理想に違いなかった。

 民の命を大事に思う気持ちは、今のベルとも変わらないのだろう。だが大王には一つ、学んだ事がある。


「人は確かに儚いかもしれん。だが王に命を預けなければ生きられない程、民は弱くなかった。限りある命だからこそ人は自分の生に意味を求め、自らの意志で舵を取るのだ!」


 アルカの魂がティアマトに取りこまれた時、ベルは愛する者を失う恐怖に飲まれかけた。

 だが相棒を取り戻す為に血を流しながら足掻き続ける大王を救ったのは、自分の力で道を切り拓いたアルカだった。少年だけではない。ベルが守ろうとした皆が、巡り巡って大王の意志を届ける力になる。

〈一人じゃない〉と思わせてくれる。


「永遠などという単一な価値で、おれ達の命を塗り潰すな! おれは機械仕掛けの神が脳内で計算した運命よりも、人が勝ち取る未来を信じる!」


 ベルはアルカと手を繋ぎ、ブケファラスの背から跳び下りてベル・ゼブルの残滓へと向かっていく。

 二人の間だけで紡がれた燈は、ベルの肉体を最も純粋な姿のまま成長させた。民の願いを叶える為の獣としての王ではなく、共に人として生きる事を選んだ新たな王道を体現する。


「【王道モード大王ベル】!」


 楽園の守護者は印を結び、二人を切り刻もうと怨嗟の炎を帯びた風の刃を無数に放ってくる。


「楽園を受け入れろ! 乃公が永遠の幸福を与えてやる!」

「欲しいのは永遠に続く今日なんかじゃない! ボクらの最果てへと続く明日は、誰にも奪わせはしません!」


 アルカは水の壁を展開すると、完全には防げないまでも斬撃を構築するエーテルを分散させて威力を弱めた。

 ベルは相棒を身体で庇いながら斬撃の嵐へと突っ込み、鎧の如き筋肉で強引に刃を受けて前へと進んでいく。左手に四本の爪を手中で等間隔に構え、模るのは〈天の星〉を意味する楔形文字だ。


 かつて世界が混沌の竜ティアマトに内包されていた頃。星の神の英雄マルドゥクはティアマトを討ち、母なる竜そのものを天地創造の術式レシピとして、〈一つの印を打ち込む〉事で、天と地をわかったのだという。

 その印は竜のもたらす不死の力を断ち切り、天と地が分かたれた生死の理が正常に働く状態へと世界を錬成する。すなわち〈局所的に引き起こされる天地の開闢〉。円環の竜ウロボロスを打ち砕く唯一の力である。


「――【天命砕く開闢の印ディンギル】!」


 星のように散っていく水飛沫を掻き分けながら拳が黄金の燈を纏い、過去の理想との決別を込めて丹田へと打ち込んだ。

 刻まれた天の星からは虚空にヒビが奔り、硝子が割れる音を響かせて粉々に砕け散る。崩壊は留まる事なく、竜に支配された世界へと満ちて偽りの景色を剝がしていった。

 全ての力を出し切り子供の姿に戻ったベルとアルカは互いに抱き合って、大きく広げた翼に風を掴んでゆっくりと落ちていく。硝子片が散っていく青い空の中で、その奥から覗く夜闇に散る眩い星の光を眺めながら。


「見ろ、アルカ。あれがおれ達の掴み取った未来だぞ」

「不思議ですね。さっきまでよりもずっと明るく感じます」


 闇夜の奥に臨む水平線からは太陽が登り、世界を仄かに照らし始めた。


「ねえ、ベル」

「……なんだ?」

「ボクね。夜と朝が混じり始める、この時間帯の空気の匂いが好きなんです。世界で自分だけがこの味わいを知っているような、特別な気分に浸れるから」

「いいのか? おれに教えてしまって」

「うん。だってベルと一緒に味わう方が、ずっと美味しい」


 にへっと笑うアルカに応えるように、ベルは空気を鼻で吸い込む。

 静謐とした夜の冷たさと、仄かな太陽の温もりが混ざり合った味。それは時が前に進んでいる事の証だ。


「ふむ。気に入ったぞ!」

「いつか自分で書く冒険譚の冒頭には、必ずこの発見を載せよう思ってるんです。ボクが見つけた、最初の術式レシピとして!」


 そしたらきっと、アリストテレスさんも気に入ってくれるかな。

 少年は、心の中で呟く。


 二人はそれ以上何も言わず、ゆっくりと流れていく特別な景色を目に焼き付けるように眺めていた。


       ◇


 崩れていく楽園を見上げながら、街の広場に集う人々は抱き合って勝利を喜び合う。

 そこに永遠を惜しむ姿は一つもなく、誰もが再び訪れた明日に表情を華やがせていた。


 少し離れた裏の路地で、ジルはフランソワと共に煙草をふかしながらその光景を見守っていた。魔女の瞳は僅かに憂いを帯び、冷笑を浮かべている。


「見たまえ、フラン。今回も〈私の仮説〉が正しいと証明されたよ。この世に人を救う機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナなど存在しない。全ての結末は、演者である私達の手に委ねられているのだよ」

「今ぐらい、素直に喜べばいいじゃねえか。あいつらが無事でよかったってよ」

「……ふふ。それもそうだね」


 二人が話していると、視界の端に街の外へ去ろうとするハルモニアとその部下達の姿が見える。


「これは丁度いい所に。ハルモニア氏ー!」


 わざと大声で呼びかける魔女の存在に気づいた獣姫は、分かりやすく嫌そうに顔を顰める。

 そんな彼の事情などお構いなしに、ジルはづかづかと距離をつめた。


「チッ……よりによって一番面倒なヤツに……!」

「おやおや、嫌われているのは相変わらずのようだね。共に背中を預け合った戦友じゃないか」

「テメエに預けた覚えはねェッ!」

「ときにハルモニア氏。イスカンダリアを去るつもりかね?」


 核心を突かれ、ハルモニアは気まずそうに視線を逸らす。


「当然だろ。オレ達はもう、ここにいていい人間じゃねェ」

「弟ぎみはそう思っていないようだがね」

「アイツはまだ子供だ。いずれオレの犯した罪の重さが理解できる日が来る」

「頑固だねえ。……そういう所は、〈アルマ〉の若い頃にそっくりだ」


 ジルが口にした名前に、獣姫は目を見開く。


「オマエ……オヤジを知ってるのか」

「海の向こうで共に何度も仕事をした仲だよ。君の後ろにいる〈アルマのかつての仲間達〉の事もよく知っている」


 ハルモニアの部下達は、観念したように目を伏せている。


「アルマは君と同じで、〈大切な人を失う事の悲しみ〉に立ち向かった男だった。王族だった彼が海へ出たのも、〈海の向こうで死んだ妻の魂を取り戻す為〉だったのだよ。君達兄弟がいつか再び、母親に会えるようにとね」

「オヤジは……オレ達の為に……?」

「海の向こうで事故に遭った時、アルマは自分の命を捨ててでも仲間の命を救う事を選んだ。自分に手を貸してくれる仲間を、妻と同じように失う訳にはいかないとね。だからこそ彼らは重い罪だと理解した上で、君の計画に手を貸したのだよ」


 それはハルモニアも知らない事実だった。彼らはただ獣姫の理想に共感し、各々の願望の為に手を結んだ共犯者だとばかり思っていた。

 動揺するハルモニアの前に、ジルは手を差し伸べる。


「ハルモニア。私の船に乗りたまえ。丁度専属の楽団が欲しいと思っていた所なのだよ」

「……いいのか?」

「共に最果てを目指そうじゃないか。それはきっと、〈お父上の願いを叶える〉事にも繋がる」


 ハルモニアは目つきをきっと引き締め、瞳に黄金の炎を宿して魔女の手を取る。


「ハルモニア交響楽団、百一名。アンタに命を預けさせてもらう!」


       ◇


 崩れていく闇の中、双角王とその伴侶は静かに最後の時を過ごしていた。


「どうやら、我らの友はやり遂げたようだな」

「ああ。それも、自分達の力でね。ティアマトを抑え込む君の役目も、これで終わりだ」

「友が折角命を捨ててまで付き合ってくれたというのに。勿体ない事をしたな!」


 イスカンダルは友を茶化して豪快に笑い飛ばす。

 その頭を拳が、ごんっと小突いた。


「……馬鹿」

「おー痛い。冗談ではないか! そんなに怒らずともよかろう」

「私が君の隣にいる以上に望む事などあるものか。二千年も一人でいる内に、契約を忘れてしまった訳ではないだろうね」

「うははは! 忘れる筈がなかろう」


「私は君を、最果ての楽園エルシオンへと連れていく」


「そうすれば我は友に、〈とびきりの特等席〉から臨む世界の全てをくれてやろう」



 世界の始まりから終わりまで。ボクらは特別な場所を求め続ける。


 それはきっと楽園なんて呼べる程、完璧なものじゃないかもしれない。

 一度手の中からこぼれてしまえば、たちまちに崩れ去る程、儚く脆いボクらの居場所。


 硝子玉の楽園エルシオンを目指して、明日もボクらは船を出す。

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