第34話 獣の檻、人の玉座
眼下を染める炎の色と上昇気流を浴びながら、楔に拘束されたアリストテレスは腕を伸ばしたまま目の光を失い、完全に静止してしまった。
その肉体へ、天を支配していたティアマトが咆哮しながら牙を剥く。地上に向かって大口を開けた巨大な人間の顔が迫る光景は、人間に罰を与えんとする神の姿を想起せずにはいられなかっただろう。
そして神に叛意を抱いた愚かな代理人を、一口に飲み込んだのである。それは同時に、アルカの魂までも竜に食われてしまった事を意味していた。
ベルは誰かに抱きかかえられて目を覚ます。アルカから受けるイスカンダルの燈の供給を失い、身体は子供の姿へ戻っていた。
「……よう。生きてたか」
瞳の先に居たのは、ハルモニアだ。周囲には落ち着いた曲調の音楽が流れている。
「ハルモニア……? どうしてなれが。アリストテレスはどうなった?」
「分からねえが、お前を殺そうとしたのは確かだナ。オレはティアマトとの戦いが始まったのを見て、引き返してきたンだ。そうしたら、お前がアリストテレスに腹を貫かれている場面に出くわした。……それで思わず助けちまった」
「アルカ……! アルカは無事なのか!」
「怪我はしてねェし、心臓も動いてる。でも意識が戻らないままだ」
アルカはベルと共に救い出され、近くの地面に寝かされていた。眠っているかのように、胸が小さく上下している。
「おれは腹を刺されたのか。何故傷が無くなっている……?」
「オレの術で〈巻き戻した〉ンだよ」
獣姫は近くの瓦礫を左手で掴み、握力で砂糖菓子のように握り潰す。そのまま粉砕された砂塵を床に落とすと、空いた右手を振って音楽を乱す。
すると粉塵が宙に浮いて結集していき、砕かれる前の瓦礫へと戻って地面に落ちた。
「【
ハルモニアの術に共通する本質は、〈大地の重力に記録させた情報を自在に取り出す〉事にある。
彼女の
【
未来の座標へと自分自身を錬成して瞬間移動を行う【
「アルカはどうして目を覚まさないんだ……?」
「魂がそこにないからだ。オレの術は、人間に対して使う場合個人を判別する情報として魂を捕捉する必要がある。……だから、死人の時間を巻き戻す事はできねェ」
「馬鹿な。アルカは生きているんだろ!」
「肉体はナ。竜が支配する世界では、肉体が滅びる事はない。おそらくだが、お前の相棒はティアマトに魂を奪われたンだと思う」
ソロモンの語った、人類終演のシナリオと同じだ。人が願いを竜に託すようになれば、やがては全ての人類が魂を奪われ、肉体だけが残されたまま永遠に目を覚まさなくなるのだろう。
その犠牲となった相棒に寄り添い、ベルは呆然としていた。
目の前の光景にハルモニアは、父親を失った当時の自分を重ねる。
「……はじめは〈巻き戻せればいい〉って思ったンだ。親父が海の向こうで死んだと知ったオレは、壊れたおもちゃを修理する感覚で〈時間を巻き戻す術〉の研究を始めた」
「……人を生き返らせようとしたのか」
「突き詰める程に、〈死者は帰ってこない〉なンて当たり前の事を思い知らされる羽目になったけどナ。時間の影響を受けているのは物質だけで、魂は幾ら巻き戻した所で帰ってきやしないンだ。輝かしい過去を取り戻せないと悟ったオレは、せめてこれ以上失わないように〈時間を止めてしまおう〉と決意した」
本心を吐露するハルモニアは、アマゾネス人の特性で急速に発育した身体とは裏腹に、年相応の未成熟な精神を垣間見せた。
同時に、本心ではまだその理想を信じているのだとも感じさせる。
「何故おれとアルカを助けた? おれ達はティアマトを討とうとしているのだぞ」
「分かってる。それでもアリストテレスがお前達を殺そうとしているのを見た時、過去の自分に試されている気がしたンだ。王の采配一つで民の生き死にが決定される世界が、本当にオレの目指した楽園なのかってナ」
「……追い打ちをかけるようで悪いが、このまま竜を野放しにしておけば、いずれはエヌマエリスの人類全てがアルカのように目を覚まさなくなる。永遠に続く地上の楽園なんてものも、人間の弱さが生み出したまやかしだったのだ」
ベルの言葉は、自分に向けてのものでもあった。地上に楽園をもたらそうとした元凶は、かつての自分なのだから。
「愛する者を失いたくない気持ちは、おれにもよく分かる。今だって、アルカの命を天秤にかけられれば、おれは迷いなくこの楽園を受け入れるだろう。……以前は綺麗事でなれの理想を否定してすまなかった」
「大切なものっては、どうして失うまでその価値に気付けないンだろうナ。世界の法則は、つくづく人間にとってままならないようにできてやがる」
「だがこれ以上失う訳にはいかん。おれはもう何度も、大切なものを失ってきた。気付いていて、その手を強く握れなかっただけだ。自分が弱いばかりに!」
立ちあがろうとしてふらつくベルの首へハルモニアが腕を回し、自分の肩を貸して立たせてやる。
「力がないなら、借りればいい。お前にはその為の仲間がいるだろ」
気がつけば、辺りの至る所から人が集まっていた。
「ベル、無事だったのか!」
「何度も心配かけやがって……! バカヤロウ!」
「ハルモニア様まで……? どうなってんだ?」
「ハルモニア。頭は冷えたか」
群衆を割って、クラウディオスが出てくる。
「……ただの気まぐれだ。ジジイ、こいつに力を貸してやってくれねェか」
「逆じゃろう。おヌシが手を貸せィ。これはおヌシが外に出る為の戦いでもあるんじゃからな」
「あ……? 何を言って――」
「〈おヌシに宿るイスカンダルの燈を貸せ〉と言っとるんじゃ。ワシが知らんと思うてか」
ハルモニアはぐっと唇を噛む。
クラウディオスの後ろから、ステラが勇気を振り絞って歩み出た。
「兄さま。お父さまが生きていた時の事を、覚えていますか」
「……忘れた! あんな、オレ達を捨てて海を選んだ奴の事なんか!」
「
「違う! オレが勝手に、くだらない過去に見切りをつけただけだ! お前は悪くねェ!」
ハルモニアは必死に叫ぶ。立派な王として自分に塗り固めた、メッキが剥がされていくのを恐れるように。
「双角王の名は僕が継ぎます。大切な友人達と、兄さまが帰ってくる〈故郷を示す大灯台〉に僕はなる。最低でお節介な王様が示してくれた、僕の信じる王道です」
ハルモニアを閉じ込めていた、檻の玉座が崩れていく。そして抑え込まれていたイスカンダルの燈が、涙と共に溢れ出した。
「くそッ……くそくそォッ! オレの書いてきたシナリオが全部台なしじゃねェか!」
「だったら、今度こそ書き直してください。本当のハッピーエンドに繋がる、兄さまだけのシナリオを」
獣姫は涙を拭って、頭上の竜を見上げた。
「……冒頭は派手な方がいいナ。あの邪魔な竜を撃ち落とすゾ!」
ハルモニアの号令と同時に、人々の身体からイスカンダルの燈が立ち昇る。永遠の命という究極の安寧に背いて各々の夢に命を賭ける意志が、イスカンダルの燈を灯したのだ。その燈は空で集まって一匹の巨大なエイの姿を成し、ベルの下へと近づく。
「感謝する。皆の力を貸してもらうぞ!」
大王が開けた口に、莫大なイスカンダルの燈が吸い込まれていく。肉体は青年の姿で巨大化し、ティアマトにも匹敵する巨人となってイスカンダリアの大地に聳え立つ。頭上に伸びた髪と双角は、エイを模して黄金に
「【
ベルとティアマトが、互いに両手を掴んで組み合う。
母なる竜は人の言葉と獣の咆哮が混じったような絶叫を上げ、長い下半身を陸に上げられた魚の如く暴れさせた。人の手が届かなかった神が遂に、民の願いを背負った王と対峙したのだ。
ティアマトは湧き上がる怨嗟を炎に変え、大王の頭部へと放射する。対するベルも竜の炎を吐き、対流する炎の渦同士が見えない壁で阻まれるように相殺し合う。
「なんて戦いだ……神話の一場面でも眺めてる気分だぜ」
フランソワは煙草に火を着け、煙を嗜みながら、最早人間の力など及ばない領域の戦いを傍観する。その煙草を隣に立つジルが取ると、うまそうに
「……おい」
「知っているかね、フラン。エヌマエリスの創世神話は、星の神と竜の神の戦いで始まるそうだ」
「創世神話? 聞いた事ねえな」
「バビロニアの滅亡と共に失われた物語さ。双角王の輝かしい伝説の影で語られなくなったその神話は、世界の名前として形骸と化したまま、今も空を彷徨っている」
世界はアプスとティアマトが互いの尾を噛んで交わり、無限に広がり続けていた。
アプスは、ティアマトと自分の子である星の神々によって生み出された〈秩序〉が混沌を縛ろうとするのを
ティアマトは我が子を庇ったが、密かに星の抹消を行動に移したアプスは、星の神の筆頭であった英雄によって殺されてしまう。
夫を失ったティアマトは己の尾を噛んで一人で交わり、世界の流れを保ち続けていた。
だがアプスを殺した英雄の息子は世界の王となる事を望み、やがてティアマトに戦いを挑んで混沌だった世界を秩序で支配した。
敗れたティアマトは二つに割かれ、その半身が
「小難しい神話だな。流行らねえ訳だ」
「星の神が竜を討ち、この世界を創造する材料にしたという話だよ。ティアマトを討ち滅ぼした星の神は、名を〈マルドゥク〉。別名を
「……偶然にしちゃ、でき過ぎやしねえか?」
「故に神話なのだよ、フラン」
◇
二つの神が創世の神話をなぞってぶつかり合う中。母なる竜の内側で、もう一つの物語が芽吹いていた。
アリストテレスの魂と接触していたアルカは、
「うゆ……」
辺りを見渡すと、暗い空間に黄金の炎が渦巻いている。アルタシャタのシナリオ異界に似た光景が広がっていた。
「ふえっ! ここは――」
「ティアマトの腹の中だよ」
隣にはアリストテレスが座っていた。
先程まで一緒にいた相手の姿を見て、少年は少し安心する。
「って事は、ボク達ティアマトに食べられちゃったんですか」
「食われたのは私だけだよ。君は私の魂にひっついていたせいで、巻きこまれたんだ」
「へ……じゃあ今のボクは魂だけの姿って事ですか?」
「私もそうだ。肉体はティアマトに吸収されたからね。推察するに、ここは奴の丹田だろう。ティアマトに食われた人間の魂は、ここに囚われてしまうらしい」
よく見れば、周囲に燃え盛る黄金の炎は時折人間らしい姿へと形を変えている。
「皆食べられちゃったんですか……?」
「ここにあるのは先人達の霊魂だよ。人間の魂は、死後大地へと還る。聞いた事ないかい?」
「あ、師匠が同じ事を言ってました!」
まるで授業を受けているような反応を見せるアルカに、アリストテレスは呆れて息を吐く。
「能天気だね、まったく。私はさっきまで殺し合いをしていた相手だよ」
「でも、悪い人じゃないのは知ってますから。ボクも同じ立場になったら、同じ事をしてしまうかもしれません」
「……人の心をそう易々と覗くんじゃない」
原初の錬金術師は不愉快そうに叱ったが、どこか心を許したようにアルカの頭を撫でる。
「んみ」
「さて、行くとしようか。こんなところでお喋りしていても仕方ない」
「どこに行くんですか?」
二人は立ち上がり、アリストテレスが差し出した手を少年が握る。
「……もしかしたら、イスカンダルはここにいるのかもしれない。ティアマトを止められるのは彼だけだ」
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