天と地を別つ日

第31話 二千年の約束

 気がつくと、真っ白な景色の中に自分は立っていた。それまでの出来事、自分の姿さえも、意識にかかった靄の向こうにある。


「ベル、久しぶりだな」


 白い景色の奥から呼ばれた名前が自分のものだと分かって、ようやく自分の姿が浮かび上がってきた。

 同じように、目の前の空間に大王の記憶に刻まれた人影が描写されていく。

 それは壮年中期の男だった。肌は白く、薄い紫の髪と獣耳に黒い双角の組み合わせは、どこか別の見覚えも感じさせる。男は白い貫頭衣の上から、金刺繍の施された紺色の豪華なローブを羽織っていた。


「……ソロモン」

「おお、憶えていたか。もう二千年も前だというのに」

「忘れるものか。おれはなれとの約束だけを頼りに生きてきたのだぞ」

「約束? なんだったかね。俺の方はとうの昔に忘れてしまったな」


 ソロモンはへらへらとした態度で、何もない空間に座りこむ。


「『立派な王になれ』。なれはそう言ったのだぞ」


 ベルは立ったまま、真剣な表情で目線を逸らさない。そんな彼にソロモンは自分の隣を手で叩き、座るように促した。

 一向に答えを寄越さない相手を前に、大王は渋々といった様子で腰を下ろす。


「それで、お前は立派な王になれたのか?」

「……憶えていないぞ。でもきっと駄目だったのだろうな。でなければ、死んでこんな寂しい場所に来るものか」

「それはそうだな。立派な王ってのは死後盛大に祀られて、先に死んだ民達に手厚く迎えられると相場が決まってる」


 ソロモンはからかったつもりだったが、ベルは半ば放心状態で宙を見上げる。


「……だとしても、もういい。おれはもう疲れたぞ」

 ――目の端には涙が滲み、声も潤んでいる。

「おれは立派な王になりたかった訳じゃない。ただ、なれとの約束がないと生きられなかっただけの空っぽな魂だ」


 ベルの中にあったのは、ソロモンと仲間達の記憶だけだった。只一人残された大王は家族も友人もなく、ただ毎晩見る夢に従って獣のように生きてきた。希薄な日々の中で、立派な王になるという漠然とした約束だけが、家族と呼べる存在と自分を結ぶ命綱だった。


「何故おれを皆と一緒に行かせてくれなかったんだ」

「憶えてないか。それを望んだのはお前自身だぞ、ベル」

「嘘だ!」

「嘘じゃない。二千年前に【ソロモンの指輪】を使って竜の伴侶になったのは、〈俺じゃなくお前〉なんだ」


 ベルには理解できる筈もない。彼は自分の本性が、気高き大王ベル・ゼブルである事など知らないのだから。


「聞いていけ。お前の過去の話だ――」



 ソロモンの生み出した悪魔であるベル・ゼブルは、神殿を築いた果てに復活した母なる竜の伴侶となって、楽園と化したエヌマエリスの主として復活を遂げた。

 ただしそれはベル・ゼブルとしてではなく、ティアマトとしてだ。王が地上に干渉する為に家臣を必要とするように、竜の依り代となったのである。


 だが二千年前、ティアマトはイスカンダルによって討たれた。双角王が己の魂を矢として母なる竜の魂は封印され、結果としてベル・ゼブルの魂と肉体だけが残された。

 王であるベル・ゼブルはティアマトによってもたらされた不死の肉体を手に入れ、完全な生命として復活を遂げる。


 そんな彼を待っていたのは王としての輝かしい人生ではなく、怪物としての孤独であった。

 ベル・ゼブルが生前に治めていた国は既に滅び、玉座なき王は領土を求めて他国を襲い始める。幾千幾万もの屍を積み上げた魔王は、しかして遂に国を得る事はなかった。

 やがて孤独に狂った王は、嵐が去るように世界から姿を消したのだという。



「気休めになるかは分からんが……ベル・ゼブルがティアマトの伴侶となったのは、〈民の願いを叶える善き王であろうとする〉為だった。お前が憶えていた〈立派な王になれ〉って約束は、儀式直前に俺と交わした会話の一部だ」

「……それがどうして国を襲う怪物になるんだ。矛盾してるぞ」

「答えは簡単だ。〈お前の理想はお前が食べてしまった〉のさ」


 ベルは理解できずに言葉を失う。


「竜は意志を持つ神。〈人間の意志――即ち世界を変えたいという願いを理解し、叶える神〉だ。〈単なる不変の法則として、あらゆる意図を持たず世界を動かす神〉である星とは違う。だが竜は願いを叶える際に、〈人間から願いを食って奪ってしまう〉んだよ」


 願いを食らう。そのフレーズに、ベルは不思議と心当たりがある。


「どんな願いでも叶う世界では、次第に願いは価値を失っていく。人間の意志はやがて竜に食い尽くされて、〈人類はたった一つの魂へと収束していく〉のさ。それが神によって人類に課せられた第一の滅びの形――〈円環の竜ウロボロス人類終演シナリオ〉だ」

「……待て。人類の終わりだと? おれは民の願いを叶える為に、竜の力を得ようとしたのではなかったのか!」

「俺達は馬鹿だったんだ。イスカンダルだけが、竜によって人間が滅ぶ事を知っていた。……いや、人間の力を信じていたんだな」


 大王はぐっと手を握りしめる。先程までのように、前へ進む事を諦めた瞳ではない。だが強張った表情からは、まだ迷いが見て取れた。


「ソロモン、おれは姿を消してからどうなった? 今のおれは狂ってしまっているのか?」

「心配か。自分が周囲に害をもたらすかもしれないと」


 ベルは固唾を飲むようにして小さく頷く。


「お前はベル・ゼブルと同一の存在であり、同時に異なる存在であるとも言える」

 ――ソロモンはベルを安心させる為に言葉を選ぶ。

「竜と伴侶になった王は、その竜と混ざり合って同一の存在になるんだ。つまりベル・ゼブルもまた、伴侶として一度は母なる竜ティアマトと混ざり合っている。そしてイスカンダルによってティアマトが討たれた時、封印されていくティアマトが分離した伴侶から理想を奪ったのと同時に、ベル・ゼブルはティアマトから〈願いを食らう力〉の一部を手に入れた」


「願いを食らう力……そうだ、おれはその力を使った事がある」

「〈お前を生んだ〉のはその力だ。果たすべき理想を失い人間を襲う存在へと成り果てたベル・ゼブルに対し、力なき人々は救世主を望んだ。その願いがベル・ゼブルに混じったティアマトの因子へと蓄積されていき、魔王を封じ込める器としてのお前を生み出したのさ。そして皮肉な事に――ティアマトがベル・ゼブルから奪った〈民の願いを叶える善き王になる〉という願いは、巡り巡ってお前が手にする事になったんだ」


 民を蹂躙せんとする魔王と、民の願いを叶えんとする善王。ベルの正体は〈ベル・ゼブルのアンチテーゼ〉として人々に願われて生まれた、魂の片割れであったのだ。


「お前の内側に眠っていたベル・ゼブルは、お前が〈王として自分自身に感じた引け目〉に乗じて復活し、肉体の主導権を乗っ取った。結果的に今エヌマエリスではティアマトが復活し、再び人類滅亡へのカウントダウンが始まっている」

「……アルカ! アルカは無事なのか? 他の皆は――」


 相棒の名前を呼んだ瞬間、周囲の白い空間が砕け散っていく。


「どうやら俺の所へ来る訳にはいかなくなったみたいだな」


 景色と共に砕けていくソロモンに、ベルは覚悟を決めて向き直った。


「約束だ。おれは必ず、立派な王になる! 今度こそ、おれとなれの約束だ!」

「ああ。あんまり早くこっちに来るんじゃないぞ。土産話が短いとしらける」


 白い景色が砕け散り、大王は暗い底へと落ちていく。

 その手を、上から伸びてきた小さな手が掴んだ。


       ◇


「――ル。ベル!」


 少年の声が、意識を閉ざしていた水面の上から自分の名前を呼んでいる。

 ベルが目を覚ますと、そこには瞼を赤く腫らしたアルカの顔があった。


「……アルカ。おれを闇の底から救ってくれるのはいつもなれだな」

「うゆ……心配ばっかりかけないでください、このおバカ!」


 大王がゆっくりと身体を起こすと、周りには何も変わらない様子の街並みが陽の光に照らされて広がっている。


「戦いはどうなった? ウロボロス計画は防がれたのか」

「違いますよ。これがウロボロス計画が成功した世界です。……上を見てください」


 アルカの言葉に従い頭を上げると、そこに太陽はなかった。代わりに巨大な一匹の竜が、下界に視線を向けるでもなくただ悠然と空を泳いでいる。


「星は全てあの竜――ティアマトに食べられちゃいました。ウロボロス計画が成功して、世界の法則が変わってしまったんです」

「皆は無事なのか……?」

「無事も何も、怪我をしていたボクやステラのおじいちゃんも、ハルモニアさんだってみんな元通りです。……ボク達は全員、不死身になってしまったんですよ」



 ベル・ゼブルと戦い、腹に死は免れない程の重症を負っていたハルモニアも、ステラとクラウディオスに見守られて目を覚ます。


「……オレは、生きてるのか」

「背中の筋肉だけで繋がっておるような状態で、よく生きておられたものじゃ。我が孫ながら驚愕するワイ」


 祖父の呆れ顔が含む様々な意味を察し、獣姫は気まずそうに俯く。


「悪かった。これがオレの信じた王道だったんだ」

「責めやせんワイ。……おヌシ達の父親を止めれなかったのはワシの責任じゃ。永遠の命という理想にも、共感できん訳ではない」


 クラウディオスは優しい言葉をかけたが、その後ろでステラは口を開けずにいる。

 ベルを殺そうとしアルカや自分の夢を絶った事に対する憤りと、王族としての責任感を兄に抱えさえてしまった引け目が入り混じって、これからどう接していくべきかも分からなくなっていた。


 ハルモニアも弟に恨まれる事は理解している。取り繕う気も始めからなかった。


「じゃあナ。二人共達者で暮らせよ」

「待て。何処へ行く気じゃ」

「一人で気ままに生きていくぜ。もう王になる必要もないしナ」


 去っていくハルモニアを、クラウディオスは止められなかった。


「……ハルモニア。これがおヌシの望んだ未来なのか?」



 意識を取り戻したベルの下へは、黄金の福音号ゴールデン・エヴァンゲルの乗組員達が集まってきた。激しい海戦を繰り広げながらも、一人の死者も出さずに全員が揃っている。


「ベル! お前無事だったのか!」

「よかったなあ……! 俺はてっきり、あのおっかないやつに食われちまったんだと……」

「よせよせ。今は元気に戻ってきたのを祝おうじゃねえか」


 船員達の様子から、大王は自分が気を失っていた間に何が起こっていたのかを察する。


「随分と世話をかけたな。皆が居場所をくれたおかげで、おれは戻ってこれたぞ」


 普段は感情の起伏に乏しいベルの顔が、初めて年相応に可愛らしい笑顔を見せた。


「べ、ベルぅー! お前って奴は!」


 命を懸けて張った意地が報われ、感激した船員達がベルの元へと集まって毛皮をよしよしと撫でる。(ちゃっかりアルカも撫でてもらっている)


「おやおや。早くも大団円かね」


 人混みの奥から、よく通る声が響く。船員達が脇にどけて視界が開くと、自分のシナリオ異界から戻ってきたジルが、背後にフランソワとアトラスを引き連れて子供達を見下ろしていた。


「二人共、頑張ったね。私がいなかった間、よく団員の皆を守ってくれた」


 労いの言葉に、ベルとアルカはにっと笑う。


「ボク達だけじゃありません。皆で演じ切った結果です」

「それに、まだ終わりではないぞ。おれ達にはまだやるべき事が残っている」


 大王の放った思いがけない言葉に対し、魔女は興味深げに顎へと手を遣る。


「言ってみたまえ。君が思い描く結末を」

「おれ達は人類終演のシナリオを止めねばならん。かつて竜を射貫いて世界を救った、イスカンダルがそうしたようにな」

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