第30話 双角王の戴冠


 が放った一言に、場の全員が戦慄した。その正体がなんなのかは、粗方察しがつく。彼は悪魔王ソロモンが残した、最初にして最後の鍵なのだから。


「ベル、目を覚ませ! 悪魔なんかに乗っ取られるんじゃねえ!」

「アルカを守るのがお前の役目だろ! なのに傷つけてどうすんだ!」


 船員達はベルに意識を取り戻させようと、必死に声を張り上げる。


「……ごちゃごちゃと喧しいぞ。依り代の魂は既に乃公の腹の中よ。乃公の魂が宿っている限り、永遠に目覚めはせぬわ」


 ベル・ゼブルの邪悪な意志が周囲を旋風で切り刻もうと印を結ぶ直前。彼は何かに気付いて街の方へと視線を遣る。すると大地の鳴動と共に大灯台が土台の下から持ち上がり、イスカンダリアの大地が裂けていくではないか。


「くく……中々に面妖な真似をする」


 ベル・ゼブルの興味は其方へ釘づけになる。裂けた大地からは白亜に輝く巨大な船体が石畳を砂利のように押し除け、無数の腕で空中へと漕ぎ出した。

 そして大灯台からの音声放送が海へと向けられる。マイクを握るのはオルガノンだ。


「ごきげんよう、〈エヌマエリスを拓いた原初の王〉よ。お楽しみの所悪いが、余興はここらで打ち止めとさせていただきたい」


 ベル・ゼブルは上昇気流を纏うと、上空まで昇って船へと相対する。


「構わんぞ。誰かは知らんが、乃公を満足にもてなせるのは汝のみらしいからな」


 風によって拡大されイスカンダリアの空に響き渡る、雷鳴の如き轟声。扉という扉を閉め切った街中に恐怖の波が押し寄せる。


「無論。偉大な王には恐縮だが、私の船まで御足労願いたい。この世界で最高の演目を提供すると約束しよう」


 提案を聞いたベル・ゼブルは口の端を上げると、その身に嵐を纏って巨大な空中アルゴー船へと向かっていった。



 銀色の甲冑騎士達が列を成す空中アルゴー船の露天甲板に、旋風が降り立つ。

 列の奥からはオルガノンが歩み出て、ベル・ゼブルを出迎えた。


「お会いできて光栄だ。私は――」


 自己紹介をしようとした道化の胴体を、真空によって生じる風の刃が袈裟懸けに切り裂く。両断された半身はぐちゃりと分かれ、無様に床へと落ちた。


「はっ、つまらんな。乃公がくだらんお喋りに興じる程、低俗だとでも思い上がったか?」


 気高き大王はページを破るように命を奪う。彼にとって見聞するにあたわなければ、人間の命など雑誌に挿入される広告程の価値もない。


「手荒な挨拶だね、まったく。荒ぶる嵐と対話するのは骨が折れそうだ」


 会話を継いだのは、そばに並ぶ甲冑騎士の一人だ。その言葉を皮切りに甲冑騎士達は一斉に兜を外す。その下から現れたのは、全く同じ顔をした無数のオルガノン達だったのである。


「私も些かに慣れ過ぎたね。傀儡の名で貴方に名乗るところだったよ。私がいかなる存在かは、名前などより貴方の脳裏に映る未来の方が雄弁に語ってくれているかな」

「乃公と同じ〈人外の者〉が現代にいると知った時は驚いたぞ。名乗ってみよ、聞いてやる」


 オルガノン達はベル・ゼブルの戯れに微笑むと、十人程が甲板の真ん中に集まって印を結んでいく。錬られたエーテルは床へと注がれ、同時になんらかの装置が起動し始めた。

 やがて床板の一部がスライドして開き、その下から赤い液体に満たされた硝子の筒が迫り上がってくる。中に入っていたのは、一糸纏わぬ美しい青年だった。

 硝子の器から出てきた彼は、オルガノン達が錬成した柔らかい布で濡れた身体を拭かせる。

 長い髪は不変の象徴とされる白銀色。瞳と爪は鮮やかな青銅色が毒々しく濁る。頭上に座す鹿に似た立派な双角は、純金顔負けに艶めいて最高峰の叡智を相応しく飾る。

 青年はその玉体に、絹で出来た古風な貫頭衣と巻き布を錬成して纏った。


「お待たせしたね。――私の名はアリストテレス。双角王イスカンダル第一の家臣にして、〈原初の錬金術師アルケミスト〉だ」

「双角王……乃公が眠りについた後に、この地を支配した人間の王だったな。その家臣が乃公になんの用だ?」

「一論。私は貴方から、王権を譲り受ける。

 二論。貴方から王権を譲り受ける事で、イスカンダルはこの地の王となった。

 結論。つまり貴方から王権を受け取るのは、私がこの地の王――双角王となる為の戴冠の儀式である」


 アリストテレスは独特の論法で自らの目的を述べる。


「無論。これは単なる私の自己満足だ。本命は最後の鍵を手に入れ、この地に神殿を築いて竜を復活させる計画に他ならない。だが、貴方を単なる部品扱いする訳にはいかないだろう」

「弁えているではないか。この乃公に勝てる気でいる点は、この上なく不遜で愚かだがな」


 ベル・ゼブルは会話に飽きたと言わんばかりに、印を結んで風の斬撃を縦一文字に放つ。

 アリストテレスは余裕綽々と印を結ぶと、全く同じ規模の斬撃で気高き大王の巻き起こす災禍を相殺した。


「乃公と互角に切り結ぶか」

 ――嬉々として印を結ぶベル・ゼブルは、掲げた手の上に巨大な火球を顕現させる。

「ならば火の術はどうだ?」


 陽の落ち始めた天を紅蓮に染め上げる炎の塊は、単純な熱量だけならば当代双角王が操る竜の炎さえも遥かに凌駕する。ベル・ゼブルは圧倒的な強者であると自覚するが故に、術の威力を高める為の小細工は弄さない。

 求めるのは豪快さと絢爛さ。王たる己に相応しいか否かの自己満足でしか、彼は術の良し悪しを評価しなかった。


 頭上を覆う煉獄の具現に対し、原初の錬金術師は不敵な笑みさえ浮かべて手を翳す。その手の先から現れた紅蓮の火球は一直線に頭上の炎を撃ち抜き、大爆発を引き起こして四散させる。

 かと思えば赤く燃える黒煙を貫いて瀑布が頭上から襲うが、目に見えない何かを持ち上げるような動きと共に髪と服を逆立てるアリストテレスは、虚空から湧き上がる噴水で勢いを相殺してイスカンダリアに一瞬の驟雨を降らせた。

 弾けた水飛沫の向こうでは土で出来た二体の巨人が両手を組み合い、力比べの末に粉々の土塊へと還る。

 ベル・ゼブルは舞い散って世界を彩る天変地異の断片に、天を仰いで呵々大笑した。


「うははは! まさかこれ程までとはな。よもや現世に乃公と互角に渡り合える使い手がいるとは、夢に見たとて我が目を疑ったぞ!」

「お褒めに預かり恐悦至極」

「聞かせよ。どうやってそこまで己の力を錬り上げた?」


 原初の王から賜る賛辞にアリストテレスは敬服の礼を返すと、この瞬間を待ち望んでいたかのように隠しきれない歓喜を美貌に滲ませる。


「自論。我々錬金術師アルケミストの行いは全て貴方の模倣だ。〈天地の全てを創造した〉貴方に比べれば、人間の成すいかなる偉業も、その範疇に収まるだけの劣化品に過ぎない。だが模倣も極めれば、〈本物と同一のものとなる〉とは思わないか」

 ――原初の錬金術師は指先で空と大地を示す。

「私は二千年を掛けて、この世界の神話級術式ミシック・レシピを全て収集し、貴方の偉業を再現した。今や私は、〈貴方と完全に同一のシナリオ〉を保有しているという事だ」


 そこまで豪語しておきながら、アリストテレスは自嘲的に顔を歪める。


「……だが所詮は人の成す事。完璧なシナリオを手に入れても、私にはそれを完全に発動させられるだけのエーテルが錬れなかった。〈多元世界全ての神話級術式ミシック・レシピを手に入れれば、最果ての楽園エルシオンを錬成できる〉という私の理論は、たった一つめの世界で間違いだと証明されてしまったよ」

「はっ。汝も他の術師共と同じように、最果ての楽園エルシオン術式レシピとやらを完成させようとしていたのか」

「完成させようとしたのはイスカンダルだ。私はその手助けをしたに過ぎない」


 ベル・ゼブルは意地悪く歯を見せる。


「世界の創造などという事象は〈多元世界の全てを創造した〉乃公にさえ、最早再現不可能な代物だぞ。あれを引き起こすには、多元世界全てのエーテルを結集したとて足るまい。矮小な物言いは好まんが、〈世界の外側にある巨大な何か〉によって引き起こされた奇跡の類だ」

「無論。だからこそ私は、このエヌマエリスそのものを新たな楽園に変えると決意した」


 アリストテレスが印を結ぶと、天に輝く七十一の連星が成す欠けた円環が輝き始める。


「あれが見えるかい、ベル・ゼブル。あの円環は【ソロモンの指輪】と言ってね。この世界に神殿を築く為の術だ」

「乃公の魂をあれに嵌め込めば、神殿が完成するそうだな」

「その通り。今や私の力は完全に貴方と互角――役者不足とは言わせないよ」


 戦いを続行しようとするアリストテレスに、ベル・ゼブルは掌を向けて制止する。


「乃公の力を手に入れたのなら、汝には分かるだろう。この茶番劇の結末がな」


 気高き大王の指摘に、原初の錬金術師はふっと笑って両手を下ろす。


「当然だよ。私はこの世界で唯一の、貴方のなのだから」

「神の御座というのは存外退屈でな。全てを見通せるというのは、何事にも驚けぬという事だ。どんなに素晴らしい舞台も、脚本を書いた本人というのは満足に心が踊らぬものよ」


 一頻り愚痴を吐き終えると、ベル・ゼブルは自らの腕で己の腹を貫いた。血に濡れた腕は臓腑の奥から黄金の炎を取り出す。


「受け取れ、アリストテレス。この世界の所有権を汝に譲ってやる。乃公は一介の観客として、特等席から汝のシナリオを楽しませてもらうとしよう」


 ベル・ゼブルの魂は腕を離れ、天に輝く【ソロモンの指輪】へと吸い込まれていく。その肉体は幼い姿へと縮んでいき、血の海へとうつ伏せに崩れ落ちた。

 アリストテレスは足元になど目もくれず、気高き大王が昇っていった空を見上げている。


「見ているといい、ベル・ゼブル。、貴方の退屈を私が満たしてみせよう」


 アリストテレスは印を結び、莫大なエーテルを錬り上げていく。【ソロモンの指輪】が起動して神殿が完成した事で、大地として眠る母なる竜ティアマトが目覚め始める。

 その首が縫いつけられている場所――イスカンダルの墓碑に、エーテルで構築されたイスカンダルの姿が燃え上がった。イスカンダルの残滓。ティアマトの頭部を大地へと縫いつけていた、最後の楔だ。

 その姿を遥か彼方の眼下に認め、アリストテレスは甲板から飛び降りた。風を纏い、原初の錬金術師はふわりと双角王の前に着地する。


「私だ、イスカンダル。アリストテレスが君を迎えにきたぞ!」


 旧友に再会したかのような笑顔を振り撒くアリストテレスに対し、双角王の残滓は微動だにせず沈黙している。それは今や、竜の脅威から世界を守る為だけのシステムと成り果てていた。

 今や全知に迫る力を得たアリストテレスにとって、その程度の事態は織り込み済みだ。それでも心の片隅に未練がましく残っていた、ほんの一握りの期待が口の端を歪めさせる。


「……だから言っただろう。最果ての楽園エルシオンなどという幻想を望んだ結果がこれだ。私の言った通りに〈自分の手が届く範囲の世界を愛していれば〉、君は永く幸福に生きられた筈なのに」


 原初の錬金術師は諭すように、そしてどこか言い訳をするように呟くと、手を翳してイスカンダルの残滓を掻き消した。


「……心配するな。君に代わって、私が理想の楽園を築いてやる」


 最後の楔が外れ、母なる竜が眠りから覚めて首をもたげる。エーテルで構築された巨大な竜の身体は、長い蛇のような胴体の先に、天へと聳える双角を持つ人間の女の姿をしていた。

 咆哮しながら天へと昇っていくティアマトへ、エヌマエリスに住む全ての民の腹から伸びたエーテルの鎖が吸い込まれていく。

 その光景を地上から眺め、アリストテレスは両腕を大きく広げ天へと立ち向かった。


「時は来た! 母なる竜と一つになり、我々は星の支配する天を征する! そしての者達が独占する永遠の安寧を、我らが享受しようではないか!」


 原初の錬金術師が印を結ぶと、ティアマトは口を開いて太陽へと食らいつく。そして一息にそれを飲み込み、世界から光を奪った。そして剥ぎ取られた陽光の向こうから姿を現した星々さえも、竜は一つ残らず食い尽くしていく。


「星の法則は終わり、これからは竜の法則がこの世界を支配する。意志なき星の無慈悲な采配で回る世界ではなく、王たる竜の意志によって救済が与えられる新世界。今ここに、楽園の錬成は果たされた!」


 アリストテレスの高らかな声が、世界に新たな王の戴冠を告げた。

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