第12話 翼のない天使
「嘘だろッ……追い付いて来やがった!」
操縦席内のバックミラーで背後の状況を確認したフランソワは、とにかく追い付かれまいと操縦桿を押し込んで速度を上げる。
テセウス船の最高速度は時速七十キロ。人を乗せた馬と同程度だ。ただし小型化した内燃機関の脆弱性から、最大出力を維持できる時間は十数分程。あくまでも緊急逃走用の最終手段に過ぎない。
吸血鬼は、船の後ろへ移動して追撃を警戒するジルに対し、操縦席の壁を叩いて注意を引く。
「団長。このままテセウス船の限界がくるまで走らせ続ける。敵の戦列を〈縦に引き伸ばして〉、兵力差をできるだけ誤魔化すぞ!」
「いいよ。防御は私に任せたまえ」
十字架を振るって羽矢に応戦する魔女を這いつくばって見上げるアルカは、自分が守られているだけの状況にじっとしていられなくなる。
だが下手に頭を上げて矢にでも当たれば、益々迷惑を掛ける結果になるだろう。とりわけ少年は、身体を動かすのがあまり得意ではなかった。
悶々とするアルカを見かねたベルは、相棒の眼前まで這って近付く。
「アルカ。おれ達が動けないのなら、分身に行かせればいい」
「あ……その手がありました!」
少年は自分のバインダーから術札を取り出すと、展開した錬成円の中で印を結ぶ。
「
・
擬似生命を錬成し、力を借りる。
・
任意の現象を再現し、術師の力として行使する。
・
様々な効果を発揮できる道具を錬成する。
・
一帯に環境を錬成し、術師に有利な戦場を作り出す。
中でも
アルカの手元には、宙に浮かぶ小魚が出現した。頭部は山羊の半身を模した水の塊に包まれている。水を操る力を持ち、海の上でも生きられる魚類はカプリコンと呼ばれ、エヌマエリスの北方地域では神の使いとして信仰されている。
「よし……行け!」
少年の命令に従い、【
異形の肉体を動かすに用いるのは、その肉体に刻まれた本能だ。これを利用すれば、術師は脳内に大まかな目的を浮かべるだけで
不完全な生命である為に生物が本来持つ力の全てを再現する事はできないが、それでも術師の意のままに動く傀儡としては充分過ぎる性能になる。
カプリコンは空気中の水分を集めて自分の半身部分に吸収すると、走り寄って来るハルピア人兵の顔を目掛けて放射する。
水流自体は大した破壊力を持たないが、常人を越えた全力疾走を続ける為の強烈な心肺機能が欠かせない兵士にとっては致命的だ。
呼吸を乱された兵士は激しく咳き込みながら、水流から逃れようとその場に崩れ落ちる。彼は目を開けると、表情をみるみるうちに凍り付かせた。
「火が……俺の火が消えたあああああ!」
その声は恐怖に上擦り、周囲の仲間をきょろきょろと見回し始める。先程まで船を追っていた彼は、目標を仲間へと変えて必死に追い縋り始めた。
その様子をカプリコンの視界越しに見て、アルカは一つの可能性へと思い至る。
「火が消えた……? もしかしたら、敵は何かボクらの目には見えない灯りのようなものを持っているんでしょうか」
アルカの考察に、ジルは矢を防ぐ片手間興味を示す。
「確かにそういう術はあるよ。火属性には〈エーテルを媒介に、あらゆるエネルギーを収束させる〉性質があってね。〈光エネルギー〉の扱いにも長けている。特にハルピア人は夜戦に秀でた人種だ。王に特別な証を与えられた兵士達は、〈見えざる火〉を頼りに夜を駆けたと伝えられているのだよ」
その時。がこんという音と共に、テセウス船の内燃機関に限界が訪れ、急速に船体が失速していく。アルカの奮闘によって敵の数は幾つか減らせたものの、依然として何十人という兵隊達が此方へと迫っていた。
フランソワは操縦桿から手を離すと、立ち上がって後方甲板へと出てくる。
「水が奴らの弱点か。よくやったなアルカ。ここからは俺の出番だ」
彼が印を結んで錬成したのは、金属製の小さな小箱だった。
蝶番式の蓋をきんっと開けると、中の細い隙間に一本だけ収められた黒い紙巻き煙草を取り出す。
そしてライターになった箱で、口に咥えた煙草へと火を着けた。
「フランソワさん! 煙草なんて吸ってる場合ですかー!」
悠長に煙を吐く吸血鬼に、アルカも思わず苦言を呈する。
「いいじゃねえか、煙草の一本くらい。戦いなんざ、コレがないとやってられねえよ」
態とへらへらした態度で答えるフランソワの背後で、煙が異常に濃くなっていく。それは闇を焼く照明の中で、天使の如き双翼を模って広げられた。
「
詠唱によって効果が起動し、背後の煙は膨れ上がって頭上へと広がっていく。それは黒く濃くなって雲へと変わり、やがて地上に土砂降りの豪雨を降らせ始めた。
広域を襲う水の幕は、ハルピア人兵達が頼りにする松明を容赦なく飲み込んでいく。
「馬鹿な。どうして突然雨が」
「まずいぞ……火が……!」
「も、戻れ! こんなので戦えるか!」
急に灯りを奪われた兵達は、我先に逃げ出そうと進路を反転させる。
「逃がすかよ。煙草代ぐらいは払っていけ」
フランソワが再び印を結ぶと、頭上の雲からごろごろと恐ろしい音が鳴り響く。
「――【
落雷一閃。雲から放たれた電撃は雨に濡れた兵達の身体を狙い澄まして撃ち抜き、辺りを一瞬白く染めて一網打尽にする。
その威力に、アルカとベルも開いた口が塞がらない。
「こいつが俺の術。ライターから発する火の属性と、雨で散布した水の属性を掛け合わせて〈雷属性〉を作り出すんだ。属性の組み合わせは術の幅を大きく広げてくれるから、覚えておけよ」
得意げに煙を吐く吸血鬼の肩に、ぽんと手が乗せられる。
振り返るとそこには、雨に濡れて髪から水滴を滴らせるジルが目を据わらせて立っていた。
「……この服、気に入ってたんだけどねぇ?」
「よ、よう団長。濡れるとより色っぽくなって良いんじゃねえか?」
「そうかね? なら見物代も普段より割増しにしなくては。ドラグマ金貨五千枚は下らないと思わないかい?」
「分ーかった! 新しいの買ってやるから! そんなに怖い顔しないでくれよ」
フランソワは停止したテセウス船から下りると、周囲を照らす明かりの中に倒れるハルピア人達の首から、円環に鳥の翼と脚を生やした奇怪な形状の首飾りを集めてくる。
丁度人数分の五つを回収し、戻って来た彼はそれをジルに見せた。
「団長、こいつはどうだ」
「〈フラ鷲〉の首飾りだね。パルシアで盛んな〈太陽信仰〉の象徴で、エーテルを神格化したものだ。フラ鷲は〈人間に宿り、正しく世界を認識するのを助ける〉存在だとされているのだよ」
「着けてみようぜ。王の加護とやらにあやかろうじゃねえの」
少し重みのあるそれを首から下げてみたその時。五人の視界に一様の変化が起きた。
今まで暗闇だと思っていた空間の至る所に、赤い炎が灯っているのである。中でも初めにベルが指で示した方向には、山火事と形容しても足りぬ程の業火が燃え盛っていた。
その煌々たるや、今まで自分が盲目であったと錯覚する程だ。
人間の目が捉える事のできる光の波長には限りがあり、一般的に紫外線のような光線は目視が不可能だとされている。
見えざる火はその種の不可視光を収束させた光源であり、フラ鷲の首飾りには光の波長を変化させて不可視光を可視光に変換する機能が備わっていた。
視界を確保すると同時に、松明を掲げる数千の軍勢が此方へ迫ってくるのも確認できる。
「なんという数だ……! あんなものを相手にはできんぞ!」
流石のベルも、可視化された圧倒的な兵力差に戦意を翳らせる。
「安心しな。俺の術は〈形勢逆転特化型〉だ」
フランソワが呟くと、感電して倒れていた目の前の兵隊達がむくりと起き上がる。数にして十数人。彼らは不自然に脱力した不気味な姿で、何かを待つように呆然と立ち尽くしている。
「吸血鬼に噛まれちまった獲物は、そいつを主と崇める亡者になるのさ。――行け」
主の命令を受け、亡者達は勝てる筈のない大軍に向かって猛然と駆け出していく。確かに味方は増えたと言えるが、それでもベルにはこの兵力差を覆せるとは思えなかった。
そんな内心を見透かしてか、フランソワは大王の方へと歩いてくる。
「見てな。不可能を可能にするのが
吸血鬼の放った寡兵は暗闇の中で、松明も持たずに味方の元へと戻っていく。その姿を遠目に確認したハルピア人の兵士達は、当然それを退却してきた味方だと認識した。
灯りを失って一目散に逃げてくる様子を見て、なにか途方もない事態に遭遇したのだと、遥か前方への緊張感を募らせる。
味方が急に自我を失って敵の手に落ちるなどと、そんな事が起こる筈がない。その認識の穴が、歴戦の勇達に致命的な隙を生じさせた。
亡者達は味方に飛び掛かると、濡れた身体を押し付ける。そして体に帯びていた電流を浴びせたのである。
「あぎゃっ!」
感電した兵士は瞬く間に吸血鬼の支配下に落ち、即座に別の味方へと襲い掛かる。
次第に味方の異変に気付き始めた者も現れるが、こうなった時にはもう後の祭りだ。味方が敵と化していく状況を前に、最早敵と味方という判別そのものが崩壊する。
近付く者全てを排除せんと、敵味方を問わない壮絶な同士討ちが前線で始まったのだ。
戦列の奥で戦況を見守っていた敵軍の将は、前方の混乱に気付く。
「ぬう……? 何が起こっておる。確認して参れ!」
禿げ上がった頭と豊かな口髭が印象的な初老の男。体躯は筋肉に包まれて武人然としており、黒い羽毛が傷だらけの身体を飾っている。
マザイオス。戦において先駆けを担当し、攻めの要となる右翼軍を率いる
「
「これが話に聞くイスカンダルの魔術とやらか。仕方あるまい。最前列の兵は切り捨てよ。後列の兵を下がらせ、矢を射て最前列を皆殺しにせい」
「はっ……? しかし――」
異論を唱えた部下の首を、マザイオスの持つ黒羽飾りの大薙刀が一息に刎ねる。
「味方の犠牲がなんだと言うのだ。
冷酷な判断で禿鷹は後列の兵を引かせると、火矢を番わせて最前列の兵へと放つ。千を超える矢の雨が切り捨てられた数百の兵へと襲い掛かり、彼等を無慈悲に貫いて殲滅する。
周囲には悲鳴が響き渡り、燃え盛る炎と相まって地獄絵図と化した。
その光景をマザイオスは大して気にも留めず、「退却だ。戦列を立て直すぞ」と部下を引き連れて街へ去っていった。
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