第10話 暗夜と煌炎の街



 バビロン大砂漠への航路は、途中まで海を利用する。

 船の進行方向を定める操舵はフランソワが担当し、航界士達は周囲の状況を観測する業務に就く。アルカも十二本ある望遠鏡の一つを割り当ててもらい、アトラスに監督してもらいながら航界士の仕事を始める事になった。

 その間手持ち無沙汰なベルのもとへ、魔女が近付いてくる。彼女は窓から外を眺めていた大王の耳元に「王様」と、息を多めに混ぜて囁いた。


「うひょわっ!」

「ふふ。驚かせてしまったかね?」

「……ジル。おれに何か用か」

「外を眺めていても退屈だろう。君に仕事の話を持ってきたのだよ」


 このジルという人物は、相手の心中を読むような話し方をする。話が早いと言えばそうだが、ベルには少し不気味でもあった。


「何をさせる気だ。おれは狩りぐらいしかできないぞ」

「狩りか、素晴らしい。聞いた話だと、君は星の動きが読めるそうじゃないか。先日はその力で地上に落ちた流れ星も探し当てたそうだね」


 これだ。会って数時間にも関わらず、今までずっと見ていたかのように彼女は問い掛けてくる。


「ああ。上手く言い表せないが、〈不思議な懐かしさ〉を感じるのだ」

「君の力は錬金術師アルケミストでも持ち得ない稀有なものだ。その才能を見込んで、君には少年の命を守ってもらいたいのだよ」

「アルカを守る……何か危険な事があるのだな」

「勘が良いね。今回の仕事は、流れ星の回収だ。君も流れ星のなんたるかは知っているだろう。あの流星王と戦ったのだから」

「……ふむ」


 カール十二世との戦いは、ベルにとって苦い思い出でもあった。森の中で獣達を相手に〈狩る側〉であった大王にとって、流星王に手も足も出なかった体験は、己の力不足の象徴として今も頭の片隅に陰を落としている。


「流れ星が引き起こす異変の中心には、必ず〈王〉を名乗る存在がいる。彼らは地上に漂う哀れな魂と流星が結び付く事で、一冊の本として私達の世界にやって来るんだ」

「本……なれやアルカが使うシナリオというやつか」

「その通り。私達はそのシナリオを〈ソロモンの鍵〉と呼んでいてね。ページには取り込まれた魂の情報が記され、一個の人格を形成する。そして本を手にした人間を、自身の〈家臣〉として操ってしまうのだよ」


 アルカの友人であるステラも、カール十二世の記されたシナリオに触れてしまったのだろう。そうして手駒を得た流星王は、自身の人生を昇華した様々な術を用いてベル達に襲い掛かってきた。


「流星王は自分の事を不死身だと言っていた。何より厄介だったのは、イスカンダルの燈なる力だ。あれもソロモンの鍵によって与えられるものなのか?」

「そう。ソロモンの鍵が不死身の肉体をもたらすのには原理があってね。王様は錬金術キミアによって生み出された生き物を見た事があるかね?」

「ああ――」


 流星王やアルカによって生み出されていた灰色熊や、人間の姿に化ける奇怪な軟体動物。数多の驚きに埋もれてしまってはいたが、獣を人の手で生み出す術はベルにとっても興味深い。


「あれは〈登場者キャラクター〉。見た目や動きこそ生き物同然だが、術師の命令なくしては動けない不完全な生命だ。だが不完全であるが故に、生物のように繊細に作る必要もなくてね。体内の丹田を破壊されない限りは無限に再生が可能な、高い生命力を持っているのだよ」

「高い生命力……成程。ソロモンの鍵は人間を、その登場者キャラクターなる存在に変えてしまうという訳だな」

「いかにも。聡い子だね。ソロモンの鍵に取り込まれた人間の魂は、シナリオという物語の登場者キャラクターになってしまう。故に異常な生命力を持ち、仮に心臓部コアを破壊された場合でも再び錬成し直せば無限に復活が可能なのさ」

「不死身の化け物を生み出す書物か。それは確かに回収せねばならん。民を操るとなれば尚更だ」


 見識の一致を確認し、ジルは満足そうに微笑む。


「知っての通り、彼らは強大な力を持っている。少年がこの先で生き残るには、君の力が必要なのだよ、王様。……それに、他にやる事もないだろう?」

「心得た。おれがどこまで力になれるか分からないが、やれるだけやってみよう」

 ――大王はその言葉へ自分の決意を乗せるように、魔女の瞳を見つめた。

「その為に、戦い方をおれに教えてくれ。――覚えは速い方だ」


「任せたまえ。私も教えるのは得意なのだよ」


 何よりも、大切な相棒を守る為に。ベルは王としての威厳など意にも介さず、教えを乞う道を選んで甲板への階段を下りていった。


       ◇


 太陽とは違い、月には満ち欠けというものがある。満月の夜には獣達が猛り狂い、無月の夜には獣さえも眠る。だが星のない夜など、あろう筈もない。それは千年の時を越えて、常に地上を見守り続けてきたのだから。

 ただ一つ。この〈閉ざされた街〉を除いて。


 星明かり一つない闇の中で、辺りの至る所に焚かれた炎が辛うじて街の輪郭を炙り出している。地形に沿って配備された、木組みの台座に燃える松明。地面に集められた枝葉の山で拵えた焚き木。点在する灯りは完全に近い闇の中で、細切れに照らされた世界を繋ぎとめる錨のようだ。


 火の粉が散る街道には、褐色の身体を鳥の羽毛に覆われた人間達が闊歩している。羽毛は頭髪と同様に頭皮から生え、首周りを経て肩から腕の先までを覆う。

 腰から膝までを包む羽毛の先にはの字に曲がった三本爪の脚が伸びており、その脚力は圧倒的な速度で地を駆けさせるのだという。

 彼等は軽装だが革鎧や短剣で武装しており、歩きながらも周囲に警戒の視線を向けている。


 積み上げた石の斜面で構成されたイスカンダリアとは違い、この街は平らな砂地の上に建っている。その景観を一言で言い表すなら〈迷路〉だ。あらゆる建築物は一つの壁として繋がり、尚且つ複雑に曲がりくねって幾つにも分岐した路地を構成している。

 この建築法が確立された最大の要因は、砂漠に特有の災害である〈砂嵐〉である。エヌマエリスでは神の怒りとして恐れられた自然現象。その脅威から身を守る為に、砂漠の街は水源を四角い城壁で囲って建築される。

 内側の建物を壁で一体化させてしまい、入り組ませれば風の通り道は遮られる。そうする事で砂嵐を防ぐ事が可能という訳だ。


 またこの造りは街全体を要塞と化す。外壁が城として機能するのは言わずもがな。万が一壁の内側に侵入された場合でも、迷路と化した街で地の利を取れるのは、慣れ親しんだ住民達の方だ。

 バビロン大砂漠にはこうした街が幾つも点在し、イスカンダルによって征服されるまでの長い時を難攻不落の地として鎮護し続けてきたのである。


 街の中心に存在するのは、四角い城壁に囲まれた広大な庭園。中心には水源が奔り、炎に照らされた地獄の如き有様でさえなければ、さぞ美しかったに違いない。

 庭園の最奥には小さな宮殿が待ち受けている。丸い屋根が目を引く造形で、壁や柱の至る所に幾何学的な模様の細かい彫刻が施された外観。絢爛さのみを求めた意匠は、それが要塞としての機能を期待されるものではない事を暗に告げているかに見えた。


 僅かな兵士が守る宮殿の門へ、銀細工を身に着けた身なりの良い人物が一人足を運んでいく。

 胸板の厚い逆三角形の体格をした、壮年初期の男性。周りの兵士達も道を行く彼に頭を下げているあたり、地位の高い人物であるらしい。


「ベッソス様、お疲れ様です!」

「ホッホッホ。貴方達もご苦労ですね。何か困った事はありませんか?」

「いえ。総督サトラップのお手を煩わせる程では。貴方程の人物が自ら足を運んでくださるおかげで、我々も士気を保てております」

「私の持つ力など、戦場では大した役にも立ちません。の軍勢を討ち倒すのは、貴方達民衆の勇気と結束なのです。それを保つ為ならば、私はいかなる足労も惜しみませんよ」


 ベッソスは薄い青灰色の目玉を細くして柔和に微笑み、兵士達に見送られながら宮殿の門を潜っていく。

 白くふわふわとした細い羽根は、彼の精神が皮膚から生えているかのように柔らかく静かだ。羽毛量が多く丸みを帯びたシルエットは〈白梟シロフクロウ〉を彷彿とさせる。

 白梟は宮殿内の大広間から三本に分かれて階上に続く階段の中でも、最も大きな中央階段を上がり、二階の大半を占める〈王の間〉の扉の前で跪いた。


「アルタシャタ様。左翼軍総督サトラップのベッソスです。大至急、お耳に入れたい話がございまして」

「……入れ」


 重々しい声に従い、ベッソスは両開きの扉を開けて王の間へと謁見する。三十メートル四方程の部屋は窓を閉めきっており、煌々たる炎で部屋全体が照らされていた。

 最奥の玉座には、堂々とした体躯の若い男性が、そばに一人の女を控えさせて鎮座している。

 身体を覆う黒い羽の上からは〈羽衣はごろも〉と呼ばれる翼を模った上着を羽織っており、赤い生地は同じく赤色に染色された根元の黒い髪も相まって、周囲の炎に照らされて全身が燃え上がっているようだ。

 精悍で整った顔つきではあるが、目の下には病的な隈が浮かんでおり、不気味な雰囲気を醸し出している。

 彼が椅子に頬杖を突くと、身体を飾る金細工がかりんと揺れた。


「何用だ。ぜんは忙しい。簡潔に申せ」


 鳥人達の為政者は、自らを〈善〉と呼称する。これは自身が神の代理人として、その行いの一切が善であると定められているが故の自認である。


「陣営の外へ見回りに出ていたマザイオス総督の斥候部隊から、『異変有り』との連絡を受けました。幾つかの敵影らしきものを発見したと」


 報告を受けるや否や。アルタシャタは目を見開き、軋む程に歯を噛み締める。その血走った金色の眼球は見るからに狂気を孕んでいた。


「見ろ。イスカンダルの手先が来たのだ! 今直ぐに兵達を出せ。寝ている者がいれば死刑にしろ! 間違っても奴に先手など取らせるな!」

 

 怒鳴り声は次第に悲鳴に近い絶叫へと変わり、やがて過呼吸を引き起こす。傍らの女がすかさずアルタシャタを介抱し、彼に呼吸を整えさせた。

 主が話を聞けるようになったのを見計らい、ベッソスは報告の続きを紡ぐ。


「既にマザイオス自らが軍勢を率い、賊軍の捜索に乗り出しております。どうか王は何も心配なさらず、宮殿にて吉報をお待ちください」


 報告を終えたベッソスは両手を胸の前で交差させてうやうやしく礼をすると、足早に王の間を去っていった。

 その背中を見送り、アルタシャタは呟く。


「……皆、嘘吐きばかりだ。イスカンダルに善を殺させる気でいるのだ。誰も眠ってはならぬ! イスカンダルがやって来るぞ! 誰も眠ってはならぬ! 二度と夜明けは訪れぬぞ!」

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