第9話 黄金の福音号

 

 魔女に連れられ、アルカ達はそばの部屋へと入っていく。カード型の鍵を扉に当てて施錠を解いてから扉を開けると、そこは二人分のベッドと机が置かれた小さな居住スペースが広がっていた。

 ジルが壁のくぼみへ鍵を刺し込めば、壁面に並んだ小さな電灯が一斉に点灯する。

 初めて見る仕掛けにベルの耳がびくっと跳ねた。


「ここが二人の部屋だ。少年は私の弟子だから、特別に近い部屋を取っておいたのだよ」

「ふわ……! 師匠のそばで暮らせるんですね!」


 アルカはきゃっきゃとはしゃぎながら、部屋の中を興味津々に見て回る。


「お手洗いと浴室は別の階層にある。少し面倒だけど、衛生面を考慮しての事だ。我慢してくれたまえ」

「アイサ!」

「物品の持ち込みに関しては自由だから、家具やレイアウトなんかも自分好みにしてくれて構わないよ」


 部屋の中に用意されていたのは本当に最低限の家具だけで、あまり見るものはなさそうだった。

 ただ、部屋の最奥に並ぶ、窓越しに見える露台がアルカの心を強く惹く。扉を開けて外に出てみると、爽やかな潮風が少年の髪を吹いて頬を撫でた。腰壁越しに見下ろせば、眼下の露天甲板では船員達が発声練習に勤しんでいる。


「師匠! ここから露天甲板が見れますよ!」

「ふふーん。この露台は〈客席〉にもなっていてね。私達は航界の合間に、よく露天甲板を舞台に芝居や演奏会をして楽しむんだ。露台はその様子を見下ろせるように作ったものなのだよ」


 ジルの語り口に、アルカの脳裏にはまだ見ぬ賑やかな夜の光景がぼんやりと浮かんでくる。


「はわわわ……ワクワクが止まんないです!」

「これから長い時間を過ごす場所だ。存分に気に入ってくれたまえ」

 ――ジルは扉を開け、廊下へと出ていく。

「さ、次は共用スペースを案内しよう。昇降機で最下層まで行くよ」


 先程から大興奮のアルカに対し、ベルの反応は乏しい。唯一驚いていたのは一斉に点いた明かりに対してぐらいだ。

 船に乗る事を長年夢に見てきたアルカと、成り行きで乗る事になったベル。場所に対する思い入れの違いが、そのまま反応に現れているのだろう。


 昇降機は一気に下降し、がこんと停止して扉を開き三人を最下層へと案内する。待っていたのは、フロアの半分程をぶち抜く広大な空間だ。

 辺りには木製の長卓と椅子が幾つも並んでおり、百人余りを収容できそうだ。


「ここは食堂。場所は一階の下だ。日々の食事はこの場所に集まって、皆で一緒に摂る事になる。他にも打ち合わせの時なんかで使うかな。なんせ人数分の机と椅子があるからね」

「奥に厨房みたいな場所がありますけど、皆あそこで料理をするんですか?」


 錬金術キミアにおける料理とは、食材を切ったり煮込んだりする事ではない。必要な食材の術札アルカナを用意して、それを一度〈情報として分解し、一つの術式レシピとして再構築する〉という作業を行う。それは錬金術師アルケミストが新たな術を作る時と、全く同じ工程である。

 故に厨房とは研究室そのものであり、術師の中には『台所は錬金術キミアの訓練所だ』とまで言う者もいる。


「劇団員の中には日々の調理を仕事にしているメンバーが何人もいてね。彼らが全員分の食事を作ってくれるのだよ。ウチの料理は絶品だから、楽しみにしておきたまえ」


 右手奥の厨房とは反対側のスペースには、お手洗いと大浴場が続いていた。この階層全体が共用の生活空間になっており、数十人の劇団員達が協力して暮らしているのだ。


「研究室棟の大まかな設備はこんな感じかな。使いながらゆっくりと憶えていけばいいからね」

「お風呂も大きくて凄かったです。街の大浴場みたい!」

「ふふ。後で一緒に入ろうか。その前に、上の稽古を見に行くとしよう」


 昇降機に入りながら、静かにしていたベルが不意に口を開く。


「上で皆が大声を出していたのはなぜだ? 見たところ武芸の訓練には思えなかったぞ」

「見ての通り、発声の訓練をしていたのだよ。私達錬金術師アルケミストにとって、発声はとても重要な要素だ。王様は錬金術キミアを見た事があるかね?」

「ふむ。数える程度だが」

「よろしい。その時に、口頭で術の名前を読み上げていただろう。『演技アクション――【始源の炉バーンマ】』って具合にね」


 確かにそうだ。錬金術キミアをよく知らないベルは、そういうものだと思って気にもしなかったが。考えてみれば態々名前を叫ぶ意味などあるのだろうかと不思議になる。


錬金術キミアを上手く使うには、この〈名前を呼ぶ行為〉が大事になってくるのだよ」


 昇降機が止まって三人が外へ出ると、露天甲板では劇団員達が発声練習を続けている。

 甲板の中心で練習を監督しているフランソワは、「次、エーテルの放射練習――始め!」と号令を掛ける。

 劇団員達は腹式呼吸で空気を吸い込むと、声を張り上げた。発声と同時に、彼らの口から黄金の炎が放射する。


「良い発声だ。練習の成果が出てるね」

 ――魔女は胸の下で腕を組み、満足そうに練習の風景を眺めている。

錬金術キミアの原動力であるエーテルは、術師の体内――お腹の辺りにある〈丹田たんでん〉と呼ばれる場所に蓄積される。それを遠くに飛ばすには、腹式呼吸による発声が最も効果的だ。要するに大きな声で詠唱を行った方が、術の射程距離が伸びるのだよ」


「ふむ……それで声量の寡多が重要になってくるのか」

 

 ベルも錬金術キミアに関しては、多少なり興味を惹かれているらしかった。

 周囲の声が止むと、フランソワは三人のもとへやってくる。


「よう、団長。丁度終わった所だぜ」

 ――吸血鬼はジルと一緒に出てきたベルを見ると、ふんと鼻を鳴らす。

「ベルだったか。どうやら団長に気に入られたらしいな」


「これから世話になる。よろしく頼むぞ」

「この船に乗るからには、くれぐれも死んでくれるなよ。が死ぬと煙草が不味くなる」


 フランソワは牙を見せ、子供っぽい笑みを浮かべる。この少し軽薄な態度が、立場や役割に求められる振る舞いの抜けた彼本来の姿なのだ。

 少し硬かったベルの表情も、自然と和らいだ。


 ジルはぱんぱんと手を鳴らし、周囲の劇団員達の注意を引く。


「今日から新たに二人。私達の船に新しい仲間が加わる事になった!」


 劇団員達は拍手や喝采、口笛で空気を沸かせて場を盛り立てる。いつの間に準備していたのか、クラッカーまで幾つか鳴り響いた。

 ジルは再び手を鳴らし、大はしゃぎの彼らを落ち着かせる。


「皆の気持ちは分かるが、歓迎会は夜に持ち越しだ。先ずは大灯台から任されている仕事に取り掛からないとね!」

 ――彼女は芝居がかった動きで南の空を指で示す。すると周りの劇団員達も一緒になって、同じ方向へ指を向けた。

「目指すは東のバビロン大砂漠。その中央に出現した、超巨大シナリオ異界だ!」

「「「「「アイサァーッ!」」」」」


 皆に少し遅れて空へ指を向けたアルカは、出航に向けて動き始める船内を輝く瞳で眺める。すると何人かの劇団員が此方に集まってきた。彼らはジルの前で一列に並ぶ。


「艦橋に新しいメンバーが加わるのは久し振りッスね。ま、一番最初の後輩はお弟子くんだって信じてたッスよ」


 列の中心に並ぶ眼帯がアルカに労いの言葉を掛ける。

 アトラス・メルカトル。彼は過去にジルの試験に合格した、黄金の福音号ゴールデン・エヴァンゲル唯一の一等航海士マスターだ。


「大灯台で沢山勉強してきました! よろしくお願いします!」

 

 アルカは精一杯の大きな声で、先輩達に挨拶した。航界士達は拍手で新入りを歓迎してくれる。


 ジルは一堂に集った航界士達の人数を確認すると、露天甲板の中央部に目を遣る。

 そこには帆柱マストの代わりに、鋼の塔が屹立していた。八角柱を基底に四角柱、円柱と階層が連なる構造。その外見はスケールこそ小さいものの、イスカンダリアの大灯台に酷似している。この構造物は艦橋と呼ばれ、船を操縦する為の司令塔となる部分だ。

 アルカは数年間に渡って大灯台での仕事を学んできた訳だが、それは全て船を動かす知識を得る為だったのである。


 フランソワは皆を先導し、艦橋の入り口となる両開きの扉を押し開ける。


「この艦橋が俺達航界士の仕事場だ。中の設備は大灯台と殆ど変わらないが、一応中を案内してやろう」


 内部は壁沿いに螺旋階段が設けられており、中央には昇降機も設置されている。また壁には薄いスクリーンが張られており、船の周囲の景色が映し出されていた。ただ窓はなく、非常に閉鎖的な空間だと感じるだろう。

 床の上には幾つもの管制装置が設置され、船の操縦ができる環境が整っているのがアルカには分かる。


「第一階層は司令室だ。ここは戦闘時に指揮を執る場所だから、艦橋の中でも一番装甲が厚くなっている。その分独立した情報収集能力は殆どが第三階層にある〈大鏡おおかがみ〉からの視覚情報に頼りっきりだ。ま、早い話が避難場所シェルターだな」


 昇降機は狭く全員は乗り切れないので、{ジル、フランソワ、アルカ、ベル}の四人が乗る事になった。

 第二階層へ行くと、先程とは裏腹に柱を除く全面が硝子張りになっている。ここにも操縦設備が設けられている他、大小様々な形状の望遠鏡がそこら中に設置されていた。


「ここは天文台。通常の航界業務を行う場所だ。望遠鏡は全て第三階層の大鏡と繋がっていて、望遠鏡のサイズによって違った倍率だったり〈強調表示する対象〉を変えられるようになっている。俺達はここで星や海の様子を観測して、船を安全に目的地へと進めるんだ」


 説明を聞いている内に、階段で上がってきた航界士達も合流してきた。


「最上階の第三階層にはデカい鏡があるだけだが……アルカも知っての通り、大鏡こそがこの船の要だ。全方位の視覚情報を収集し、映像として記録と出力が可能な最高クラスの観測システム。俺達はそのとして、大鏡が集める膨大な情報から意味を見出すのが仕事だぜ」

「アイサ!」


 航界士達は各々の持ち場に就くと、双眼タイプのレンズから望遠鏡を覗き込む。


「内部機関稼働状態、外装稼働率。共にオールグリーン」

「全乗組員、配置完了」

「十二方位確認。障害物、オールクリア」


 船内通信や大鏡によって船の各所から天文台へと集約される情報を基に、航界士達が次々に安全確認を取っていく。


「よーし。出港準備完了だ。団長、いつでもいけるぜ」

 ――フランソワが最終確認を出すと、そばに控えるジルへと指揮のバトンを渡す。


「いいとも。――諸君、出航だ!」


 船体の側面から伸びる鋼鉄の手足が波を掻き、帆のない船は海へと進み始めた。

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