千夜城に日は昇る

第7話 獣の夜、人の朝

 星降節の夜より一日。人が眠り獣達の目覚める夜が、今宵もエヌマエリスの全土を包む。日の出ている時間に、人間以外の生物は存在しない。獣達は日が沈むと同時に世界へと出現し、夜明けと共に去っていく。

 長い錬金術キミアの歴史で未だ解明されていない、謎の一つである。


 古来より人が夜を忌避するのは獣が出没する時間であるからだと言われている。だがより本質的な理由は、太陽から供給される〈エーテル〉が薄まる時間帯であるからだ。

 エーテルとは〈意志の媒介〉である。人間の身体を動かすのも錬金術キミアを使うのも、共に〈意志を現実に反映させる〉という行為だ。

 そしてより大きな視点で見れば、世界そのものを動かしているのもまたエーテルなのである。


 世界を動かしているのは、天に浮かぶ星々によって定められる〈法則〉だとされている。法則とは、〈世界のそのものを構築する巨大な術式レシピ〉だと思えばいい。

 気圧の差によって風が吹くのも、熱した水がやがて冷めるのも、全ては世界が法則に従って動いているからだ。

 そして法則は不変である。星の並びが変わらないのは、その象徴と言えよう。


 だが何事にも例外は存在する。人間が持つ意志の力は、法則に変化をもたらす唯一の因子である。延いては世界を変える錬金術キミアの原動力となる。

 世界を変えようとするのは人間だけだ。世界中のどんな獣も世界を変えようとはしない。

 逆に言えば――人は世界を変えるのを止めた時、獣へと成り果ててしまうのかもしれない。



 イスカンダリア河上流の森。街から遠く離れた一帯は、法治を嫌うならず者達の巣窟となっている。

 背の高い椰子が茂る一角。まばらな人灯りさえ消えた夜闇の中を、幾つかの重々しい足音がゆっくりと進んでいく。

 月明かりに照らされたのは、漆黒の頭巾を巻いた一団だ。褐色の身体をみすぼらしい布で覆った人々は、今では廃れた宗教団体を前身とするならず者の集団である。いずれも術の心得があるようで、腰のベルトにバインダーを帯びている。


頭目ボス、本当にこんな森の中で見つけたんですかい?」


 しゃがれた声の男が、先頭を歩く人物に問う。


「ああ。もしかしたらまだそこいらに落ちてるかもしれねぇ。こいつはよぉ、きっと神様からの授かり物だぜ。日頃一生懸命働いてる俺達にってな」

「ケッ、野盗に神も仏もあるかってんだ」

 ――三人目の男は冷笑的シニカルに仲間の言葉を茶化す。


 彼らは何かを求めて、危険な夜の森を徘徊していた。人を獣から守る結界の庇護から外れた弱肉強食の世界に生きる者共とはいえ、平時ならば考えられない行動だろう。

 ふと頭目は前方の暗がりに何かの気配を感じ、手で仲間に合図を送る。


「どうしやした」

「……獣の臭いがする。俺は鼻が効くんだ」


 しばらく身を潜めていると、風に乗って本当に獣特有の芳しい香りが漂ってくる。それはがさがさと草木を掻き分け、彼らに接近してきた。


「やべえぞ……マングローブ齧りか?」

「お前らは下がってろ。この前奪った術で一気に片付けてやる」


 致命的な遭遇にも、頭目は大して動じる様子がない。腰のバインダーから取り出した術札アルカナ錬成釜コルドロンに押し込むと、印を結んでいく。


演技アクション――【獅子威し】!」


 目の前から周囲の草木を巻き込んで立ち昇った火柱は、巨大な獣を模って熱風の咆哮を上げ、前方を威嚇した。


「ぐへへ! このまま焼き殺して――」


 頭目がこれから始まる虐殺に心を躍らせた刹那。燃え上がる火炎を突き破り、何かが宙を貫いていく。頬を掠めていく。

 後ろの二人が自身に迫る危機を理解するより先に、駆動した双腕が野盗達の顎を容赦なく砕いた。突き上げる拳は肉体を縫いぐるみ同然に跳ね上げ、背後の暗がりへと捨て去る。


「歯応えがねぇナ。〈ソロモンの鍵〉の力ってのはそんなモンか?」


 闇の中に響くハスキーで中性的な声。獣の輪郭を月明かりに浮かび上がらせたのは、人外じみた体躯ながらも人間だ。眼光は遥か頭上。体高にして三メートルは下るまい。

 獣の腕はずんぐりとした男達の胴より一回り以上太く、彫りの深い筋肉で覆われている。それは腕に限らず。引き締まって一片の贅肉もない腹筋は六つ以上に割れ、の字型の脚も異様に発達してはち切れんばかりに太い。

 衣服はボロ切れ同然の毛皮を局部に巻き付けるばかりで、肉体の殆どが露わになっている。


 完成された戦士の身体を見上げていた頭目は、ある事に気付く。


「てめぇ……女か!」


 獣の胸には身体中の脂肪を集めたかのように、大きな膨らみがある。


「だったら安心したか? 直ぐに無駄な期待だって分かるぜ」

「ぐへへ……そっちこそ侮るなよ。俺は神に味方されてるんだ!」


 頭目はマントの内側からもう一冊のバインダーを取り出し、引き攣った笑みを浮かべてページを開く。すると彼の全身に黄金の炎が立ち込めた。

 その内側から使用人メイドの服に身を包んだ可憐な女性の姿が現れる。その整った風貌とは裏腹に肩からは無数の腕が伸び、昆虫を想わせる奇形は見る者に寒気を這い寄らせる。


「キリキリキリ……〈霧裂きりさき王〉ジャックくんの参上だよぉ!」

 

 声は低く、成人男性のそれだ。女装の怪人物は手袋をはめた自分の細い指を赤い舌で舐める。


「出てきたナ。お前がソロモンの鍵に召喚された王か。悪いが回収させてもらうぜ」

 

 獣はぐりんと肩を回し、格闘の構えを取る。闘争心のあふれる姿を前にし、ジャックは滑稽そうに目を細める。


「回収だって……? 契約者くんハニー、ジャックくんの術を使ってあげなよ。甘美な赤い蜜で、噎せ返るような夜にしよう!」


 熱い息を吐きながら顔を上気させるジャックの言葉に従って、頭目がバインダーから抜いた術札アルカナ錬成釜コルドロンに入れる。錬成円を展開すると、霧裂王は印を結んでエーテルを錬り上げた。


舞台ステージ――【白霧に烟る街ホワイト・チャペル】!」


 するとが濃霧が瞬く間に周囲一帯を飲み込み、獣の目から獲物の行方を眩ませる。


「逃げるにはもってこいの術だナ。コソ泥には似合いじゃねェか!」

 

 獣は挑発しつつも、頭上の獣耳を立てて周囲を警戒する。敵の好戦的な態度から察するに、この術は逃げ回る為の目眩しなどではない。喉首を狙う狩人の茂みだ。

 だが獣は他の術師がするようにバインダーを構えもせず、丸腰のままで敵の攻撃を待っている。

 その様子を隙と見たか、周囲を包む霧は四つの人型に形を変え、四方の頭上から標的へと襲い掛かった。


「「「「キリキリ! この数を避けきれるかな!」」」」

 

 四人のジャックが数多の手に刃を形成し、斬撃の雨を降らせる。

 周囲を囲まれ絶体絶命の危機に瀕してなお、獣は落ち着いていた。長い脚を折り畳んで柔軟に胸元まで上げ、武器の如く構える。そして鋭い蹴りが破裂音を響かせながら放たれ、周囲を一閃に薙いだ。

 傍目には豪快な横一文字。だがその実は振り下ろされる刃を的確に避け、霧の胴体を尽く掻き消していた。

 分身達が霧散した直後。攻撃を放って守りの崩れた獣の脇腹に、どんっと衝撃が打ち込まれる。獣が見下ろせば、死角から忍び寄っていたもう一人のジャックがナイフを突き立てていた。


「キリリ! 上の四体はただの囮だよ。ジャックくんの【白霧に烟る街ホワイト・チャペル】は、五体の分身で同時に攻撃を行い、〈攻撃が命中した分身の一つだけを本体として実体化させる〉術! つまりは〈五つの行動パターンから、攻撃が命中した結果だけを得られる〉無敵の術なのさぁ!」


 霧裂王の饒舌な語り口からは、勝利への確信がありありと見て取れる。

 だが腹を刺されているにもかかわらず、獣は余裕の表情で相手を見下ろしていた。


「必ず当たるってのは結構だが、命まで届かなきゃ意味ないンじゃねェか?」

「……なんだって?」


 ナイフを握る手に力を込めようとして、ジャックは指摘された違和感に気付く。肉に食い込んだ刃先はぴくりとも動かず、皮下の浅い部分で完全に抑え込まれていたのだ。


「ウソ。ジャックくんの自慢のナイフが――」


 整った顔を巨大な拳が叩き潰し、後ろにいた頭領の頭蓋ごと打ち抜く。後方の茂みへ吹き飛んだ彼の手からバインダーが離れ、宙を舞って地面に落ちた。獣はそれを拾うと、手で表紙に付いた土を乱雑に払う。


「七十個目の鍵……回収完了だ」


 ◇


 星降節の夜より二日。すっかり静けさを取り戻したイスカンダリアの街並みを飾る、集合住宅インスラの片隅。

 白いブラウス姿の少年と黄金の毛皮に包まれた裸の大王は大きなベッドで二人、乱れたシーツにしがみ付きながら眠りこけている。

 露台側の窓から差し込む陽光が少年の顔に届き、その瞼を薄く開かせた。


「むにゅ……駄目ですってば師匠――」


 脳内を満たしていた夢と、瞼の隙間から映り込んできた現実の景色が混ざり合う。溶け込んで来た陽の光は夢を忘却の底へと追いやり、アルカに今朝の予定を思い出させた。


「はわっ! 今何時ですか!」


 壁の柱に掛けられた時計を見ると、目を覚まさなければならない時間の直前であった。少年はほっと落ち着き、隣で寝ているベルにぴとりと身を寄せる。


「起きてくださいー。朝ですよ」

「ふむ……分かったから引っ張るな……」


 アルカは相棒を起こすとベッドから下り、壁に掛けてあった修道服へと着替えに行く。うきうきと支度する少年を、ベルはまだ眠そうな目でぼんやりと眺めている。


「朝から随分とせわしないな」

「何言ってるんですか。今日は師匠の所へ挨拶に行く日でしょ。ベルが船に乗せてもらえるように頼みに行くんですから、だらしない格好じゃ駄目ですよ」


 はりきるアルカに対し、大王はそう都合良く事が進むとは思っていなかった。少年はイスカンダルの燈を手に入れるという困難な試験を突破して、漸く船の一員として認められたのだ。見ず知らずの子供が易々と船に乗れるとは思えない。

 ベルとしてはアルカと一緒に暮らせるだけでも満足だった。たとえそれが、少年が海へ出てしまうまでの束の間であったとしても。


「アルカ、海の外へ出るのは何時いつなんだ?」

「えーっと……十二の月の初めですから、大体一か月後です。どうかしましたか?」

「それまで何をして過ごすのか気になってな」

「実はボクも詳しくは知らないんですよね。師匠は『仕事がある』って言ってましたけど」


 着替えを済ませたアルカはバインダーから術札アルカナを何枚か取り出すと、紐付きアルレシアを使って机の上で錬成を行う。皿の上に乗った暖かく大きなパイが、焼けた古代小麦と魚醤の香りで寝起きの空腹達を迎え入れた。


「とりあえず朝ご飯にしちゃいましょうか」

「ふむ!」


 厚い生地を円盤状にして焼き上げたパイはさくりと歯触り良く砕け、中にごろごろと入ったとりのもも肉が抜群の食べ応えを与えてくれる。

 肉は魚醤とニンニク、それからポロ葱で風味を付けてあり、香ばしい生地によく合っている。


「ふむふむ……美味い。アルカの作る料理は初めて食べる物ばかりだが、どこか懐かしい味がする。不思議な感じだぞ」

「イスカンダリアの伝統料理だからですかね。小さい頃に師匠がよく作ってくれたものを真似してるんです」


 温かい朝食で心をほぐしながら、ベルはまだ見ぬ師匠の姿に不安と期待の入り混じった想いを馳せるのだった。

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