第3話 せっかく早起きしたので
雲一つない晴れ空。
風もない穏やかな休日。
珍しく早起きした土曜日の朝はゆっくりとコーヒーを飲むに限る。
近所のレトロな喫茶店は趣が洒落ているのもあって、店内はまだ八時も回っていないのにカウンターも含めて席はすべて埋まっている。がやがやとして騒がしいというほどでもないが、そこかしこから会話が聞こえて店内は賑やかしい。
注文したコーヒーからは湯気が立ち上り、香ばしい匂いが際立つ。モーニングには厚みのあるトーストとポテトサラダとゆで卵。それを黙々と口に入れる俺は、目の前の現実を見ないようにと目を落としていた。
――――はい。現実逃避です。
いつもの土曜の朝? 予定でもあれば早起きするが、基本昼まで寝てますが何か?
平日休日構わず朝ごはんと言えば、いつもは食パン一枚で済ませてしまう俺からしたら豪勢と言える朝食。なのに、テンションは上がらないどころかだだ下がりである。
まあ、その原因は言わずもがな。目の前――向かいに座っている人物だ。
「ねえ、巧くん」
突然降ってきた声に俺の肩が揺れた。
テーブル一つ分の距離がある筈なのに、彼女の声が鮮明なまでに耳に響く。もそもそとトーストに手をつけていた俺は、バターの塩味で少しばかり癒されかけていた筈だったのに。一瞬で賑やかしさが遠くほどに、彼女の声がズドンと押し寄せた。
昨日まで、この声は癒しだった。
甘く耳に残る声で名前を呼ばれるたびに、胸が高鳴って……恋愛序盤の浮かれ気分を味わっていた。好きな子に名前呼ばれるなんて何歳になっても嬉しいもので、それだけで高揚感に満たされる。…………筈なのに――今は、ゾッとする。
呼ばれても俯いたままでは不自然だ。仕方なく俺はそろりと顔を上げ、直視できずにいた彼女へと目線を戻した。
「どうしたの、巧くん?」
昨日の影響か、薄ら笑っているように見えなくもない淡く笑った表情。僅かばかりの開いた口の隙間から見える歯に牙らしきものは見えない。目の色も澄んだ茶色で、
残念ながら、ここであなたは吸血鬼ですか? なんて問いかける度胸も無ければ、何の前触れもなく血を吸う女の子の行動をさらりと流せるる甲斐性は持ち合わせてはいない。
俺は普通の社会人四年目の彼女ができて浮かれているだけの男です。どうかもっと度胸があって金銭的にも味覚的にも美味しい方がいると思うので、他を当たって下さい。
当然俺の頭に浮かんでいたのは、『別れる』という選択だった。いくら美人でも、いくらエロくても、受け止めるには限度がある。
「あのさ、百合さん……その」
――別れよう
そう告げる筈だった。
「昨日の事、どう思ったの?」
俺の言葉を遮った百合さんの声は落ち着いてるなんてもんじゃない。
含みがある態度なのかどうか知らんが今ここでそれ訊きます? え、ビビってましたけど? 何なら今もビビってますけど? だからって、俺がここで今吸血鬼がいるだとか何だとか喚いて、あたおか認定されるのは俺って事ぐらいには冷静な判断できてますけど何か?
だいだい、どうって何だよ。抽象的すぎるだろ。俺にどう言って欲しいんだよ。わかんねー。
「あー、その……いえ」
歯切れの悪い口調。この上なく格好悪い。
けれども、俺の様子を見抜いているような彼女の目。その目は変わらず余裕の笑みを浮かべたまま、クスリと溢す。
テーブルに肘を突いて、余裕の表情が余計に怖いと思う俺はただのビビリなのか。でも突然首に噛みついて血を吸う人を警戒するなとか言っても無理ですけどね。
「びっくりした?」
「いや、まあ」
びっくりどころじゃないですけどね。とは言えず、とりあえず適当な事言って切り抜けようと、目を泳がせつつも冷静さを失わないためにコーヒーを啜る。
「私は、巧くんが好きよ。ねえ、巧くんはまだ私の事、好き?」
俺は、カップから口を離しても、まだたっぷりと残ったコーヒーを見つめたまま目線を上げる事が出来なかった。
コーヒーカップの中身を見つめたまま固まる俺を、彼女はどう思っているだろうか。店内は変わらず賑やかしい――はず。けれども、この店には俺と彼女しかいないのではないか――そう思える程に人の声は遠かった。
彼女の眼差しすら確認できない……というより確認したくもない。俺は一気にコーヒーを飲み尽くすと、せっかくの贅沢な朝食を残したまま伝票を手に立ち上がった。
「ごめん、用事思い出したから今日はこれで――」
わざとらしい言い訳だっただろう。けれども、彼女から逃げる算段はそれしか思いつかなかった。
引き止める言葉はない。聞こえなかっただけかもしれないが、俺は振り返る事もなく、さっさと支払いを済ませると店を出た。
喫茶店から、俺が住んでいるアパートまでそう大した距離はなく、すぐそこだ。
彼女が席を立った気配はなかったし、俺の後に店を出た人物はいない。
けれども、昨日生まれたばかりの恐怖心が俺の精神を蝕んで、背後に幻覚を生み出そうとする。
俺は、走った。
荷物を軽くまとめて、友達か同僚の家にでも転がり込もう。しばらく雲隠れでもすれば、百合さんだって俺の事を忘れるだろ。ていうか記憶から消してくれ。
彼女が背後から追ってきているわけでもないのに、俺には急ぐ理由があった。彼女に家が知られているから、ではない。問題は、彼女の家の場所だ。
そう、彼女の家は。同じアパート――しかも隣の部屋だ。
今年一番走ったと思う。喫茶店から五分とかかっていない。けれども、俺は重要な事を一つ忘れていた。
「あ、巧くんだ」
俺の部屋の前――扉に凭れる女性。百合さんとは違って明るい茶色の髪色。派手ではないが、胸元が開いたシャツとスリットの入ったタイトスカートといった服装。ふわりと巻いた髪が揺れて、しっとりとした瞳が俺をじっと見つめていた。
「どこに行くの?」
ねっとりと艶のある声。清楚系な百合さんとは対照的に、派手と言う程ではないが良い女という言葉が似合う百合さんの姉――
「………………
俺の家の隣には、美人姉妹が住んでいる。
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