第2話 男だって痛い事は嫌いです

 うっすらと開いた唇が如何にも怪しい。その唇が動くとまた、更に。

 

「痛かったら、私の事も噛んで良いからね?」


 何そのちょっとエロいセリフ。体勢が、俺の膝の上と言うのもあって、不覚にも少しだけ反応してしまった。


 が。そんな浮ついた思想は、一瞬で消えた――


 ブツッ――


 嫌な音が、俺の鼓膜に突き刺さった。


「いっっ……‼︎?!?」


 何が起こったか、直ぐには理解できなかった。理解できたのは、が突き刺さった様な痛みとハンマーでど突かれた後みたいな鈍い痛みが同時に襲ってきた、という事だけ。

 あまりの痛みに耐えきれなかった俺の声は、叫ぼうとした瞬間に頭を彼女の肩に押さえつけられて掻き消える。

 叫ぶ事も踠く事も許されず、俺はただ――耐えるだけだった。


 ――痛い。痛い痛い痛い痛い‼︎


 横目で見なくとも、先ほど触れていた首筋を女の顔が埋もれている事だけはわかった。いや、喰らい付いている――か。

 紛い物でない牙が俺の首に突き刺さって、肉を抉っているとしか考えられない。


 肩口に抑えられ、歯を食いしばって痛みを堪える俺の口からは、熱い息が溢れては女の服に吸われていく。本当に噛みついてやろうか、なんて考えたけれども、そう間をおかずして不思議と痛みが鈍くなる感覚があった。

 残ったのは、熱だ。


 ――熱い


 鈍い……歯医者で麻酔を打った時のような違和感。そこからはひたすらに熱が生まれて同時に、段々と怒りが薄れて――というよりも、思考が鈍くなっている感覚があった。ただ、痛みが鈍くなったおかげ、だろうか。思考はぼんやりとしながらも、それまで気が付かなかった音が耳へと届く。

 

 じゅるり――と、何かを啜って、ゴクリ――と飲み込む音。


「……はぁ、ゆり……さん?」


 更には、鼻をかすめる鉄のにおい。

 これは――血だ。


 ――俺の血を――飲んでいるのか……


 ゴクリ、ゴクリ、百合さんが嚥下を繰り返す姿。


『吸血鬼』


 脳裏にそんな言葉が浮かんだ。


 


 首から圧迫感が薄らいだ。首は違和感と熱を保ったままだったが、異物感だけは消えていた。それまで俺を雁字搦めにしていた力も遠のいて――口周りを真っ赤に染めた百合さんが、青い瞳のまま俺を見つめている。この上ない恍惚な笑みを浮かべて。


  俺は、熱に浮かされていた。

 だから、百合さんに言うはずだった罵詈雑言が咄嗟に口から出る事もなく、ただ黙って何をもって見つめているとも知れない彼女の瞳へと視線を返した。


 そう、それだけ。


 なのに。

 彼女は俺の姿を見てか。それとも満足の証だったのか。うっとりとしたままの顔が俺に近づいて――赤い唇が、俺の唇へと重なった。


――血の味がする……


 ぬるりとした鉄の味。今まで、些細な事でしか口にしたことのないそれ。どの記憶よりも濃い血の味を口にして――俺の記憶は、途絶えた。



 ◆◇◆◇◆



 身体が……重い。


 鉛みたいだ。そんな言葉を浮かべながら、薄いカーテンから溢れる日差しで目覚めそうになるのを拒否する為に、頭まで布団を被る。

 今日は土曜日。怠い身体を起こす必要なんてない。


 瞼を閉じて、寝入ろうかとした時……ふと思い出す。


 ――俺、どうやってベッドに入ったんだ?


 その瞬間に昨日の記憶がまざまざと蘇り、完全に目が覚めた俺は上体を勢いよく起こそうとした。

 だが――


「いっ……‼︎?」


 左肩に痛みが走った。な何とか身体は起き上がったものの、酷い筋肉痛にも似た痛みに思わず首筋を抑える。


 ――あ、あれだ。予防接種の時みたいに肩に針ブッ刺されたみたいな……


 あれより痛いけど似ているなぁ、なんて。気楽に考えていたのも束の間、ふつり……ふつりと寝ぼけていた脳みそが覚醒して、靄がかかっていた記憶が段々と開けていた。


「……あっ⁉︎」


 思い出した瞬間に眠気は覚める。

 自然と指先は、噛まれたであろう場所へと向かう。そこには、ご丁寧に大きめの四角い絆創膏が貼られていた。

 怪我の記憶は一つ。だが、絆創膏を貼った記憶も、に手当てをしてもらった記憶も無い。

 

 ――夢じゃない……俺は昨日、噛まれたんだ

 ――……彼女に


 そしてもう一つ思い出した事。


 ――そう言えば、途中で気を失った気がする……

 ――……ていうか……俺何でベッドで寝てるんだ?

 ――服装は、そのまま……あ、でも上だけ部屋着……


 もう、何もかもが意味がわからなかった。


 だが、それ以上に意味がわからなかったのは――


「あ、巧くん」


 同じベッドの上――隣には、件のらしき人物が今起きましたと言わんばかりに目を擦り、熱っぽい瞳を向けながら俺をじっとりと見る。しかも俺の部屋着を着て、だ。


「おはよう」


 眩しい笑顔で言い放った一言は、まだ夢見心地な俺の思考を目覚めさせるには十分だった。

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