第五話 下心
「夢を」
長い長い沈黙の後、美丈夫はどこでもない場所を眺めてそう呟く。
「貴方に夢を、見せるために」
そう言ってまた黙り込んだ男に、俺は仕方なく「それで?」と囁いた。
これ以上誤魔化させるつもりはない。まぁ、最も――――この男も、もはや誤魔化す気はないだろうが。彼はまたぽつりと続けた。
「塔にいる可哀そうな子供に夢を見せて、そして安楽死させるようにと、私は命ぜられてここに参りました」
「命じたのは誰だ?」
「貴方が先ほどご自分で仰った方々です」
俺は体を起こして、床に座り込む。天井を仰いで、深々と息を吐いた。
俺の髪が、床と床に零れた薔薇の花弁に触れる。
「――――――母上と父上が、どうして?」
ベルンハルトも体を起こして、そして彼は窓の外を振り返った。雨はまだ止んだままだ。月が己の光でこの部屋を照らすという、無意味な演出を続けていた。舞い落ちた薔薇の花弁も相まって、まるでこの塔の一室だけ御伽噺から切り取られてしまったかのようだ。
ベルンハルトは、外を眺めたまま口を開く。
「貴方がここに囚われている間に、世界はさらに狂っていきました。ここから見える異常は、せいぜい空から降る狂気のみでしょうが、ここから離れたところにある人の住む町ではもはや人間がまともに過ごせるような地ではなくなってきている……それでも何とか知恵を絞って食料を確保して、その日を生き残れた人間達で明日をまた生き残ろうと懸命に生き続けていました――――――先日、神託が降りました」
彼はうつむいて、そして転がったままの薬を手に取る。それを見下ろし、ベルンハルトはかすれた声で呟いた。
「『もはやこの世は地獄に堕ちる。それと共にする前に、神の楽園へ参れ』と。そしてその言葉に従って、民たちは皆、神の楽園へと向かいました――――――もう、この世で生きているのは、任務を命ぜられた私と、この信託を告げられていなかった貴方のみです」
俺は、この男が何を言っているのか理解できなかった。全身を硬直させて、目を見開く。
「は……?」
ベルンハルトは薬を握りしめたまま顔を上げ、そしてラピスラズリの瞳で俺を見つめた。俺は意味もなくその瞳を覗き込む。そこにあるはずの何かを探して。
だが、あったのは安寧だけ。揺らぎも動揺も無い。そして、夜の海の水面を思わせるように、その瞳の奥は暗い。
彼は残酷に、続ける。
「神の言葉は、絶対――――皆、自ら命を絶ち、神の御許に向かいました」
「みん、な?」
「えぇ。王も、王妃も、城の高官も、下僚も、神官も、国の民も、皆。私が命を受けこの塔に上ったとき、この塔に勤めていたメイドが全員神の楽園へ向かったことも、確認済みです」
「メイド、達も……?」
「はい」
『明日の朝食は何に致しましょう、姫様。何かご希望はございますか?』
なんでもいいけれど、皆で一緒に食べたいわ。
『仰せのままに、姫様。他のメイド達にもそう伝えておきますね』
嬉しいわ。
『私達も、姫様にそうおっしゃっていただけて嬉しゅうございます。それでは、おやすみなさいませ』
えぇ、また明日。
『良い夢を、姫様』
…………そんな会話を。会話と言っても俺は筆談だったが、交わしたのだ。この男がバルコニーに降ってくる、ほんの少し前に。この塔で六年もの時を共にした、優しいメイド達の一人と。
そんな風に、いつも通りに、穏やかに。
「私は近衛騎士です。王と王妃の命は絶対――――――この塔で、優しい世界で生きる私達の子供に、最後の最後まで夢を見せろと、そう命じられました。そして、その幸せな夢の中、穏やかに殺せと」
「そう、母上と父上が?」
「はい。それが、神の楽園へと向かわれたお二人の最後の命でした。そして、フェリシア姫が、囚われのお姫様を騎士が助け出して結婚を申し込む絵本を毎日好んで読んでいるという情報をここのメイド達から教えて頂きまして…………同僚の近衛騎士団の中でもっとも容姿に優れていた私が、姫を助ける騎士の役を担当することになったのです」
「へぇ……」
「毒薬の匂いを誤魔化すために、この甘い香りの赤い薔薇の花束を用意して。そして、幸せな夢を見ている間に服毒させる。最後まで憂いなど一切ない幸せな世界に生きたまま――――…………これが、私の下心の全てです、フェリクス王子」
そう言い切って、彼はもはや沈黙した。
包みから零れ落ちた薬は、二人分――――この男も、命を達成後に自殺する予定だったのだろう。
俺は、喉を震わせる。
「……王子」
「はっ、は、はははは……――――――――おい、ベルンハルト」
俺は唇を醜く歪めながら、おかしそうに騎士を見た。
あぁ、おっかしい。
「狂信者しかいねぇのかぁ、この国は?」
はっ、と俺は乾いた笑いを吐き出した。互いに床に座ったまま、俺は歪な笑みを浮かべて呆れたように言い放つ。
「信託に従って、皆仲良く自殺か?」
「はい……元々、希望も無い世界になってしまっていましたから」
「はっ、馬鹿みてぇだなぁ。それでお前は、皆が自殺した狂った世界で、この狂った世界を忘れて幸せに暮らしてた、狂った姫を殺しに来た訳か、あぁ、成程なぁ」
あぁ、おっかしい。
俺は、けらけらと腹の底からこみ上げたそれに従って笑ってやった。天井を仰いで、大仰に笑う。
「それでてめぇは、その哀れなガキに夢を見せに来たって訳か。気障ったらしく薔薇の花束片手に持って、バルコニーにわざわざ舞い降りて、そんでプロポーズねぇ、ははっ」
愉快に笑う。けらけら、けらけら、無意味な俺の声だけが暫く部屋にこだました。
目の前の男は、何を考えてるのか良く分からない無表情でそんな俺を見つめている。瞳にあるのは安寧と、その奥の暗鬱な陰影だけ。もしくは、諦め。
初めにあった動揺はもはやない。
「フェリシア姫は、すでに亡くなられていた。夢を見せて、幸せの中殺せという命令は、もはや果たせない」
ぽつりと、彼は呟きを落とす。
「最後に、私が忠誠を誓った王と王妃の命令に背くことになるとは、思わなかった――――命令を私に下したお二人も、すでに亡くなられた」
深い諦めの中にいるだろう男を、俺は鼻で笑った。俺は立ち上がり、座り込んだままの哀れな騎士を見下ろす。
顔を上げたベルンハルトの深青の瞳を俺は覗き込んで口を開いた。
「この塔で、優しい世界で生きる私達の子供に、最後の最後まで夢を見せろ。そして、その幸せな夢の中、穏やかに殺せ。これがお前に言い渡された最後の命令だな?」
そう告げれば、彼は少し瞳を揺るがせてから頷く。
俺は薔薇の中に座り込む美丈夫を心底馬鹿だと思う。くだらない命令に背くことを嘆くところも、こんな簡単なことにすら気が付かないところも本当に愚劣だ。
だが最初からこの男は馬鹿だったので、わざわざ言ってやらねば分からないのだろう。
本当に、愚かな男だ。
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