第四話 薔薇

 世界の均衡が、崩れ始めた。

 そして、化物が徘徊を始めた。彼女は、そいつに殺された。


 一瞬だった。


「だから俺は、フェリシアになることにした」

「……何故?」


 やっと口を開いた男を無視して、俺は淡々と続ける。


「簡単だった。俺とあいつは鏡映しだった。特にまだ性差が無いガキの頃だったからな。適当に死体をぐちゃぐちゃにして、股の間を食われたみたいに抉り取ってやったらもうそれが男の俺か、女のフェリシアかどうかなんて区別出来ない」

「何故、貴方はフェリシア姫と入れ替わったのですか?」

「後は服を交換すれば、完璧だ」

「フェリクス王子――――何故?」


 俺はベルンハルトを見下ろす。この男は根気強く俺を見上げていたみたいで、なんて鬱陶しい男なんだと辟易した。そんな面倒な男は、フェリシアは嫌うだろうに。

 彼女は、夢見がちな愛らしい少女だったのだから。


「――――母上と父上は、俺よりもフェリシアに帰ってきて欲しいと思うだろうからな」


 俺は、ぽつりと呟いた。

 誰もから期待された王子様。でも、王子様は妹以外の人間から愛されなかった。

 愛らしい妹は、誰からも愛されていた。


 フェリクスは両親に愛されていなかったが、フェリシアは両親に愛されていた。俺の可愛い、俺の妹。


「だから、俺が死ぬことにしただけだ」

 妹の愛した絵本を、胸に抱きしめる。お前はもう、どこにもいないのに。






「フェリシアは、どうしてこの塔に囚われることになったか、知ってるか?」


 沈黙していた騎士にそう問いかければ、彼は暫しの間の後に頷く。


「言ってみろ」


 ベルンハルトは目を伏せた。彼のラピスラズリの瞳が見えなくなる。机を見つめる彼が、俺に従って口を開く。


「壊れたフェリシア姫に、安らかな時間を過ごしてもらうためです」


 命令に従った騎士は、また俺を見上げた。

 口を閉ざした彼の代わりに俺が言葉を引き継ぐ。


「そうだ。目の前で兄を殺されて壊れたフェリシアに、この狂った世界から隔離された塔で穏やかで優しい時間を過ごさせるためだ」

「何故、貴方は壊れることにしたのですか?」


 ベルンハルトの問いに、俺はまた素直に答えた。唇は、笑みの形に歪んだまま。


「母上と父上に、無邪気で愛らしい娘を返すためだ」


 フェリシアと入れ替わった俺は、かつての妹のような演技をすることにしたのだ。つまり――――にこにこいつも無邪気に笑っていて、大好きな絵本を毎日飽きずに読んでいるフェリシアの演技を。

 毎日を暗い顔で過ごしていた彼女はもういない。フェリシアは、フェリクスが死んだことで狂ったのだ。狂った世界で、狂った彼女は毎日を笑顔で過ごす。


 それがおかしいことでも、それでも俺達の両親は、フェリシアに笑って過ごしてもらうことを望んでいただろうから。俺と同じように。

 ――――心の、底から。


「世界が狂ったことを忘れて。兄が死んだことを忘れて――――兄がいたことすら忘れて。毎日、楽しそうに笑顔を振りまく、愛らしいフェリシアとして、俺は生きることにした。でも、城にいれば嫌でも狂ったこの国を見る羽目になる……だから、母上と父上は、俺を、愛しいフェリシアをここに閉じ込めた。この塔へと、閉じ込めた」


 彼女がいつだって読んでいた、大好きな絵本と共に。


 俺は、何度も開きすぎたせいでぼろぼろになった絵本を再び机の上に置く。この塔には、俺と、数人の優しいメイド達、そしてこの絵本しかなかった。

 そんな塔に、薔薇の花束を持ってプロポーズしに来た騎士がいる。

 俺の、目の前に。


 甘い、甘い香りがする。


 ――――俺は、躊躇することなく男が握り締め続けている薔薇の花束を取り上げて床に叩きつけた。


「――――――――っ!」


 唐突な俺の行動に、ベルンハルトは勢いよく立ち上がった。椅子はひっくり返り、男は目を見開いている。


「なに、を!」

「ベルンハルト」


 真っ赤な薔薇の花弁が舞い上がる。気障ったらしいその光景に、反吐が出る。甘い香りが、優しい塔の一室に満ちてゆく。

 部屋中に花弁がひらひらと舞い上がる中、俺は美しい騎士を見上げた。彼は酷く狼狽している。


「これは、母上と父上の指示かな?」


 俺は床に転がった小さな包みを軽く蹴飛ばした。薔薇の花束に隠されていたそれは、酷く甘やかな香りを不愉快な程発している。

 俺が蹴ったことで包みが剥がれて、中から小さな薬が飛び出てきた。それは、その効能の強さに比例するように、甘く凶悪な香りを発するのだと俺は知っている。


「囚われの姫を助ける騎士なんて、下心しかない」


 真っ赤な薔薇の花束まで用意して、まるで絵本の騎士様のように満月を背負って舞い降りたベルンハルト。

 ――――そう、妹が好んで読んでいた、絵本の騎士のように。


 馬鹿にしたように、俺は騎士を小突いた。俺よりもずっと大柄な彼は、俺が軽く胸を突いただけでよろめいて尻をつく。俺はさらに彼を押し倒して、至近距離で彼の瞳を覗き込んだ。

 噎せ返るような甘い香りが満ちた中、俺の銀の瞳と、彼の青の瞳が交差する。俺は彼に、囁きかけた。


「お前の下心は、なんだ?」



 ――――その薬は、幸せな夢を見せたまま穏やかに人を死に誘う毒薬だ。

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