第3話「紅葉」
あれからしばらく横になったまま色々思考を巡らせていた。何か思い出せることはないかと試してみるが、何度やっても結果は変わらない。頭の中にかかった霞は一向に晴れないままだ。今の時点で記憶を戻そうとするのはもう諦めて状況を整理した方がいいかもしれない。
少し時間を置いたおかげで頭は大分覚めてきた。今なら冷静にものを考えられそうだ。ぼくは今記憶を失くし知らない場所にいる。ここまでで大きな疑問が二つ発生している。一つはどの記憶が失くなってどの記憶は失くなってないのか。
もう一度身体を起こして部屋を見渡すと、ふと本棚が目に入った。何となくその中の一冊を手に取った。
どうやら詩集のようだ。冬川のものだろうか。そのまま本を開いてページを繰ってみる。
『深山空谷』
ひっそりとした谷には人の姿はない
耳を澄ましても人の声は聞こえてこない
雨が軽い土ぼこりをしっとりと濡らし
雨に洗われた木々が青々として鮮やかである
夕日が森の奥深くまで差し込み
そして青い苔の上を照らしている
(文字は、読めるな……)
そしてその本をそのまま元の場所に戻した。
察するに、ぼくが失くした記憶はぼくに関することのようだ。だから名前や居た場所がわからなくても文字の読み方までは忘れていない。
だが、それもまだ仮定にすぎない。例えば冬川が言っていた北雲山というこの場所の名前は全く聞き覚えがない。場所に関する記憶も失ったのか、それともここが知らない世界なのか、今はまだそれを確かめる術がない。これについては今はこれ以上あれこれ考えても全くの無意味だろう。
そして少し考えているうちに思い出した二つ目の疑問、ここで目が覚める前にいたあの暗闇だ。あれはいったい何だったのだろうか。気がついたらあそこにいて、そこで誰かの声を聞いたんだ。結局、あれが誰の声だったのかはわからない。そしてそのあとまた意識を失い、目が覚めたらもうこの部屋だった。冬川から聞いた森で倒れていたということをぼくは覚えていない。ということはぼくはあの空間で気を失ったあと、何かによってあの外に放り出され、ここに行き着いたということなのだろうか。
あの謎の空間が何なのか、それがわかれば少しはぼくの記憶にも繋がるかもしれない。気がついたらあそこにいたんだ、その前後が失った記憶と関係ある可能性は高い。
あとはこれからやるべきことを考えないと。まずは情報が要る。最終的に記憶を取り戻すにしても今は現状の把握が最優先だ。ここがどこなのか、何かぼくの記憶に残っているものはあるか、知りたいことは山ほどある。冬川と後でもう少し話してみよう。
良い感じに頭の中が整理できてきた気がする。
「ただいま戻りましたよー」
丁度誰かが帰ってきたような声が下の方から聞こえてきた。
「あ、おかえりなさーい」
帰ってきた誰かの声の後、部屋の外から冬川の声も聞こえてきた。どうやらこの家には冬川の他にも住人がいるらしい。
やがてこっちに近づいてくる足音が部屋の外から聞こえ、襖が開けられると、冬川と一緒に彼女とは対照的な黒い長髪を携えた少女が入ってきた。
「目が覚めたようですね、良かったです。どこか痛むところはありますか?」
気遣うように聞いてくる黒い正直。どこかおっとりとした彼女の雰囲気に心なしか緊張も薄れてきた。
「あぁ、うん平気だよ。もしかして君にも助けてもらったのかな?」
「いえいえ、お気になさらず」
黒い髪の少女は柔らかい笑みを浮かべながらそう返した。
「私、〈
「ぼくは、えっと、その……」
彼女の名乗りを受けてこちらも返そうと思うが、すぐに自分の名前がわからないことを思い出した。
「それなんですけど実は彼、どうやら記憶を失っているようで、自分の名前もわからないみたいなんです」
ぼくの代わりに冬川が説明してくれた。
「そうなのですか? それは大変ですね、やはりあの森に行き着く前に何かあったのでしょうか」
そう言って少しの間思案する月守だったが、今の段階では判断材料が少ないこともあり彼女も答えを持ち合わせていないようだった。
「それでは美夜も帰ってきたことですし、もう少しここについて説明しましょうか」
たしかに、ここが北雲山と呼ばれる場所ということは先ほど聞いたが、それ以外の情報はまだ得ていなかった。記憶がない今は彼女たちを頼るしかない。
「では私から説明させていただきます。ここは私たちが住む北雲山といいまして、近くには夕ノ宮という大きな都もあります」
また知らない単語が出てきたが、聞くのは一旦後回しにして今はそのまま月守の話を聞くことにした。
「そこではたくさんの人や物が行き交っています。あなたの状態について何か知っている人もいるかもしれません」
「夕ノ宮か…その場所も聞き覚えは、ないな……」
忘れているのか、それとも最初から知らないのか。
「そういえば、見たことない服装ですよね、それ」
悩んで呻き声をあげるぼくの様子を見て今度は冬川が口を開いた。
「確かに、私も初めて見ますね」
そう言われて慌てて自分が今着ているものを見る。ワイシャツにスラックス、つまりは洋服。それに対して冬川や月守が身につけているのは、着物に袴と如何にも和服だ。今まで気にもしていなかったが、一度気がついたら明らかにぼくの格好は風変わりなものだった。
「もしかして、別の世界から来たのかもしれませんね」
冬川がそんなことを言った。確かにその可能性はぼくも考えていた。
「別の世界から人が来るって、良くあることなのか?」
「聞いたことはないですけど、ここでは何があっても可笑しくないですからあり得るとは思います」
ぼくの質問に月守がそう答えた。それを聞いてまた新たな疑問が浮かぶ。
「何があっても可笑しくないって、ということは別世界から人が来るとまではいかなくても、不思議な現象はあるってこと?」
「そうですね、この世界では強い願いには精霊が宿ります。それによって様々なことが起こることがあります」
「なるほど……」
ここまでの話をまとめるとぼくは別世界からここに来たかもしれない、そしてこの世界では不思議な力があってそれが関係している可能性があるということになる。なら次はこれからのことを考えなければ。
「その…記憶や元の世界のことを探りたくても、今はこの通り頼れる人がいないんだ。雑用でもなんでもするから、しばらくここに置いてくれないかな……」
少し間をおいて、二人に頭を下げて懇願する。やはり誰かもわからないようなやつにいきなりこんなことを言われても困るか、と思いながら恐る恐る彼女たちの反応を待つ。
「もちろん良いですよ。この家はわたしと美夜の二人だけですので、気を遣う必要もないです」
「私も良いですよ。記憶を失くして色々と大変でしょうからゆっくりしていってください」
駄目かと思ったが、返ってきた反応は予想とはまるで逆だった。どうやら受け入れてもらえたようでひとまずは安心する。
「そうなると、呼び方を決めた方がいいかもですね」
冬川の一言でそういえばと名前がわからないことを思い出した。
「確かに、何かあった方がいいか……」
適当に何か仮名でも、と何か名乗ろうと考えてみるも、しっくりくるものが案外思いつかない。
「では、〈
しばらく悩んでいると、窓の外を見ていた月守が不意に口を開いた。
「丁度今は紅葉の見頃ですし、それに知ってますか? 紅葉の花言葉は『大切な思い出』これから記憶を取り戻していく彼にぴったりだと思いまして」
「良いねそれ! わたしも賛成!」
同調するように冬川が続いた。ぼくは月守が考えてくれたその名前を心の中で繰り返してみる。思いの外その響きはしっくりときた。
「ありがとう、気に入ったよ。うん、ぼくは〈紅葉〉」
「良かったです。それでは改めてよろしくお願いします、紅葉さん」
「わたしも、よろしくお願いします、紅葉君」
「うん、これからよろしく、冬川さんに月守さん」
ぼくの仮の名前も決まり、改めて二人と挨拶を交わした。
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