同じ香り

佐々井 サイジ

同じ香り

 朝の電車は、つり革を掴んだ状態でずっと拘束される。憧れていた電車通学での大学生活は、一週間も経たないうちに彩りを失った。自信のない化粧はいつも以上に出来が悪く、花粉症を言い訳にマスクをしている。車窓に映る葉桜は、私の気分を上げる材料にはならない。電車がブレーキを踏むと、進行方向に重力が持っていかれ、隣に立つ若そうな男の人と体が接触した。「すみません」と彼が謝ってきた。男の人と一瞬でも接触したせいで鼓動が激しい。


 乱れた鼓動を整えるために深く息を吸うと、嗅いだことのあるような香りが記憶をくすぐった。主張が強すぎないけどさっぱりした柑橘系の香り。思い出した。部屋で使っているディヒューザーのシチリアレモンだった。大学の入学祝として自分で買ったんだ。四千円と私的に高額な代物で、趣味のコンビニスイーツをしばらく我慢した。服についているのかと思って鼻を肩に近づけたけど違うみたいだった。


 再度車内が揺れ、彼がまた傾いてきたときにレモンの香りがまたふんわりと鼻に入ってきた。この人もひょっとして同じの使ってるのかな。揺れるたびに香りが漂う。駅に到着して人波に飲まれながら電車から降りた。さっきの彼の姿を探したけど、どこにも見当たらなかった。


 翌日も電車で彼を探した。その次の日も。それでも見つからない。毎日同じ時間に同じ車両に乗れば、すし詰め状態と言えど乗客の顔は固定化されてくる。でも彼の顔だけは見当たらない。私服だから大学生だとは思うんだけど。


 大学によって時間割が違うから、毎日一緒の時間に乗り合わせる方が珍しいかもしれない。状況としては納得できるけど、何だか友達と別れた直後のような寂しさがある。でも期待するほど会えなかったときの悲しさが大きくなるから、「会えなくて当然」と言い聞かせて同じ車両に乗っていた。


 でもちょうど一週間後の朝の電車、乗客の頭と頭の間の奥に彼の顔を見つけた。とはいえ何も起こらず、というか起こす勇気が微塵も湧かず、一週間前と同じように電車を降りる頃には彼の姿を見失っていた。


 昼時の電車内は人がまばら。ただ、ボックス席の端に人が座っていて、隣に座るのはちょっと勇気がいる。ドア近くの壁にもたれて立つことにした。スマホを触っていると、レモンの香りが漂ってきた。顔を上げ、視線を限界まで左に寄せると彼が隣に立っていた。もちろん話しかける度胸は微塵もない。


“Excuse me?”

 荷物置きの位置と同じくらいの身長で目の青い外国人が私と彼を交互に見ていた。もしかしてカップルと思われている?


 "Can I transfer to a train bound for Kyoto at Kusatsu Station?"


「え、あ……」


 英語は散々勉強してきたが、こうも出てこないとは。鼓動が大きくなり、思わずレモンの彼を見ると目が合ってしまった。今度は鼓動が速くなった気がした。


 "Yes, you can. After getting off the train, please go to platform 3."と彼は言った。


 外国人は笑顔で礼を言った。


「すぐ答えられてすごいですね」彼に感謝した。

「いや、めっちゃスマホで調べました」彼は言った。「でも喋るのめっちゃ勇気いりますよね」


 目じりを細める顔に見惚れる。でも駅に着くとじゃあと言って別れた。

 彼と会えば軽く会釈するようになったけど、会話をするところまでにはいかなかった。そのうちテスト期間に入り、見かけることはなくなってしまった。


 夏休みに入り、大学に行くことも無くなって彼と会う機会すら作れなくなってしまった。電車に乗るために友達と遊ぶ予定を作った。車内を見渡すけど彼の姿は当然、見当たらない。部屋を満たしていたシチリアレモンのオイルがなくなってきたので、追加でまったく同じものを買った。


 でも後期に入っても彼の姿を見かけることはなかった。時間割が変わって私と被る時間帯が無くなってしまったのかもしれない。諦めた方が良いと言い聞かせた。

 

「ただいま列車、具合の悪いお客様への対応による影響で運転見合わせとなっております」


 昼時なのに運転見合わせのせいでホームがごった返している。少しでも人の少ないところに行こうとして先頭車両の方に向けて歩いた。並ぶ列の真ん中に彼がいた。


 見つけた瞬間、私の脚は硬直していた。でも外国人に質問されたとき、彼は勇気を出していた。私も出してみたい。レモンの香りが漂ってくる気がした。このチャンスを逃したらもう二度と会えないかもしれない。向こうに彼女がいるかも? そんなの後から悔めばいい。ぎしぎしと音が立つようだったけど膝を曲げて脚の筋肉をほぐした。彼の後ろ姿がゆっくり大きくなっていく。


「お久しぶりです」


 彼に声をかけると目じりを細まった。


「もう会えないかもって思ってました」

「気持ち悪いかもしれないですけど、一つ聞いてもいいですか?」

「何ですか?」

「シチリアレモンの香りのディヒューザーを使ってますか?」


 彼は大きく肯いた。

「俺もずっと聞きたかったんです。でもいきなり訊かれても怖いかなって思って聞けないうちに会えなくなっちゃって……。ただ近くにいたら気づいてもらえるように、ずっと使い続けてきました」


3回目の結婚記念日、翔太といつもよりちょっとだけ贅沢な夕食をつくって食べた。穂香はぐっすり寝てくれている。最近は夜も元気で全然寝ないのに。今日は夕方にいっぱい暴れさせたかいがあった。おかげで久しぶりに翔太を独り占めできる。口の端が上がると「どしたの?」と言われた。


 シチリアレモンの香りが部屋に漂う。最近は子育てに追われていて香りを楽しめないけど、結婚記念日には必ずつけるようにしている。草津線で私たちを結び付けてくれたレモンの香りには感謝でいっぱい。あの頃の話をするたびに翔太は、私がロングスカートをたくり上げて走ってきたと笑う。顔が熱くなる。


 翔太から小さな箱を渡された。


「優香、いつもありがとう。これも気に入ってくれたら良いんだけど」


 箱を開けると、サボン系のアロマオイルだった。私も翔太に箱を渡す。私は今回、柑橘系のオイルを選んだ。私と翔太の香りの好みはほとんど一緒なので、毎年の結婚記念日はオイルを送り合っている。


 最近、穂香も香りに興味を持つようになった。


「いいにおい、なにこれ」

「レモンだよ」

「レモン? いいにおいだね」


 皆の服にそのときにつけているアロマオイルの香りが付着している。穂香がもっと大きくなったら3人でアロマオイルのプレゼント交換ができる。楽しみだね。


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