泡沫の世界

深茜 了

「こっち側が本当の世界だったなら」

「右腕をもう少し伸ばして、指先は丸めるといい。視線は斜め下だ。膝を軽く曲げて・・・、そう、そのままだ」


パシャッ。


カメラのシャッターを切る音が部屋に響き、フラッシュが、明るいとは言えない室内を一瞬照らした。

僕が持っているのは黒くてごつい一眼レフカメラで、その丸くて大きなレンズは床に横たわった一人の女性に向けられていた。

茶色の板張りの床の上で、濃紺のノースリーブのワンピースを着た彼女は横向きに寝そべり、右腕を伸ばして自分の頭上に投げ出している。彼女の白い左肩に長く黒い髪がかかり、その先の左手は床に添えられていた。視線はどこか物憂げで、何も無い空間に漂うように向けられている。


僕はプロのカメラマンではなかったし、彼女も別段雑誌に出ているようなモデルではなかった。お互いに普段は一般人として生きていたが、こういった二人だけの撮影会はたびたび行われた。—それは彼女が、現実を離れて作品の中の人間になるためだった。


僕と彼女—水崎凛は、大学の同期生で同じサークルに所属していた。演劇のサークルで、彼女は実際に劇の役柄を演じたりしていたけれど、僕は友人に強引に入部を勧められ、照明や音響等の裏方に徹することを条件に入った為、彼女のように舞台に立つことは無かった。大学卒業後、演劇とは全く関係のない仕事に就いた彼女だったが、サークルでの経験は僕らの行う写真撮影によく滲み出ていた。


サークル時代、僕達はとりたてて仲が良いわけではなかった。ただのサークル仲間だった。しかし大学を卒業し、仕事に就いて二年経ったある日、彼女から突然連絡が来た。「川谷君って、カメラ持ってたよね?」「撮影をお願いしいたいの」

バイトを頑張って手に入れた一眼レフカメラだった為、買った時にサークルの飲み会で少し自慢げに披露した覚えがある。彼女はそれを覚えていたのだろう。

それまで僕が撮っていたのは自然や町並だったが、彼女からの頼みを機に僕のカメラの中身に水崎凛が加わることとなった。


彼女の希望で、撮影場所は僕の自宅の居間となった。あまり物が置いてない一角があり、シンプルな見た目のその場所を彼女が気に入った。よって撮影は毎回その場所でおこなうこととなった。


毎週日曜日、彼女は写真の被写体になりに来た。日曜日のこの時間に、彼女は現実世界の人間をやめて一つの作品になる。作品の数はもう既に、十を超えていた。


「うん、良いんじゃない」


先程撮影した写真を確認すると、水崎凛は目を細めて薄く微笑んだ。無事に合格が貰えたので、僕は画像データを凛の携帯に送った。撮った画像は自分の携帯に送って欲しいと彼女から言われていた。


『私ね、この世界の人間じゃなくて、作りものの存在になってしまいたいことがよくあるの』


僕に写真を撮らせる理由を初めて話した時、彼女はそう言った。その時彼女はカメラを両手で持ち、撮影した画像を確認していた。

その時点で僕は凛の言葉の意味をはっきりと理解していなかったので、曖昧な返事をし、彼女もそれ以上は語ろうとしなかった。

けれど、今なら何となく分かる。聞いてみたことは無いが、きっと彼女は現実の世界に意義を見出せず、その世界がイコール自分となってしまうことに抵抗を感じているのではないか。現実世界が過酷である、あるいは現実世界に染まりきってしまうことそのものが受け入れ難く、芸術作品に陶酔する時間が必要だった。そして結果的に、自分がそちら側の存在になってしまうことにした。現実から離れて、芸術に潜り込む時間。携帯に画像を入れているのは、日曜以外にそうする必要ができた時の為だろう。


「じゃあ、今週もありがとうね」

自分の携帯に画像が送られてきたことを確認すると、水崎凛は笑って僕の部屋をあとにした。彼女はいつも撮影が終わると談笑するでもなく帰って行く。けれど僕も僕でそれが不満ではなかった。最初のうちは困惑していたものの、近頃ではどれだけ彼女を美しく、現実離れした存在に仕上げられるかにこだわることを楽しんでいた。カメラの腕の試しどころだったし、美しい彼女を芸術の中の存在に近づけることに熱中していた。


 次の日曜日も、凛は僕の部屋にやってきた。彼女を招き入れた僕はいつも通り彼女を撮影場所—リビングの一角に通した。

「今日は・・・、そうだな・・・、あ、あの椅子を貸してくれない?」

僕の家の中をぐるっと見回した彼女は、ダイニングに置いてあった椅子を指し示した。僕が頷くのを見ると、彼女はその椅子を窓の前まで運んできた。そして静かに椅子に座ると、やや脱力したように右側に首を傾げ、左手を右腕に添えた。目の表情いろは虚ろだ。彼女は被写体になる時、大抵虚ろな気配を漂わせた。

「じゃあ、お願い」

いつもは彼女がそう言うと僕はすぐにカメラを構えたが、その日僕はちょっと待って、と言い棚の上に置いてあったものを手に取った。


それは一輪の、薄桃色の大きな花だった。彼女の写真に花を添えてみたいと思い、探して購入したガーベラだった。

一般的なガーベラの花は大ぶりではないが、それは大きな花を咲かせる品種で、一輪だけでも十分な存在感があった。

茎を切って花だけの状態にしてあったそれを片手に持ち、彼女に近付いた。彼女は観察するように僕の様子を見ていた。

「いつも床と窓だけの背景だと変わり映えしないと思って、用意してみた。良かったら使ってみてくれないか」

僕がその花を椅子の傍らに置くと、凛はくすっと微笑んだ。

「いいんじゃない?すごく綺麗だし、より“作りもの”感がある写真になりそうね」

そして笑うのをやめると、彼女は再び先ほどと同じポーズと表情になった。僕はカメラを構えて、シャッターを切った。

撮れた画像を見てみると、ガーベラの色と存在が、普段とは違う芸術味を写真に与えていた。カメラを覗き込んだ彼女も満足してくれた。僕はより「作品」感のある一枚が撮れたことに、少し気分を高揚させていた。もっと色々な写真を撮ってみたいと思った。彼女の望む、なるべく現実から離れた一枚の映像を。


それからは、技巧を凝らした写真を撮影する日々だった。椅子に座った彼女に本を持たせてみたり、姿見を用意して彼女と鏡に映った彼女を撮影してみたり、モノクロの写真を撮ってみたりなど。

いつの間にか僕は、どうしたら現実味をより排した一枚を撮影できるかということばかり考えるようになっていた。仕事をしている時も、家でくつろいでいる時も、常に頭はそのことに支配されていた。

そして半ば熱に浮かされた―もっと言うならば正気を失った僕は、一つの案に辿り着いた。究極的に現実から離れた一枚を撮る方法があった。尋常じゃないやり方だったけれど、時間が経てば経つほど僕はその考えに支配されるようになった。そして決意を固めた僕は、次の日曜日を迎えることとなった。



「最近肌寒くなってきたね」

いつも通り部屋に入って来た水崎凛は腕をさすりながら言った。夏が終わり、写真の中の彼女は長袖を着るようになっていた。

「10月も半ばになれば、冷えてくるだろう」

僕はそう返事をし、カメラをいじりながら準備を始めた。

「今日はどういう風に撮るの?」

彼女が訊いてきたので、僕は以前撮影に使ったダイニングの椅子を窓辺に持ってきた。

「その椅子に座るの?そういう写真って前撮らなかったっけ?」

不思議そうな顔をする彼女に、僕は頷いた。

「ああ、だけど今回は前回とは違う写真にしようと思う」

座って、と彼女を促し、彼女は納得していないながらも僕に言われたまま椅子に腰掛けた。

「君は、この世界の人間じゃなくて、作品の中の存在になってしまいたいと言っていたことがあるね」

そうね、と彼女が相槌を打った。僕はそのまま続ける。

「一つだけ、君の望む芸術作品そのものになれる方法があるんだよ」

やや熱に浮かされながら、僕は水崎凛に近付いた。彼女は観察するように僕を見上げている。

そして凛の目の前に立った僕は、素早く両手を伸ばし、彼女の首を絞め付けた。柔らかな首の皮膚と喉の存在を感じながら、容赦することなくどんどん力を加えてゆく。

凛は僕の凶行に驚いた顔をしたものの、抵抗する様子は見せなかった。苦しそうな表情をしながらも、両手は膝の上でスカートを握ったままだ。

僕は両手に更に力を加える。もう少しで、彼女は現実の存在ではなくなってしまうだろう。完全な、芸術の中の存在に——。


けれど、


「げほっ、げほっ」


気がつけば目の前には僕から解放されて咳き込む凛がいた。僕はその様子を茫然と眺める。あと少しのところで、僕は手を離してしまっていた。

凛の首を絞め続ける僕の脳裡に、「殺人」「逮捕」といった言葉が手を離す直前に浮かんできた。僕の中で芸術への熱を上回ったそれらの言葉が、僕を現実世界へと引き戻すこととなった。


結局僕は死を受け入れた凛と違って、現実を離れられない人間だった。芸術への熱に浮かされたって、何もかも捨ててそれに傾倒することは出来なかった。そんな自分に何だか矮小さを感じ、とても虚ろな気持ちになった。


「あとちょっとだったね」


落ち着きを取り戻した凛は微笑して僕に言った。その目は撮影の時のように虚ろだった。僕は何を言うのが正解なのかわからず、視線を彷徨わせた。

そんな僕を見て彼女は椅子から立ち上がり、ゆっくりと近付いてきた。そして僕の脇まで歩み寄ると、耳元でこう囁いた。


「殺す勇気ができたら、また写真撮ってね」


それはきっと彼女なりの別れの言葉だった。そのまま流れるようにして彼女は部屋を後にする。靴を履く音と玄関のドアが閉まる音を聞きながら、残された僕は膝を付き、拳で一度床を打った。カメラに残された彼女の写真を見ることはもう無いかもしれないと思った。


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泡沫の世界 深茜 了 @ryo_naoi

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