華斬轢/穢れたカトラリー
「そうか、なっちまったか…」
簡単には治せない病気にかかった。私は、彼の顔をただなんの感情もなくみつめた。彼は一瞬不安そうな表情を見せ、静かにうなずく。
「もしもの時は笑えよ?」
温かい指先が私の指を絡めとり、優しくも、鋭い瞳が私をとらえた。彼の目に映る醜い姿を見て見ぬふりして、力に抗うこともなく二人の甘い夢に倒れこんだ。
雀の声が聞こえた。体を重ねるのはこれで何度目だろうか。今日もいつも通りの良くも悪くもない目覚めであった。痛む頭を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こす。隣を見ると彼の姿はなく、あるのは一人分の熱をもつ布団だけだった。仕事に行ったのか、クローゼットに入っているはずのスーツが一着なくなっていた。ベッドルームを離れ、キッチンへ向かい、水滴のついた彼のマグカップをなでる。そして、さっきまで彼が過ごしていたリビングを見回すと、ダイニングテーブルの上に紙が置いてあった。それは私の病気の診断結果であった。きっと中身を読んだのだろう。そして同時に彼は知ってしまったのだ。私の秘密を。
この世界には、『ケーキ』『フォーク』と呼ばれる人たちがいる。『ケーキ』は生まれつき、血液や筋肉、体液、脂肪など体全体がチョコレートやイチゴのように甘美な味わいの人を指し示す。『フォーク』は『ケーキ』を捕食してしまう立場にあり、抗うことのできない本能的な食欲を有している。だがこの2つの属性には、大きな欠点がある。それは、『ケーキ』自身やその他普通の人間には、『ケーキ』の味などわからず、『フォーク』のみ感じ取ることが可能なため、捕食を防止する手立てがないこと。そして『フォーク』には、味覚というものがなく、『ケーキ』のみ味や匂いを感じることができることだ。この欠点のおかげで、『フォーク』という存在は犯罪者予備軍と揶揄され、差別の対象となっていった。ちなみに私はこの2つの属性の後者に位置している。『フォーク』は後天性でなることが多く、私もその内の一人となってしまった。だが私は、『ケーキ』という属性を持つ人に未だ出会っておらず、本当に『フォーク』なのか?と自問自答する始末なのである。
「あー、朝ごはん食べなきゃな…」
私はもともと、食べることが好きだった。昔は友達とカフェ巡りをして青春を謳歌したものだ。だが味覚障害を患ってから、食事の時間が苦痛になった。何を食べても、食べ物と認識できず戻してしまうのが常であった。そして1年ほど前、栄養失調で倒れ、数ヶ月の点滴生活を送り、今は友人にオススメされたサプリメントで1日の食事を終わらせる生活をしている。だが、そこそこ平和になった矢先に、病院に呼び出され、怪しい検査をさせられたかと思えば、診断結果が『フォーク』だったのだ。ただ私は、例外のようなフォークらしく、日々のストレスや不健康な生活が原因でケーキを捕食したいという狩猟本能には駆られない珍しいフォークであった。
「ただの何も食べれない人間じゃんね」
いつものことながら皮肉のような独り言で己を貶していく。味覚障害とフォークを患ってから、私の人生は一変した。あんなに美味しかった料理が、泥のような触感になり柔らかくジャリジャリとしたものが口の中で踊るだけ。周りにはフォークであることがバレないように細心の注意を払う生活。そんな環境では、まともな心持ちでいることが難しいのだ。そんな中、フォークになる前からお付き合いをしている彼は嫌な顔をすることなく私に気を遣ってくれる。全てを話しても、怖がるような素振りは一切なく、一緒に頑張ろうと言ってくれた。なのにダメな私は、彼に甘えて堕落した生活をしている。縋りたいほど限界なのに、嫌われたらいやだと脳が急ブレーキをかける。深く考えようとしたら、いきなり目から涙がこぼれた。自分でも驚くほどに無意識な涙であった。泣いて現実から逃げようとする自分の浅はかさに吐き気がした。
「いきたくない」
静かだったはずなのに、その声は木霊せずに途切れていった。
私は孤独だ。
今日も変わらずサプリメントを飲み込む。鉄分を含むものは嫌いだ。ザラザラした感触で、きっと味も不味いんだろう。鉄分なんて血液からの摂取でもいいのではと思うけれど、少しばかり本能が拒否しているのを感じる。
「人って美味しいのかな…」
不意にでた言葉に恐怖を覚えた。私は人間ではなくなってきてるのだろうか…。いや、もう普通の人間ではない。『フォーク』である以前に、精神的な病気で仕事も家事もできなくなっていた。もう死にたいと口にしたときは彼に怒られてしまったな。
「そんなこと言わないで、絶対生きて。きっと大丈夫。俺がいるから」
その励ましにどれだけ救われたことか。それでも嫌気がさして、腕や喉を切り始めても彼は私を見捨てなかった。それで苦しさが紛れるならと、傷口を優しくさすって頭を撫でてくれた。住むところも、着る服も、家事も全部やってくれた。私は彼が怖い。なんでこんな自分に、ここまで良くしてくれるのかわからない。好きという理由だけでこんなにも人は動くのだろうか。何もできない愚かで醜い私を彼はどう思っているのだろう。怖い。優しい彼を信じられない私が嫌いだ。何もかも全てが嫌いだ…。
「っ…!?」
いきなり電話が鳴った。私にかけてくる人は彼しかいない。
「はい。どうしたの?」
電話の向こうで車が通る音が聞こえた。遠くには広告の大きなパネルの音も。きっと通勤の際に通るいつもの交差点だろう。
「いきなりごめんね...!お弁当忘れちゃって…」
疲れているのだろうか、彼がお弁当を忘れるなんて今までに無いことであった。
「それでね、会社まで持ってきてくれないかなって…」
あぁ、外に出ろってことか…。手が震え始めた。視界も揺れる。でも…。
「……よ…」
「え?」
最悪だ、声がかすれた。死にたい。
「い、い…いよ…」
返事がなかった。画面の向こう側でおじさんの怒鳴る声がする。また何かやらかしてしまったのか。不安が私を包み込む。心臓が長い長い一秒を刻んでいく。
「……っ」
かすかに彼の声が聞こえた。少し上擦ったような声が耳に流れてくる。
「泣いてる…?」
予想外の展開に、私は一瞬固まってしまった。
「…な、なんで泣いてるの??」
訳が分からない。前の会話を思い返しても、泣かせるような内容ではなかったのに。
「ごっごめん…。つい嬉しくて…」
画面の向こうには、涙止まらん…!と笑って鼻をすする彼の姿がある。
「…なにが、嬉しかったの…?」
自然と私の口角も上がってしまっている。きっと彼につられてしまったのだろう。
「君が…!外に出てもいいって言ったから…」
子供のような純粋無垢な喜びに私は胸が痛くなった。愚かな自分に涙した。彼の優しさが嬉しかった。
「そんなことで、泣かないでよ……」
今の私なら、普通の人間に戻れるような気がした。外に出たり、家事をしたり。きっとなんでもできる。…彼にこれ以上心配をかけたくなかった。
「泣いてないで早く会社いきなさいよ。あとで届けるから…」
外には出たくない。きっと訝しげな目で見られる。気持ち悪いと思われるかもしれない。でも、もう彼には迷惑かけたくない。別れの言葉を短く済ませ、震える手をクローゼットへのばす。白いブラウスに、ウエストに余裕のある紺色のストレートパンツ、黒色のヒールのついたサンダル。しばらく切っていない髪を丁寧に手ですき、ゆるく1つに結ぶ。玄関先の鏡で何回も手直しし、お弁当の入ったカバンを強く握りしめ、外の世界へと足を踏み出した。
彼が勤める会社は、海外にも進出しているほどの一流企業らしい。彼は仕事の話をあまりしない人だから、簡単なことしかわからない。だから私は、今日初めて彼の会社に行く。もうすぐお昼だからか、外には人が多くいた。見られているかもと思うと、自分がちゃんと歩けているのかもわからなくなる。変な歩き方になってないだろうか…。自意識過剰な自分を殴りたいが、お弁当を届けるという大事な使命がある。急がねば。
「もうすぐ12時…。早くしなきゃ」
照りつく太陽を睨みつけ、小走りで会社へと向かう。貧血気味の体を酷使したせいか、頭痛と眩暈に襲われたが、無事会社につくことができた。
「ご用件はなんでしょう?…て、大丈夫ですか?」
会社のロビーは広く、冷房がきいた空間だった。
「ひゅ…っ、はぁ…はぁ…」
上手く酸素が吸えず、半ば過呼吸のようになってしまった。受付の女性の目に不安が灯る。
「だ、だい、じょうぶです…。はぁ、あの。えっと…」
恥ずかしさと気持ち悪さで、脳が軽くパニックを起こす。
「お、お弁当…。お弁当を渡しに、来ました…!」
口が勝手に声を出す。受付の女性は、少し考え込むと何かを思い出したようで、カウンターに置いてある固定電話を手に取った。もう一声かけようとした矢先、ぐらりと視界が歪む。私は肩で息をしながらカウンターにもたれかかり、我慢できず座り込んでしまった。
「なにあの人。大丈夫なの?」
「具合でも悪いのかな」
「こわぁ…。近づかないでおこ…」
ロビーにいる人たちの声が聞こえる。誰も助けてはくれない。ひそひそと嫌なことを言い合い、ちらちらと見ているだけ。帰りたくても体が動かなかった。羞恥心と焦燥感に駆られ、脳は焼けるような痛みを発する。痛みが支配するこの意識を、私は堪らず手放した。しばらくして、ふわりと香る彼の服の芳香剤の匂いや聞き覚えのある優しい声が私を包み込んだ。これは夢なのだろうか…。
「……っ!?」
気づけば私は、上半身を起こしていた。飛び起きたのだろう。見覚えのない部屋の大きな窓からは、ビル群の中に落ちていくオレンジ色の太陽が見えた。
「ぁ、わ…たし。あの後寝ちゃって…」
頭から血が引いていくのを感じた。やらかした。迷惑をかけてしまった。よりにもよって彼の会社で。
「あ、ああ…」
みぞおち付近がキリキリと痛み始めた。手や唇が震えている。どうしよう。どうしよう。やってしまった。死んでも償いきれない。誰にも会わずに帰れるだろうか。彼にも会わずに死にに行こうか。考えても考えても死ぬことしか考えられなかった。でも死ぬのは怖くて。何もできない自分が憎かった。いつの間にか流れてきていた涙をぬぐい、彼のスマホにメールを送る。
『ごめんなさい』
この一言が限界だった。お弁当を届けるなんて簡単なことができない自分の不甲斐なさに腹が立った。あの時、迷惑をかけないって誓ったくせに。どうしようもなく虚しくて、悲しくて。既読のつかないメール画面を閉じ、部屋を出ようとドアに向かった。
「ちょ、すみません!道あけてください!!」
ドアの外から、彼の声が聞こえた。せわしない足音も聞こえてくる。私は急いでドアから離れ、寝ていたソファに再び腰かけた。
「ごめん!遅くなった!!」
壊れてしまいそうなほどの大きな音とともにドアが開いた。そこには汗だくになった彼が立っていた。
「よ、よかった!目が覚めたんだな!!」
勢いよく抱きついてきた彼の手は少し震えていた。
「…ごめん。迷惑かけちゃった……」
彼は首を横に振ると、もう一度強く抱きしめた。
「君のせいじゃない。俺が無理言ったからだ…」
頬に軽く触れられる。まるで割れ物を扱うかのような優しい触れ方だった。
「お弁当持ってきてくれてありがとう!焦って食べたから、味はよくわからなかったけどお美味しかったぜ!」
へへへと笑う彼の笑顔は、私を落ち着かせてくれた。
「お取り込み中悪いんだが」
突然、入口付近から知らない男性の声がした。
「…すみません。何か御用でしょうか」
彼はスーツのシワを直し、男性と向き合った。少し横暴そうで、白髪交じりの髪をした男性だった。
「いや、少し噂を耳にしてね。なんでも君の彼女さんは栄養失調に精神的な病を患っているそうじゃないか。君にはお世話になっているし。あぁ、別に取って食おうとしているわけじゃない。なに、みんなで夕飯でもと思ってね」
男性は私を見るなり、目を細めた。馬鹿にするような、軽蔑を含んだ瞳であった。
「いえ、せっかくのお誘いではありますが、彼女が疲れていますので今日は早く上がらせていただきます」
彼の声は力強く、有無を言わせないほどの圧があった。
「なにを言っているんだ。疲れを癒すための食事会だろう?それに聞いたよ。
彼女さんは食べることが好きだとね。そうなんだろ?」
眼光が鋭くなった気がした。
(きっとこの人は私がフォークだってことも知ってる…)
直感でそう思った。なぜこの人は脅すようなことを言うのか。
「たしかに彼女は食べることが好きでした。でもそれは昔のことです」
彼が男性を睨みつける。
「そうだったのか。だが今でも食事をすることは可能だろ?だったらいいじゃないか。それともなにか、やましいことでもあるのかな」
彼が一瞬、私を見た。
「私は大丈夫だよ」
嘘をついた。私だって怖くて仕方がない。でも、きっと彼のほうが怖いと思うから。
「……わかりました。お誘いいただきありがとうございます」
軽くお辞儀をすると、男性は満足そうな笑みを浮かべた。私たちは案内されるがまま車に乗り込み、お高そうなレストランの個室に連れていかれた。人気のない路地裏にひっそりあるようなレストランであった。個室には既に社員が数人おり、その内2人は顔を赤くして隅で寝てしまっている。
「ぶちぉー!おそいですよぉぉ」
お猪口をグイっと傾けながら声を荒げる人が1人。部長というのは、一緒に来た男性のことだろう。
「いやぁ、説得するのに時間がかかってしまってね」
高らかに、そして下品に笑う男性たちに彼は顔をしかめた。部屋も、においだけで酔えそうなほどお酒の匂いが充満していた。私は思わず、彼のスーツの袖を掴む。それに気づいた彼が男性を睨みつけると、悪いねと軽く謝罪をして酔った社員を端にどかし、座るスペースを確保した。
「何が食べたい?なんでも好きなものをご馳走してあげよう」
メニュー表を渡されたが私はどれにも惹かれず、彼に手渡した。
「俺もいいや。食欲ない」
しかし彼はメニュー表に目も向けず、乱雑にメニュー表を男性へ返した。
「そうか…。いや残念だ。ここの料理はどれも天下一品なのに」
男性は店員を呼び、いくつかの料理を注文した。
「俺たちを呼んだのには何か訳があるんでしょう?」
店員が部屋を出てすぐ、彼は男性に質問をした。男性は彼を見てから、視線を私に移した。
「…君たちは、フォークという存在を知っているだろう?」
心臓が跳ねた。ただただ恐ろしかった。
「聞いたことはありますが、なぜですか?」
彼も動揺しているのだろう、私の手を握る彼の大きな手は震えていた。
「僕はね、君の彼女さんがフォークだということを知っているのだよ」
案の定だった。でもどうやって知ったのだろう。
「俺の彼女がフォークだとして、それがあなたにどのようなご関係があるのですか?」
「申し訳ないが、会社にかかわることでね。単刀直入に言おう、君たちには別れてもらいたい」
私は目の前が真っ暗になった。確かに、将来なにも役に立たないフォークの女より、有望な彼の安全を第一にということだろう。でもなぜ…?
「な、なぜ別れなければならないのです?私は確かにフォークですが、今までケーキを襲ったことはありませんし、ましてや普通の人を襲うなんてことはもっとやりません!」
久々に声を荒げてしまった。少し羞恥心を感じる。
「確かに君は少々珍しい個体ではあるが、問題はそこではないのだよ」
男性は彼を見た。つられて私も彼を見てしまった。
「…問題は俺ですね」
彼は肩をすくめる。
「……俺はケーキですから」
衝撃の告白に眼を見開いた。
「う、うそ…」
「嘘じゃないよ」
聞かなければよかったと後悔した。彼が将来有望なケーキであるならば、私は手を引くほかないだろう。フォークとしての味覚が戻る前に、別れなければならない。
「なんで、早くそれを言わなかったの…??」
早く別れなければ。危ない。彼が危ない。
「だって言ったら、別れるっていうだろ」
…あぁ、彼は私のことをこんなにも好いてくれて、なのに私は。
「部長。申し訳ありませんが、俺は彼女と別れる気はありませんので」
「いいのかな、その選択をするのなら君は今日から無職になってしまうが」
男性は残念そうな苦しそうな顔をしていた。
「構わないです。では失礼します」
軽く混乱する私の手を引っ張り、深々と頭を下げレストランを後にした。
私たちは山に来ていた。レンタカーを借りて、多分死に場所を探しに。
「ごめん、黙ってて」
隣の彼が言う。歪んだ私は、怒りよりも愛おしさが勝っていた。
「大丈夫だよ」
「怖くなかった?」
「あなたがいてくれたから大丈夫」
他愛のない短い会話を繰り返した。
「そろそろ頃合いだと思うんだ」
彼は車のスピードを落とした。
「こんな時にこんなところでだけど」
少し笑った横顔は、子供のころから変わらない。
「なに?」
彼は口角をあげて、いたずらっ子のような顔で私を見る。
「ずっと思ってたんだ。君がどんな人でも、君は君だって」
車が止まった。
「どんな姿になっても、俺は君を愛してる」
彼は私の左手を持ち上げ、薬指に銀色のリングをはめた。
「俺だけのフォークになってくれませんか」
彼は手の甲に口づけを落とす。心が満たされるのを感じた。とても幸せだと思った。
「こんな私でよければ」
好きという感情があふれだす。好き好き好き大好き。心臓が歓喜に震えている。頬が熱くなった。彼も興奮しているのか、体温が上がっていた。深く深く、一つになったと錯覚するほど深い口づけを交わす。
彼の唾液は、どんな甘味より甘かった。
ダメだと思うのに、抑えられない本能が騒ぎ出す。もっともっとと美味しいものを求めて。腹をすかせた怪獣が、食べてしまえと私をそそのかす。
「やっ、だめ。美味しい…。怖い…」
彼もきっと気が付いている。フォークとしての味覚が戻ってしまったことに。何年もろくな食事を取っていなかった私にとって、ケーキという存在は麻薬に等しかった。唾液だけじゃ足りない。もっと、もっと!やめて!!嫌!いやいや!!いやだ!頭がおかしくなりそうだった。なにもかも本能に委ねたくなるほどに。止めてほしかった。やめさせてほしかったのに、あなたって人は…。
「いいよ、全部食って。よく我慢できたね。偉いよ」
指輪のはまった左手で、優しく背中をさすってくれた。
「ごめん…ごめんなさい…」
自分の醜さと、彼の味に涙がこぼれる。呼吸も忘れて彼の肉を食べた。サーロインステーキのように柔らかくも、筋肉質で丁度いい歯ごたえであった。繊維の一つ一つが弾けるように切れていく。彼の血液は赤ワインのように豊潤で深みのある味わい。肉や脂肪にマッチしていて、胃もたれすることなく食べることができた。私の臓器1つ1つに命が吹き込まれる。彼の胸に手を当てると、必死に生きようともがく可愛らしい心臓の鼓動が感じられた。私の体は喜んでいた。なのにどうして、涙が止まらないの。嫌だと思う自分がいる。ねぇ、どうすればいいの?ねぇ…。
「っ…おい……」
苦しそうな声が私に降ってきた。背中をさすっていた彼の手が涙と血に汚れた頬を撫でる。
「…笑って。もっと、美味しそうに食べてくれよ…?」
きっと彼はわかっていたのだろう。それとも覚悟していたのだろうか。私は笑顔を返した。多分それは昔彼に向けてた笑顔だったと思う。気づけば彼は死んでいて、私の手には血だらけの彼の服だけが残っていた。
やってしまったことを悔やんでも、彼は帰ってこない。私はただ馬鹿みたいに泣いて、彼のいないこの世に絶望して、死に場所を求めて彷徨った。山奥をただ適当に車で進んでいく。しばらくして、草木に覆われた荒廃したトンネルが目に入った。車を置いて、服だけをもってトンネルを進む。通り抜けると、足元には線路があった。その線路はもっと先まで続いているようだった。その先に何があるのか、好奇心には勝てなかった私は、暗い夜道をただひたすらに歩いていく。どのくらい歩いたのか、行きついた先は1両の電車だった。前輪が線路から外れ、車両にはツタが絡みついていた。車内にも草木は浸食し、随分と年月が経っているようだった。
「こんな自分の最後にはもったいないくらいのいい場所ね」
ひとり呟き、まともに残っていた椅子に座る。満たされた胃をさすり、猛烈な眠気に身を任せて深い眠りについた。
ふと目を開く。空に青い明かりが灯り始めた頃合いだった。窓の外をのぞくと、彼の後ろ姿が森に消えていく瞬間を見た。私は勢いよく立ち上がり、後を追いかけようと車両を降りた。その瞬間、太陽が木々の間から顔をのぞかせ、私の視界を奪っていった。あまりの眩しさに、目を瞑る。光が落ち着き、私は目を開く。
「…ここは」
いつの間にかトンネルの前にいた。
「私は電車を降りたはずじゃ…」
雀が鳴いている。もう朝だ。
やみなべ 創作集団「Literature」 @Literature_R4
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