第16話 家族 (依正不二)



 夕闇が迫る頃、フルナとトヨが暮らす家の中は、温かな夕飯の匂いで満ちていた。

「そうね。ホタさんって人間じゃない相手にもまったく同じように話しかけるから」

 そう言ってリテが笑う。

「分かるまではいったい誰と会話してるのかと思って怖かったよ」

「おばけだと思ったの?」

 とオハルが言い、

「おれ、おばけも怖くないもんね」

 とアキヤが胸を張る。

「嘘つけ」

「嘘じゃないもん。夜だってひとりでおしっこ行けるもん」

「でもな、アキヤ」

 とユテルが声を潜めた。

「パドマの森の外に出たら、怖い魔物や鬼がうじゃうじゃいて、いつだって人間の身体に入ろうとして狙ってるんだぜ。俺が初めて旅に出た日の夜なんかもな……」

「ユテル。オハルが怖がるからやめてちょうだい」

 ぴしゃりとトヨに言われて、「えー」とアキヤが口をとがらせる。ユテルはイヒヒと笑って、「後でな」とアキヤに囁いた。

 塩をふった鳥の串焼きは、囲炉裏の灰に刺さって、てらてらと油を光らせていた。その油の匂いにサビナの根をすりおろした爽やかな香りが加わると、匂いだけでよだれが出そうなほどだ。

 はりから吊った鍋のなかでは、煮干しでだしをとった山菜汁が湯気を立てていた。炊き立ての麦飯の香りも良い。

 鍋に割り落とした卵は、二つともトヨのお椀によそわれた。トヨはアキヤとオハルにも食べさせようとしたのだが、二人が「赤ちゃんにあげるの!」と言ってゆずらなかったのだ。

 こうして皆で夕食を囲んでいるが、普段はミナトとユテル、エナとリテ、そしてフルナとトヨの家族が、集落の上の広場に並んだ三つの家で別々に寝起きしていた。しかし同じ場所で生活していればその音は筒抜けになるわけで、ほとんど共に暮らしているも同然だ。朝昼は各自で済ませる事が多いが、たまに誰かが用事で出て行った先で食べてくる時以外は、夕食を共にすることが多い。

「優しいなとは思うけどさ、自由すぎてついていけないよ。動物とか花に話しかけるのはまだ分かるけど、山とか石にも話しかけるんだから」

「でも、聖典にもそういう話があるのよ。皆、何かきっかけがあって今の形を保っているだけで、いつかは必ずその形を失くすの。そして、またきっかけを得て新しい形になる。ね?だから、動物も、植物も、山も川も、家も道具も、私たちも、みーんな同じ命の仲間」

「この森の命の定義って大きすぎない?」

 呆れるミナトをフルナが笑う。

「ミナトの信仰はお金だものなあ」

「だから、それは違うって」

「でも、価値があるかないかの判断は、ぜんぶお金が基になっているんだろう?お金を生むかどうか、それがいちばん大事」

「ニホンって変なところね。水を手に入れるにも、火を使うにもお金がいるなんて。便利なんだか不便なんだか分からないわ」

 トヨは首をかしげながらも、「アキヤ、煮干しも食べなきゃだめよ」と山菜汁をおかわりしているアキヤに注意した。

 うーん、とミナトは唸る。先進国だった日本に比べれば森の生活ははるかに不便なのだが、今の生活以外を見たことがない森の人たちにそれを理解させることは、なかなか難しい。

 今まで黙っていたエナが、不機嫌そうに言った。

「考え方が変われば、見方が変わる。見方が変われば、振る舞いが変わる。自分の振る舞いが変わればそれに随って周囲の振る舞いも変わるし、やがては天も地も、生きる世界のすべてが変わっていくものだ。何でもかんでも富を得るための道具にしおって。お前のいた世界は、いったいどれだけ殺伐さつばつとしたところだったんだ」

「殺伐としてたわけじゃない。と、思う。たぶん」

 子どもの自殺や過労死など、暗いニュースは常にあったが、日本にしても外国にしても、歴史を振り返ればもっと残酷な時代もあったようだし、ミナトが生きていた時代はずいぶんマシなほうだった。

「俺はそう悪い世界でもないと思いますよ」

 とフルナが言った。

「人や物の行き来が活発で、どんなに遠く離れていても仲間を見つけられる。人間だけの話をすれば、けっこう自由で活気のある世界じゃないですか」

「何が自由なもんかい。己をどうりっすればいいのかも知らん奴らが、見栄えのいい箱の中に押し込まれて、押し合いへし合い、生活しとるんだろう。息が詰まって仕方ない」

「確かに、この森のほうが息がしやすいかも」

 ミナトは軽く笑った。

「まあ、こことは別の世界の話だし。今の俺には関係ないや」

 ほら、と串から外した肉をとなりにいたオハルに差し出すと、目ざとくそれを見つけたアキヤが

「ずるい!オハルだけ多い!」

 と文句を言った。

「お前と同じ量だって」

「おかわりが欲しい人は?」

 フルナが串を掲げて見せて、アキヤとオハルが「はい!」と手をあげる。エナも小さく手をあげていた。




 食事の後はいつも、皆でゆっくりとお茶を飲むのが習慣になっていた。

 竹の筒の中に発酵した茶葉が固く詰まっていて、後ろからそれを押し出して、必要な分だけを茶釜ちゃがまの中へ削り落として使うのだ。

 リテが二度目のお茶を準備している横で、ミナトは琴を弾いていた。日本で見たような大きな琴ではなく、それを三等分にしたくらいの小さな琴だ。楽譜は木の板に簡単な記号が刻まれているだけのものなので、どの記号がどの弦で、と教えられれば、どうにかミナトにも理解できた。リテが教えてくれるから練習してみる気にもなったのに、エナが、リテが淹れた茶を飲みたいと言ったせいで、今はミナトがひとりで練習している。

 アキヤはトヨの肩を揉み、オハルはトヨの膝に頭をのせて、焼いた粘土の板を触っていた。板には家族四人分の手形が並んでいる。それとは別に三人分の手形が並んだ板もあるから、トヨが出産すれば、今度は五人分の手形を押して、新しい板を焼くのだろう。

「母ちゃん。卵、おいしかった?」

「うん、すごく美味しかった」

 肩越しにのぞき込んだアキヤの頭を、トヨが優しくなでた。

「取ってきてくれてありがとう。赤ちゃんもありがとうって言ってるわ」

 アキヤはトヨと額をくっつけて、照れ笑いしている。

「赤ちゃんが動いた!」

 オハルが嬉しそうに言って起き上がった。「お姉ちゃんですよー」と腹に手を当てて呼びかけると、今度は反対側からアキヤも「お兄ちゃんですよー」と声をかける。赤ん坊がまた腹を蹴ったらしく、「お返事したわね」とトヨが言って、母子三人で笑っていた。

 外から夜風が入ってきて、フルナは立ち上がるとトヨにひざ掛けを渡した。

「まだ暑いわよ」

 見上げるトヨに、

「万が一にも風が入ると困るんだよ。もういつ産まれてもおかしくないんだから」

 そう言って、フルナはその膝に布をひろげる。アキヤとオハルはそれを手伝うと、またトヨの腹に頬をくっつけた。

「赤ちゃん、もうすぐ会える?明日の明日くらい?」

 見上げるオハルに、フルナは「さあ、なあ」と微笑む。明日の明日の明日?それよりもっと明日?と尋ねるオハルに、

「赤ちゃんが決めるんだよ」

 とアキヤが教えた。

「赤ちゃんが決めて、母ちゃんにもうすぐ生まれるよって教えるんだよ。オハルだって明日生まれるよって母ちゃんに教えてたもん」

「そうだったわねえ」

 トヨは目を細めて、アキヤとオハルの頭をなでている。フルナがトヨの腹に手を当てた。

「みんなで待ってるからな。安心して出ておいで」

 琴の音が止まった。

「俺、そろそろ家に戻るよ。琴、貸してくれてありがとう」

 ミナトは琴を弾いていた爪を外し、立ち上がった。

「もう帰っちゃうの?今、お茶を注ごうと思ったところなんだけど」

 リテに言われて、一瞬、言葉を探す。

「なんか、眠くなっちゃって。猟で疲れたかな。ほら、ユテルさんも、寝るなら自分の家で」

 言いながら、床に寝転がってうとうとしていたユテルのすねを足でつつく。

 んあ?とまぬけな声を出したユテルを引っ張り起こして、ミナトはフルナたちの家を出た。




 ミナトが出ていった扉を、リテは手を止めて見ていた。

「まずかったかな」

「え?」

 リテはフルナを振り返った。「何がまずかったの?」と床に転がって尋ねるアキヤの頭を、フルナは黙ってなでている。

 エナがふんと鼻を鳴らした。

「放っておけ。こっちが気を遣ってやることはない」

「でも」

「こそこそと気を遣われて、それを喜ぶような奴かい。むしろもっと遠ざけるだけだろうよ」

「そりゃあ、そうなんですけど」

 トヨの膝にもたれているオハルは、目がとろんとしてきていた。オハルに自分の指を吸わせながら、トヨが不満げに眉を寄せる。

「羨ましいなら羨ましいって言えばいいのよ」

「トヨ」

 フルナが目で子どもたちを示したが、トヨはそれに構わなかった。

「なんであんなに隠す必要があるの。腹が立つなら怒ればいいし、悲しいなら悲しいだけ泣けばいいんだわ」

「みんなを困らせたくないんだよ。ミナトは優しいから、自分のことで他人を悩ませたくないんだろ」

「私はもっと一緒に悩みたいの。もっと困らせてほしいのよ。あの子はいい子すぎるわ。嫌なことがあっても、心にふたをして笑うでしょう。そんなうわべだけの親しさなんかいらない。私はあの子と家族になりたいのに、あと一歩のところで背を向けられている気がするわ。あくまで他人なんだって、いついなくなってもいいんだって、線を引かれている気がする」

「ミナトが森に来て、まだ半年じゃないか」

「もう半年、よ」

 トヨは頬を膨らませた。

 エナはリテが置いた湯呑を取り、手を温めるように包んで、息を吹きかけた。

「ニホンという国は、どんな国だったのだろうな」

 深く息をついて言う。

「あいつは馬鹿だが、それなりにさとい。あいつなりに賢く生きてきた結果が、あれなんだろうよ」

「こちらが、慣れるしかないですか」

 フルナが苦い笑みを浮かべると、エナはふんと鼻を鳴らした。

「知らんわ。この世に不変であるものなど、ひとつもない。互いが互いの縁になり、時々刻々と変わっていく」

 じれったい!とトヨが呟いた。

「お前は少しぐらいミナトの慎重さを見習え」

「何よ。おばあちゃんだって、いつも分かったようなこと言うだけで、自分では何もしないんだから」

「動くのは元気があり余ってるやつがやればいいんだ」

「口だけは元気いっぱいじゃない」

 姉さま、とリテは間に入った。

「私、明日になったらミナトと話してみるわ。何も変わらないかもしれないけど、でも、こちらの心を伝えることは出来ると思う」

「ミナトに、またおもちゃ作って、って言っておいて」

 アキヤが言って、あぐらをかいているフルナの膝の下に潜り込みながら「それから」とつけ加えた。

「大好きだから、どこにも行かないでって」

「自分で直接言いなさいよ」

 笑い含みにトヨが言うと、「恥ずかしいから嫌だ」とくぐもった返事があった。

 その様子に皆で笑って、リテはまた、ミナトが出ていった扉を見て微笑んだ。

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