第17話 黒い心 (依正不二)


 ミナトは青緑色に澄みきった滝壺にただよって、ぼんやりと空を見上げていた。

 木々よりもはるかに高い位置から落ちる滝の音に混じって、鳥の声がしている。日の光は緑のこずえにくだけ、あるいは細かなしぶきにくだけて、薄い虹をつくっていた。

 こうして一人でいると、今の自分がパドマの森のミナトなのか、日本の湊斗なのか、よく分からなくなってくる。

 フルナと、トヨと、アキヤと、オハル。昨晩見た、四人が仲良く寄り添う姿が頭から離れない。

 ミナトはこの森に来てから、仲が悪い家族というものを見たことが無かった。親を早くに亡くした子どもはもちろんいるが、そういう子どもでも、親戚の家で、他のきょうだいたちと何ら変わりなく育てられていた。

 なんて理想的なコミュニティなんだろうと思う。そういうコミュニティに出会ったことはラッキーだと思うし、よく見て、学んで、ミナトも同じように、何の問題もない家族をつくっていけたらいいと思っていた。

 そうやって冷静に、前向きに彼らを観察する自分がいる一方で、彼らの幸せそうな様子を目の当たりにするたびに、おりのように心に降り積もるものがある。

 ―――なんで、俺たちだけ苦しまなきゃならなかったんだろう

 気ままに愛情を示し、子どもの心を踏みにじっておいてそれに気づきもしない、身勝手な親たちを思い出す。そんな親たちに振り回され、無邪気に一喜一憂する仲間たちの姿が目に浮かぶ。

 アキヤとオハルの穏やかな寝顔を見ていると、かわいいと思う一方で、黒い気持ちが湧き上がってくるのだ。全部を壊してしまいたい衝動にかられる。

 実り豊かなパドマの森も、人びとの穏やかな暮らしも、アキヤとオハルの幸せも、全部、全部、壊れてしまえばいい。全部壊れて、無くなってしまえばいい。

 ―――お前の生き方は、お前が決めろ

 頭の中でハマ兄の声がした。ハマ兄の声を思い出すのも久しぶりだ。あれはいつ言われたんだったかな、とミナトは記憶を手繰りよせた。

 ―――そう、確か、高校に入ってわりとすぐ……

 受験勉強を乗り越えて、県内ではそこそこ名の知れた高校へ進学を果たした後のことだ。

 知り合って日の浅い友人たちが部活でも仲間を増やしていく中、湊斗は園の最寄り駅にあったファミレスでバイトを始めた。そのバイト先で嫌な事があって、つい、園に来ていた実習生に八つ当たりのような態度をとってしまったのだ。それで休日にハマ兄に呼び出された。

 よくある話だが、同じような学力の生徒が集まってくる高校では、中学の頃に比べてぐんと成績が下がる。湊斗もそのせいで勉強に対するモチベーションが下がり気味で、周囲から「大丈夫か?」と心配されていた。しかし湊斗にはその心配がうっとうしかった。

「だってさあ。他の奴らに比べたら全然勉強してるほうじゃん。そもそも教科書のレベルだって違うしさ。試験の結果だけ見てどうのこうの言われても、あなたに何が分かるんですかって感じ」

「おー、おー、吐き出せ吐き出せー」

 実習生に対しての態度のお咎めが終わった後も、ハマ兄は職員室の奥の仮眠室、もとい説教部屋を追い出さずに、湊斗の話を聞いてくれた。

 皆には内緒な、と言いながら、職員用に置いてあったお菓子も持ってきて、畳の上にばらばらと広げてくれた。さすがに畳の上に食べかすが散らかるとまずいので、二人でクリアファイルを皿代わりにして食べた。

 ハマ兄と二人だけで話す機会もあまり無いから、なんとなく嬉しくて、湊斗も口が軽くなる。

「そもそも俺、高校の担任、嫌いなんだよね。なんか宇宙人みたいな白い肌で、昔の文豪みたいなメガネかけててさ。別に頼んでもないのに、俺が児童養護施設にいるってことを隠そうとしてくんの。それって先生の中にも偏見があるってことじゃん。よく知らないで暗いイメージだけ持ってるんだろうけどさ。何?児童養護施設にいるって悪いこと?」

「いやー、でも、まあ、対応が難しいのは、分かる。実際、施設で生活してるのを知られたくないって言って、わざわざ遠回りして帰ってくる奴もいるぐらいなんだから」

 あー、あいつな、と言いながら、他にも何人かの顔を思い浮かべた。

「でもどうせいつかバレるものじゃん。っていうか、だったら最初に訊いてくれたらいいのに。施設にいるかどうかなんて、入学手続きした時に保護者を見れば分かるんだしさ。オープンにしたいですかー、隠したいですかーって生徒本人に訊けばいいんだよ」

「なるほど、確かにな」

 軽い調子で相づちを打つハマ兄の前で、ミナトはだらしなく後ろにもたれる。何年も前に園の運動会で一度使われたきり、出番が無くなってしまったきぐるみが、ミナトの背を重そうに受け止めた。

「あーもー、本当、面倒くさい。色々と面倒くさい。バイトリーダーにしても、まさかこの時代に施設のことで嫌味を言ってくる人がいるとは思ってなかったよね。本当サイアク。あそこ辞めようかな。担任も変に気を回してくるしさ、なんかもう、色々とだるいんだけど」

「別に辞めてもいいけど、短期間で辞めると次のバイト先を見つけるのにハンデになるぞ」

「知ってますー、だから辞めるって電話してないんですー」

「おい、ファイルを蹴飛ばすな」

 湊斗は寝返りを打ち、きぐるみの鼻に何度も指をつっこんだ。このきぐるみは豚か、犬か、それともパンダか。

「あー、本当、世の中だるいなー、面倒くさいなー。ハマ兄、俺、引きこもっていい?一か月ぐらいしたら出てくるからさ、引きこもっていい?ねえ」

「おお。職員としてそれにイエスと答えるわけにはいかないんだけどな」

 ハァーッとため息をついて、湊斗はきぐるみに顔をうずめた。

 仮眠室の中に、しばらく沈黙が降りた。

「まあ、色々としんどい時期なのは分かったし、本当に辛いんなら休んでもいいんだけど」

 きぐるみに顔をうずめたまま、少し笑う。

「そんなこと言ったら、ハマ兄が職員会議で怒られるじゃん。冗談だよ」

「俺が怒られるのは別にいいんだよ」

 んー、と湊斗は唸った。

「俺はさ、人生にも休憩って必要だと思うんだよな。子どもにしても、大人にしても。だから別に休むのはいいんだ。でも、諦めるのは、良くないと思う」

「諦めるって、何を」

「どんな人生にしたいか、とか、どう生きていきたいか、とか。そういうこと」

「えー、人生?」

 言って、湊斗は少し考えてみた。

「うーん。なんか普通に。就職して、家庭を持って、かな。でも俺、とりあえず大学は行きたいからさ。それは決まってる」

「ああ、お前はそうだな。小学生くらいから言ってたんじゃないか」

「そんな前からだっけ」

 話しながら、ハマ兄は湊斗の分の食べかすを自分のファイルの上に集めていた。

「まあ、俺たちからしてやれることは少ないんだけど、できる限り応援はするから。自分の生き方は自分で決めろ」

 湊斗はハマ兄の顔を見て、「あれ?」ときぐるみから起き上がった。

「今、ハマ兄、なんか嘘ついた?」

「なんでだよ」

 ハマ兄は笑って言ったが、湊斗のほうは見なかった。


 どうしてあの時ハマ兄が目をそらしたのか、大人になった今なら少し分かる気がした。

 親から引き離され、または当の親から虐待されて傷ついた子どもたちに、職員の心を届かせることは難しい。制度の壁、慣習の壁の中で精一杯尽くしてきた子どもが、人生の道を踏み外して不幸の沼に沈んでいってしまう。そういうことも少なくはなかっただろう。実際、自殺未遂をやったという先輩を湊斗も知っている。

 社会の崖っぷちに立って、不幸の沼から子どもたちをすくい上げる場所だからこそ、子どもを不幸の沼に再び引き込もうとするきっかけはいくらでも転がっている。

 報われない仕事だと呟いていたのは、ハマ兄だったか、別の職員だったか。

 自分の生き方を自分で決める。それを貫くことがどれだけ難しいか分かったうえで、それでもハマ兄は湊斗にあの言葉をかけたのだ。雑談のついでのように言われたあの言葉は、ハマ兄にとっては祈りに近いものだったのかもしれない。

 ミナトは目を閉じ、一人、水に浮かんで息を吐いた。

 ―――でもさあ、ハマ兄

 胸の奥に呼びかける。

 日に日に、日本の生活が遠ざかり、森で生きる術が身についていくのに、いつまでたっても黒い心が、濁流が、ミナトの中から消えてくれないのだ。日本の父母を恨む気持ちがどこまでもついて回るのだ。自分はどうしたらいいのだろう。どうしたらこの濁流から解放されるのだろう。

 最近まで手が届きそうなくらい低かった空は、今はもうずいぶんと遠ざかって見えた。

「俺、この世界でどう生きれば幸せになれるのか、分からないんだよな」


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