第13話 生家 (依正不二)


 どんよりと曇った白い空の下、青い稲を茂らせた田が遠くまで広がっていた。稲の間に屈んで草むしりをしたり、桶を使って用水路から田に水をくみ上げている農民の姿がちらほらと見えている。

 那武持の父が治める領地は馬波浪マハロ半島のちょうど中央、南の山岳地帯のふもとであり、馬波浪平野の南端に位置している。比較的気候に恵まれた土地だが、近年は夏になっても気温が思うように上がらないせいで、稲の実入りが悪く、収穫量は減っているらしい。それでも税を調節せずとも飢えて死ぬ領民はまだいないようだから、相次ぐ嵐で飢饉ききんに陥っている他の領地と比べれば、はるかにましなほうだった。

 馬に乗った那武持を見ると、行く手にいた農民たちは慌てて道の脇に避け、額を土につけて那武持が通り過ぎるまで身を縮ませていた。

 やがて領地の政務が行われる郡府の建物が見えてくると、その門から髪を結い上げた女が下女を連れて出てくるのが見えた。門の傍に立って、那武持が来るのをじっと待ち構えている。

 女が駆け寄ってきて、那武持は馬から降りた。

「只今帰りました。ご無沙汰して申し訳ありません、母上」

「おかえりなさい、那武持」

 母は甘ったるい声で言って、那武持の頬に手を伸ばした。

「ああ、三年ぶりになるのかしら、本当に久しぶりだわ。まったく、貴方ときたら十に一つも手紙を寄こさないで。どれだけ母を心配させれば気が済むの」

「母上、どうぞ。お土産です」

 那武持は母の手から逃れると、鞍の荷を解いて、その手に包みを押し付けた。

「貴族の方々も使う店で布を買ってまいりました。少し値は張りましたが、母上にお似合いになるかと」

「まあ、嬉しい!」

 母は目を輝かせ、さっそくその場で包みを解きはじめた。母の上機嫌を確かめて、那武持は何気ないふうを装って尋ねる。

「母上、舎久良シャクラはこちらに帰ってきていますか。手紙には探索に出たきり二月になるとありましたが」

「いいえ、一向に音沙汰なしよ。どこで何をしているのかしらね。途中で死んだんじゃないかしら」

「そうですか」

 那武持は秘かに安堵の息を吐いた。

 愚鈍な弟だが、もし先に宝を見つけられでもしたら、そして弟の手に宝があるだけならまだしも、それが強欲な父の手に渡ってしまっていたら、那武持はこの件で手柄を立てることが出来なくなる。

「少し地味な気もするけれど、そうね、このくらい落ち着いた色のほうが雅な方々は好まれるのでしょうね。さっそく上衣に仕立てさせましょう。今度の茶会に間に合うと良いのだけれど」

 母は言いながら包みを下女に預けた。

 那武持は下男に馬を預け、母の愚痴を聞き流しつつ父がいる館へ向かう。

「舎久良といえば、昨日もその母親がうちに来ていたのですよ。李子すももを届けに来たようですが、もちろん捨てさせました。もうすっかり飽きられているというのに、未だにどうにかして我が夫に会おうとするのだから、本当に卑しくて図々しい女だわ。舎久良も戻ってこないのだし、これを機に遠くへやってしまえば良いのよ。ねえ、那武持、貴方もそう思うでしょう?郡司だから妾の一人や二人、いないと格好がつかないだなんて。あんな貧相で暗い女なら、いないほうがよほど立派に見えるというものです」

 那武持は生返事をしつつ、自分の生家を久しぶりに眺める。

 どこも清潔にされていて庭も手入れされているのが分かるのだが、風雨に色あせた外縁の欄干らんかんはなんともみすぼらしい。土の色がむき出しの塀も、表面のかやだけをき替えた屋根も、佐衣雅王の邸で慣れてしまった那武持にはどうしようもなく粗末に見える。そんな邸で年甲斐もなく明るい色で衣を重ね、いくつものかんざしを髪に挿し、唇に毒々しいほど鮮やかな紅をのせている母の姿を見ると、那武持はいっそ吐き気がしてくるのだった。

 父は那武持が頭を下げて挨拶するまで、無言で腕を組んでいた。顔を上げた那武持に

「何をしに戻ってきた。やっと都での仕官を諦めて、国府に勤める気にでもなったか」

 不機嫌をあらわにして言う。那武持は目を伏せて答えた。

「民部省の委託を受けまして、この度、山地に住む民を調査しに行くことになりました。つきましてはその麓にあたるこの領地を通ることになりますので、ご挨拶を、と」

「何だと?」

 父は目を吊り上げた。

「貴様、大学まで行っておきながら、そのような下っ端仕事をしているのか!」

 どん、と傍らの卓を叩き、父は那武持を怒鳴りつけた。

「国府に勤めておれば、今ごろ貴様は人を遣う立場でありこそすれ、自らの足を汚して山を駆け回ることなどあり得ん歳なのだぞ。沙羅朝廷の統治下にいる今だからこそ領地を削られ郡司の座に甘んじてはいるが、もとを辿れば我が家は馬波浪の南に栄えた一大豪族の血筋。その長男として相応しいようにと、今までお前には財も人脈もふんだんに使ってやったと言うのに。都の浮ついた空気に流されて、親の顔に泥を塗っていることにも気づいておらんのか!」

「父上への感謝を忘れたことなどございません」

 那武持は平然として言った。父の言葉、母の言葉にいちいち腹を立てたり疎ましく思ったりしていたのは、もはや遠い昔のことだ。

「しかしながら、委託された方は我が主である佐衣雅王のご友人です。調査に私の名を挙げてくださったことは、佐衣雅王のご信任の表れと思い、謹んでお役目をお引き受けした次第です」

「佐衣雅王?」

 想像していた通り、父はその名前を聞いて顔色を変えた。

「佐衣雅王というと、帝のお血筋で、現在は左大臣の要職にある……」

「はい。その方でございます」

「お前、大学をやめて兵衛府にいるのではなかったのか」

「大内裏での任務がない間は、佐衣雅王のお邸で警備を担っております」

「素晴らしいわ!」

 声を上げたのは母だった。

「都で仕官しているというだけでも鼻が高いのに、左大臣様の下で働いているなんて。幼い頃から乳母に任せず、つきっきりで学ばせたかいがあったというものだわ。ねえ、那武持。私が都へ遊びに行ったら、左大臣様やその奥方様にご挨拶できるかしら」

「さあ。王はお忙しい方ですから」

 曖昧に返事をして、那武持は父に尋ねた。

「舎久良がその山地に探索に出されたと伺いましたが、父上は、またどうして宝探しなどを?」

「ああ、それは」

 答える父は半ば上の空だ。那武持の昇進への悔しさと、佐衣雅王への繋ぎができた嬉しさがない交ぜになっているのだろう。

「首を切ろうとした男が、故郷に龍神の宝があると喋ったのでな。龍神というのが、昔からこの地にいる農民らに祀られている神だというのは知っていたから、試しに探させてみようと思ったのだ。駄目でもともとのつもりだったが、もし何か見つかれば、国司にでも贈って今後の便宜を図ってもらおうと」

「さようでしたか」

 では、右大臣の羅時冨ラジフ公らが関わっているわけではないのだ。

「しかし舎久良の奴め、出ていったきりいっこうに帰って来ん。男に案内させて、家人も何人かつけて行かせたのだ。男の話では半月ほどの距離だと言っていたから、もういい加減、何かしら報告を持ち帰ってもらいたいものだが」

「もし調査に行った先で見つけたら連れて帰ってきましょう」

「そうしてくれ」

 となりで母が顔をしかめているのがちらと目に入る。母にとって舎久良は父の妾同様、邪魔な存在でしかないが、父にとっては血の繋がった息子だ。普段は末の弟に対してまったく無関心な父だが、もう生きていないと考えるのは、さすがにためらわれるらしい。

 那武持は「寝所で休んでまいります」と席を立つと、また母が愚痴を聞かせに来る前に、父の寝所から離れた。



 那武持は自分の寝所に運ばれた荷物の中から筆記具だけを取り出すと、すぐに郡府の倉に入った。

 棚に整然と並べられた裁判の記録のなかから二月以上前のものを選び出し、パドマの森から来たという男の記録を探す。しばらく木板の字を指で辿っているうちに、その記録は難なく見つかった。

 三月前の夜、郡の貯蔵庫である義倉ぎそうに盗みに入った集団があり、その半数を郡司の家人らが捕縛した。捕縛した全員に死罪を言い渡したが、そのなかの一人、ユテルという男は、自分は騙され脅されてやむなく協力しただけだ、と酌量を求めた。男が言うには、旅の途中で食うに困っていたところを助けてもらったが、その見返りに盗みに加わることを求められたとのことだった。ユテルという男は酌量しゃくりょうを求めた際、故郷にある宝の在り処に案内すると申し出たので、郡司が特別にこれを許可した。

 記録係も律儀に残したものだ。パドマの森なる場所のおおよその位置まで、ユテルが裁きの場で話した通りに書き取ってあった。

 窓の格子の間から、茜色に染まった日差しが倉の中に入ってきていた。窓から裏の雑木林と、その手前に造られた小さな庭が見えている。

 庭に欠けた壺が転がっているのを見て、那武持はふと、幼い頃に舎久良と、矢を壺に投げ入れたり、蹴鞠をしたりして、この庭で遊んだことを思い出した。子どもの頃の那武持は七つも年下の弟が可愛くて、稽古や手習いの合間を縫っては、この庭で一緒に遊んでやっていたのだった。

 舎久良が生まれて間もない頃、父の腕に抱かれる舎久良に初めて会った後に、母に言ったことがある。

「ねえ、母上。私は舎久良をいちばんに可愛がることに決めました。父上は私と母上をいちばんに愛してくださるから、だから私はいちばんに舎久良を可愛がるのです」

 母はいい顔をしなかったが、那武持は気にしなかった。手取り足取り遊び方を教えて、自分にもらった菓子は皆、舎久良にも分けた。

「舎久良は私が好きか?」

「うん!だいすき!」

 いまだに覚えているということは、何度もそのやりとりをしたのだろう。

 けれど那武持は、舎久良をよく殴った。いつから殴るようになったのか分からないが、父が那武持にするように舎久良を殴り、蹴り、母が那武持にするように人と比べては叱りつけた。ごめんなさいと泣く舎久良を押さえつけていると気分が良くて、許してやった後に抱きついてくるのが愛おしかった。

 やがて十三歳になった那武持は実家を出て、郡司の子弟らが集う国学で学んだが、三年間の寮暮らしを終えた頃にはもう、舎久良は那武持を避けるようになっていた。

 舎久良は豪胆な父とは正反対で、いつも人目を避け、小さな声で不愛想に話す少年だった。一人を好む質は成長してからも変わらず、国学を出るとすぐ、実家には戻らずに、領内にまるで農民のような粗末な家を建てて住みはじめた。そこから郡府に仕事に通っていたようだが、やはり一人で行う仕事ばかりを選んでやっていたという。

 最後に舎久良に会ったのは何年前だったか。一瞬だけ那武持を見たその目に一切親しみの色はなく、ただ怖れと自信のなさが現れているだけだった。

 今の那武持にとって舎久良は、利にも害にもならない、つまりいてもいなくても変わらない弟だ。生きていようが死んでいようが構わないが、万が一この密命の邪魔になるようなことがあれば殺すかもしれないな、と那武持は思った。

 那武持は書棚を離れて、卓に硯と筆を出すと、裁判の記録を写し始めた。



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