第6話 失くしたもの (生死不二)



 それからの数日をどう過ごしたのか、ミナトはよく覚えていない。実際、高熱が出て寝込んでいたのだが、そのせいだけではなく常に、暗く重いものがミナトの身体を占拠して、ともすると胸が詰まって涙があふれてくるのだった。

 リテという若い女が何を持って来ても、ミナトはほとんど食べなかった。高熱のせいで味が分からないし、無理して食べようという気にもならない。

「もう少しだけ、あと一口、食べられませんか」

 リテに優しい声で言われても、ミナトは黙って顔をそむけた。

「甘いものならどうですか。今は干した果物しかないんですけど、お酒で煮て、はちみつを入れるとすごく美味しいんです。どんな果物がお好きですか。私、倉を見てきます」

「リテ、ほっときな」

 囲炉裏端で刺繍をしていたエナが、振り向きもせずに言った。

「そいつは生きようという気がないんだ。そいつのために何を持ってきたって、精一杯生きてきた他の命に失礼になるだけさ」

 エナは細長い白布に刺繍をしていた。そこに描かれているのはコブラに手足を生やしたような形の妙な生き物で、この地域で信仰されている竜神だという。家の奥に設えられた祭壇の脇にはすでに同じ刺繍が施された黒布が垂れ下がっていたが、エナはよっこらせと立ち上がると、その黒布に対になるように、祭壇の反対側に白布を垂らした。

 ―――あんたに何が分かる

 ミナトはエナとリテに背中を向けて、毛皮を鼻まで引き上げた。

 ミナトだって日本で精一杯生きてきたのだ。絶対に貧困に陥ることのない安定した生活を求めて、中学生の頃から黙々と努力を続けてきた。一般家庭の友人たちの努力を否定するわけではないが、自分から求めずとも、子どもを「普通の人生」に押し上げてくれるような親は、ミナトにはいなかった。

 大人になった今思い返してみると、日本にいたころのミナト―――湊斗の母親は、いわゆる「社会の底辺」で生きているような人だった。おそらく精神疾患を患っていて、家族には見放されたのか、それとも母のほうから拒絶していたのか、夜の街で、店と男の家を転々とする生活を続けていた。

 一方で、父は弁護士だった。母と出会った当時の父は、母より十歳以上は年上で、母が欲しがるものは何でも買ってくれたらしい。

 しかし父には当たり前のように家庭があって、妊娠をきっかけに離婚を迫った母を、父はお腹の子どもごと捨てた。

 母は「裏切られたのよ」と幼い湊斗に語ったが、ごく当然の結果だろうと思う。それなりの地位にいる男が、本気で、安い店で出会った精神疾患持ちの女に惚れるわけがない。母が湊斗を産んだのは、堕胎する知識が無かったか、その金を惜しんだせいだろうと思っている。

 それでも母は、最初こそ湊斗を可愛がって育てていたらしい。その頃の写真が、ほうま園で作ってもらった成長アルバムに残っていた。しかし母は新しくできた彼氏に夢中になると、湊斗に飽きてしまった。いわゆるネグレクト、育児放棄だ。だから湊斗は児童相談所に保護されて、ほうま園に併設されている乳児院に預けられた。

 もちろん、これまで周囲の助けが無かったとは言わない。けれど自分の力で「普通の人生」の軌道に這いあがったというのが、湊斗の実感だった。

 それなのに、道は突然、途絶えた。

 布団は藁と毛皮で出来ているし、食器は木を削ったものか土を焼いたものだ。おどろおどろしい極彩色の祭壇には動物の頭蓋骨が並んでいる。こんな原始的な生活を営む彼らに、ミナトが失ったものの大きさが理解できるわけがない。その生活の落差が想像できるはずがないのだ。

 なぜミナトだったのだろう。もっと楽をして生きている人は他に山ほどいる。もっと不真面目に生きている人もいるし、死んだほうがいいぐらいの悪人だって世の中にはいただろう。

 キーホルダーなんて拾いに行かなければ良かった。あんな子ども、最初から無視していれば良かった。自分は何に殺されたのだろう。湊斗にぶつかってきた、あの男性だろうか。その後ろで大きな荷物を背負っていた人だろうか。ホームと線路の間にガードを設けなかった鉄道会社のせいだろうか。すぐに外れるような、ちゃちなキーホルダーのせいだろうか。誰が、いつ、どこでどんなふうに行動を変えていれば、自分は助かったのだろうか。

「余計なことをごちゃごちゃ考えるから苦しくなるんだ」

 夜、外から帰ってきたエナが寝床に入りながら言った。

「だったらもう、俺に構わないでください。もう一度死ねば、全部忘れられるでしょう」

「本当にそう思うなら、この家から出ていきな。海でも山でも、好きなところで野垂れ死ねばいいさ」

 エナは淡々と言う。

「死にたいなら、なぜ水を飲んだ。なんで粥を食った。飲まず食わずでいれば、今ごろはとっくに死んでいたはずだ」

 そんなことはミナトが訊きたかった。心でいくら死にたいと思っても、喉は乾くし、熱が下がってくれば腹も減る。リテが持ってきた食事は意地を張って残すのに、フルナが持ってくる薬は断り切れずに、二口、三口と飲んでいる。中途半端な自分がダサい。

「お前は命を誤解している」

 暗闇の中、エナの言葉だけがしんしんと降ってくる。

「命ってのは、お前が思っているよりも、もっと深遠で不可思議なものだ。生きるも死ぬも、お前が決めることじゃない。お前の命が決めることだ。お前に出来るのは、ただ、今を生きることだけだ」

「何を言ってるのか、全然分からないです」

 エナは返事をしない。

「こんな場所で、俺一人で、いったいどうしろって言うんですか」

 エナは返事をしなかった。起き上がって暗闇に目を凝らすと、ぐごご、といびきが聞こえた。



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