第5話 目覚め (生死不二)



 夢を見ていた。

 薄暗く狭い静養室で、湊斗は小さな布団に納まっている。ピンク色の恐竜がプリントされたカーテンから、日の光がちらちらと漏れて、風と一緒に、外で遊ぶ仲間たちの声が静養室にも届いていた。

 扉が開いて、ナツさんが入ってきた。やわらかい声で何かを言って、湊斗の布団をめくった。脇に挟まれた体温計がひんやりして気持ちいい。

 ナツさんがまた何かを言う。湊斗を心配している声だ。促されて起き上がり、薄められたスポーツドリンクを飲むと、ナツさんが安心したように微笑んだ。

 ナツさんが小机でペンを動かしている。湊斗は、あれが体温を記録しているのだと知っている。

 ナツさんが湊斗の頭をなでてくれた。ナツさんの手は大きくて、ごつごつしているのに、やわらかい。ナツさんに頭をなでられるのは大好きだ。ほっとして、嬉しくなる。

 ナツさんが立ち上がった。小さな仲間たちのように泣いて駄々をこねたら、もっと一緒にいてくれるだろうか。でも困らせるのが嫌だから、湊斗はいつも我慢する。

 ―――みなとくんは、もっと甘えてくれていいのに

 いつかナツさんが湊斗を抱きしめて言ったことがあった。

 ナツさんの、岩みたいに頼もしいけれど、布団みたいに温かい体で、ぎゅっと抱きしめられるのは、少し恥ずかしいのが嫌だったけれど、頭をなでられるのと同じくらい好きだった。

 お母さんとの面会が延期になったのはがっかりしたけれど、病気になってナツさんを独り占めできるのは嬉しいな、と湊斗は思った。




 目を開けてまず見えたのは、目の前まで迫った茅葺かやぶき屋根だった。木のはりと細かく組まれた竹で屋根が支えられている。ひからびた魚の目が、吊り棚からぎょろりとミナトを見下ろしていた。

 ここは、いったいどこだろう。喉が渇いて張りつく。ミナトはぼんやりする頭で記憶を手繰り寄せた。

 ―――たしか男の子が落としたキーホルダーを拾いに行って、人にぶつかって……

 はっとして身じろいだとたん、全身に鋭い痛みが走って、ミナトは呻いた。

「大丈夫ですか!」

 視界に現れた女はかなり若く、ミナトと同じくらいの歳に見えた。続いてそれよりも年上らしい男が現れて、女を後ろに下がらせた。

「その様子じゃ目は見えているな。声は聞こえるか」

 背の高そうな、四角い顔の男だった。表情も声も穏やかに凪いでいたが、その目がミナトを注意深く観察している。

 ミナトはわずかに首を動かしてうなずいた。男は「起こすぞ」と声をかけ、ミナトの背中に手を入れた。男に手伝われて、ミナトは痛みに呻きながらもどうにか身体を起こした。

 ガーゼなのか、ミナトの身体のいたるところに布が貼ってあり、包帯らしき細い布も巻かれていた。ミナトが寝かされているのは、毛皮で出来た布団だった。毛皮の下に筵が見えていて、さらにその下から藁だろうか、ストロー状の植物がはみ出している。

 ―――なんだ、ここ

 ミナトは混乱して家のなかを見回した。

 丸太をすき間なく並べてつくった壁は、膝ぐらいまでの高さしかない。頭上に覆いかぶさるような重たい屋根と、丸太の壁との間に、土がむき出しになっている空間があって、そこが棚として使われていた。どうやらこの家は地面を掘り下げて造られているらしい。

 床は筵に覆われていて、中央にきられた囲炉裏の周囲にだけ、毛皮が敷かれていた。梁から釜がぶら下がって湯気をあげている。その前で、年老いた女がミナトに背を向けて座っていた。

 彼らが着ている服は、鮮やかに染めた幅広の布を身体の前と脇で縫い合わせただけの、簡単な作りをしていた。そこに渦のような型に切り抜いた布がアップリケのように縫い付けてある。

 ―――古民家?テーマパーク?なんで俺、ここにいるんだ

 自分は走行中の列車に接触したはずだ。病院で目が覚めるならまだしも、どうしてこんな、映画のセットのような場所に寝かされているのか。

 ミナトは唾を飲もうとして失敗し、大きく咳き込んだ。身体の表面があちこち痛い。

「どうぞ」

 労わるような声で言って、若い女が湯呑を差し出した。咳き込みながら受け取り、口に含む。礼を言って女に湯呑を返すと、隣で片膝を立てて見ていた男が「脈をみさせてくれ」とミナトの腕をとった。耳の下にも指先をあてて、「やっぱり風が入ったな」と呟いた。

「手足は自由に動くか?俺が診たところ骨は折れていないようなんだが」

 言われて試してみると、痛みはするが、どこも動かせないということはなかった。白衣こそ着ていないが、この男は医者らしい。

「ここって、どこですか」

 尋ねると、ちらと警戒するような目を向けられて、ミナトは慌てた。

「ええと、すいません。本当に何も分からなくて。俺、走っている電車にぶつかったはずなんですけど、なんでここにいるんですか。病院……もしかして、療養所とか、そういう施設ですか」

 男は眉をひそめ、若い女も、囲炉裏端の年老いた女も、怪訝そうにミナトを見た。

 三人のその反応に不安が膨れ上がる。まるで自分の頭が狂ってしまったようだ。何が何だか分からない。ミナトにしてみればこの状況こそが異常なのだが、この空間ではむしろ、ミナトのほうが異常らしい。自分は何か、精神的な病気にでも罹ったのだろうか。頭を打って脳に障害が残ったのだろうか。

 身の回りのすべてに馴染みがない。最後の記憶と、今の状況の間がぽっかりと空白になっていて、その間を繋ぎとめるような説明が何も思いつかなかった。

「あの、本当に分からないんです。ここはどこですか。なんで俺はここにいるんですか」

 縋るように男を見ると、ふっと男が警戒を解いたのが分かった。

「パドマの森と言って分かるかい」

 ミナトは首を振った。

「マハロの南にある、小さな集落の集まりなんだ。他の地域ではどう呼ばれているか知らないけれど、俺たちはパドマの森と呼んでいる。君は、シャラの人だよな?シャラから、山岳地を越えて、この森に来た。違うかい?」

「俺……俺は、東京の大学に通っていて、実家に帰るところだったんです。山岳地って言われても、どこのことだか」

 ふいに、しゃがれた声が聞こえた。

「でんしゃってのは何だい。何かの動物かい」

 囲炉裏端に座っていた女がミナトを振り返っていた。ぼさぼさの白髪を、あれは鹿の角だろうか、一本のカンザシでまとめている。背中は大きく曲がっているのに、染みだらけの顔のなかで、眼光だけが鋭かった。

「動物じゃなくて、乗り物です。大きな箱の中にたくさん人を載せて、電気で動かす」

「動物に曳かせる車ではないんだね」

「そんな古い形の乗り物は、今の日本には……」

 女がすっと目を細めた。

「お前、花を渡って来たね」

「花?」

 若い女が、はっとしたように顔を上げた。

「エナ様、花を渡ってきたというのはまさか、聖典にある、あの」

 エナと呼ばれた女がうなずく。

「あたしもあれは、生まれ持った流れを説明するためのたとえ話でしかないと思っていたんだが。こいつの様子を見ていると、どうもこの世界のことを喋っているとは思えない。きっと昔にもいたんだろうよ。こんなふうに前の花のことをはっきり覚えている奴が」

「ちょっと、待ってください」

 ミナトは声をあげた。

「この世界のことじゃないってどういう意味ですか。花って、何のことですか」

「花は一瞬の命、流れは永遠の命だ」

 エナは表情を変えず、まっすぐミナトを見たまま言った。

「お前は一度、死んだんだよ」

「は?」

 ミナトは目を瞬いた。

「そんなはず、ないじゃないですか。だって」

 だって、とミナトは繰り返した。続く言葉が見つからない。何を言えばいいのだろう。ともかく、ミナトが死ぬわけがないのだ。だってミナトは若い。何か悪いことをしたわけでもない。こんな、何の前触れもなく、突然人生が終わることなど、あるはずがない。

 呆然とうつむいた時、自分の肩から長い黒髪が垂れているのが目に入って、ミナトはぎょっとした。慌てて髪を触り、その触った手を見て、また驚く。いくつもたこが出来て、手の平が固くなっている。パソコンやタブレットでの作業が多かったミナトの手はペンだこすら出来たことがないのだ。

「鏡、鏡は、どこ」

 喘ぐように言うと、若い女が申し訳なさそうな顔をした。

「すみません、この森には鏡は無くて」

「自分の姿が見たいなら、そこの水甕を覗いてみたらどうだ」

 男の視線の先には大きな甕が置かれていた。起き上がると同時に傷が痛み、ひどいめまいがしたが、ミナトはそれに構わず、戸口のすぐ横の甕に縋りついた。蓋を外して、中を覗き込む。

 揺れていた水面が鎮まり、暗い水甕の中に人の顔が現れた。

 ミナトは息を呑んだ。

 全く知らない、他人の顔。頬に手をやると、水面にも手が映りこむ。

 身体から力が抜けて、ミナトはその場に座りこんだ。


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