第4話 竜神の泉 (生死不二)



 祭祀台を降りたリテとエナは、小さな木橋を渡り、滝壺の周りを巡る小道を歩いていた。

 滝壺は左手に見えていて、青緑に透きとおって輝いている。右手には、山、海、空、それぞれの場所で生きる者たちの神々の像が、岩から削り出されてずっと並んでいた。

 はじめのほうは素朴な彫刻だが、滝に近づくにつれて繊細さが増していく。洞窟に入る手前の像などは、動物の毛並みや、鳥の羽一枚、魚のうろこ一枚に至るまで、本物そっくりに彫られていた。

 エナとリテは、洞窟の入り口に張られた祈禱旗の前で手を合わせ、一礼すると、暗い岩室の中に入っていった。

 岩室に入るとすぐに、薄暗がりの中から怒り狂う形相の竜神像たちがぬっと現れ、巫子たちを見下ろしてくる。竜の形をとっている像もあれば人の形をとっている像もあるが、皆、目を剝いて、今にも牙を、あるいは矛を、こちらに突き立てようとしている。

 その部屋を過ぎて小道に入ると、ますます闇は深くなるが、松明に照らされる両側の壁には、やはり恐ろしい顔の石像や壁画が相変わらず並んでいた。それらの石像と壁画が消えると、今度は岩肌がつるりと白く光る、凹凸の激しい道に入る。人がやっと一人通れるほどの道が整えられてはいたが、その道を外れると、凹凸に足を取られて、なかなか思うように進めない。天井からは尖った石が無数に垂れ下がっていて、それらはつららにも似ているが、やはりそこにもひび割れた皮膚のような凹凸があって、禍々しい雰囲気を放っていた。

 幼い頃のリテはこの洞窟が怖くて、エナに叱られないようにこっそりと、トヨの服のすそを掴んで歩いたものだ。石像や壁画の神々は、いつまでもリテを目で追って、暗闇の中から背中を睨んでいるような気がしたし、白いつららは今にもリテを取って食おうとしている魔物の爪のように見えた。

 しかし、もし仮にそれらがすべて無かったとしても、この洞窟は十分に恐ろしい場所だということを、大人になった今のリテなら理解している。

 竜神の泉に辿り着くための正しい道は、代々、巫子にしか知らされない。白いなめらかな岩肌と、ざらついた黒い岩肌が交互に続く間、洞窟の道は無数に枝分かれしているのだが、ひとたび誤った道に踏みこめば、そのまま洞窟の中でさ迷い、飢えて死ぬか、それより先に罠にかかって死ぬか、どちらかしかないのだという。

 やがて、ゆるく続いていた坂道が急なものに変わると、枝分かれした道の先にあるのは罠ではなく、聖典が納められている書庫に変わる。どの部屋にも、大量の木板が天井まで積み上げられている。

 聖典庫をすぎて、すり減った階段をのぼると、やっと光が見えてきた。土の匂いは濃い水の匂いに呑まれ、闇は太陽の光に呑まれる。

 視界が開けると、そこにあるのは遥か遠い昔、竜神が天に昇ったと伝わる場所。パドマの森の人びとが代々守ってきた、薄紅色のパドマが群れ咲く、竜神の泉だ。


 天井にある大きな穴から、ちょうど真上に来た太陽の光が燦々と降り注いでいた。風がそよぐ音を聞きながら、リテはゆっくりと深呼吸して、坂をのぼって乱れた息を整えた。

 心が大きく広がっていくような感覚が心地良い。喜びと安心が同時に胸を満たしていく。

 ここは、とても力の強い場所だ。自分の心が弱くなっている時にこの場所に入ると、激流に押し流されるように、または誰かに無理やり手を引っ張られて引きずられているように苦しくなるが、逆に、心が元気なときに入ると前向きな気持ちが溢れてきて、なんでも出来るような気がしてくる。きっとそれは竜神の力によるものなのだろう。

 洞窟を通らず天井の穴から直接泉に降りてこられたら楽なのだが、穴にはまじないが施されていて、外から穴を見つけることは出来ないようになっていた。

 子ども心には、この秘密めいた泉に特別な宝物があるように思えるのだろう。皆、子どもの頃に一度はあの穴を見つけようとして滝の上を探すらしいが、今に至るまで誰一人、穴を見つけることは出来ていない。

 リテとエナは泉にかかる石橋をわたって、泉の中央にある小さな島にあがった。

 岩肌がむき出しになっている泉の中で、いちばん日当たりが良いそこだけが緑の苔に覆われている。その島にはひとつの石碑が立っていた。何の装飾もない石に、たった一言、「我、竜神なり」と刻まれている。

 島を覆う苔は日の光を透かして宝石のようにきらめき、二人の足音を完全に消してしまう。エナとリテは固く口を閉じ、黙々と石碑を磨いた。

 おだやかな葉擦れの音に、時折、鳥の声が混じる。手の平に包まれたような形の丸く広い空間を、時間を忘れてしまいそうな静けさが満たしていた。


 人が立ち入ることを拒むような険しい山岳地帯を挟んで、パドマの森の北方にはマハロと呼ばれる広大で実り豊かな大地があった。この地ではかつて、竜神信仰が盛んなマタイという王国が栄えていた。

 遥か昔、この泉から起こった竜神信仰は山岳地帯を越えてマハロに伝わり、マタイ国の時代に最盛期を迎えた。王の命令で国中に立派な神殿がつくられ、そこで何千人という巫子たちが竜神を祀り、生命の真を学び探求したという。

 しかしある時、マタイ国は西方で領土を広げていたクナルという国の侵略を受け、征服されてしまった。

 クナルの王ラクラヒムは竜神の神殿をことごとく打ちこわし、聖典を焼き尽くそうとした。巫子たちは、ある者は聖典と共に焼かれ、ある者は助かるために仲間を売り、またある者は王におもねって教義を改ざんし、そしてまたある者は、険しい山を越えて、はじまりの地であるこの洞窟に聖典を隠した。

 五十年の後、マタイ王の末裔がマハロの地に戻りクナルを追い出すと、竜神信仰を復興させようという兆しも見られたのだが、間もなくマタイ王が病に倒れ、強い統治者を失ったマハロは百年という長い戦乱の時代に入ったのだった。その間、いくつもの小国が興り、戦乱の中で滅びていったという。

 パドマの森がマハロから再び隔絶されて、およそ二百年になる。今は、八十年程前にはるか西方の地からやってきたシャラという国がマハロを統治しているらしいと、旅好きのユテル叔父が言っていた。

 クナルはいなくなったが、マハロの地はすっかり汚れてしまった。シャラの下で今も変わらず多くの血が流され、人の心は歪み、大地も荒れ果てているらしい。竜神を追い出してしまったマハロの地は、今も濁流の中に沈んでいる。


 ひと通りの掃除が終わって、改めて石碑に手を合わせると、リテは壺を泉に入れて甕に水を汲んだ。

 泉のほとりから島まで小さな石橋がかけられてはいるが、こうして水の中に入っても膝下までしか水は来ない。パドマの花が群れ咲いているあたりは、くるぶしが濡れるくらいしか深さがない場所もあった。

 必要なだけ水を汲み終わると、リテとエナは竜神に御礼を申し上げるためにもう一度手を合わせた。リテが背負い紐に腕を通し、いざ甕を背中に乗せて立ち上がろうとすると、とたんに、ぐんと後ろに引っ張られるような感覚があった。

「途中でこぼすくらいならここで減らしていきな」

「大丈夫です。このまま運びます」

 疑うような目を向けられて、リテは苦笑する。

「もう一度往復して子どもたちを待たせるのも可哀そうですから。私が見た目よりもずっと力持ちだって、エナ様はご存じでしょう?」

 微笑んでみせると、エナはふんと鼻を鳴らして、先に進んでいった。何も言わずとも、今度は松明はエナが持ってくれた。

「足を滑らすんじゃないよ」

 そう言って、ゆっくり階段を降りるリテの足もとを照らしてくれた。「はい」と返事をして、リテはこっそり微笑む。

 幼い頃はエナを怖いと思いもしたが、今は厳しさの裏に優しさがあることを知っている。その優しさが他人に認められるのを実は恥ずかしがっているのだ、ということを大人になったリテも分かっていて、しかもそれを可愛いと感じていると知ったら、エナはきっと目尻を吊り上げて怒るのだろう。

 やがて二人は聖典庫を通りすぎて、罠の多い道に入った。そこでふと、リテは頬に風を感じて振り返った。

 大きな穴が侵入者を誘い込むようにして、ぽっかり口を開けている。

「どうかしたかい」

 少し先に行ったエナが振り返った。リテは戸惑い、エナと暗い穴を交互に見た。

「あの、風が、吹いた気がして。気のせいかもしれないんですけど」

「風?」

 エナは眉をひそめて戻ってきた。松明を掲げて穴の中をのぞき込むと、リテにはその場で待っているように言って、穴の中へ入っていった。

「エナ様、あまり奥の方へ行っては」

「わかっとる」

 そう言いながらも、エナはずんずん奥へ進んでいく。

 リテは正しい道以外、どこにどんな罠が仕掛けられているのか分からない。はらはらしながらエナの背中を見守っていると、エナの持つ松明が大きく揺れた。

「エナ様っ」

「何ともない」

 リテの悲鳴にエナは短く答え、その場に屈んだ。すると、松明に照らされた床に何か黒く光るものが―――人の頭があるのが、リテからも見えた。

 エナはうつ伏せだった身体をひっくり返し、頬を叩いて何の反応もないのを見てとると、リテのそばに戻ってきた。

「まだ息がある。あたしがフルナを呼んでくるから、あんたはここにいな。もし何かあったら、甕を放り出してさっさと逃げるんだよ」

 リテはうなずいた。エナはリテに松明を分けると、ひとりで洞窟を降りていった。

 エナの足音が聞こえなくなると、暗闇に耳が痛くなるほどの静けさだけが残った。ぱちんと松明の火がはぜて、岩壁に映る影が揺れる。

 リテはその場にそっと甕を降ろして、足音をできるだけ消しながら、倒れている人のそばへ寄ってみた。

 首にまとわりついた長い黒髪の間から喉仏が見えている。男はリテの知らない服装をしていた。

 羽織の袖は大きくゆとりをもって膨らみ、襟がまるく首の周りを囲っている。羽織も下履きも泥に汚れて破れていたが、とにかく、もったいないほど布がたくさん使われた服だった。

 男の腰に、何か長い棒がくくりつけられていた。そろりとそれに触ってみて、リテはそれが刀であることに気づいた。山菜採りの小刀や獣を捌く山刀とは比べ物にならない、見たこともないほど長い刀だ。生活の道具ではなく、人を殺すためだけに作られた道具だった。

 リテは男の顔に目を向けた。歳はリテと同じくらいだろうか。目を覚ます気配はないが、かすかに胸が上下している。

 叔父のユテルのように、ごくまれに山岳地帯を越えて旅をする人はいたようだが、この二百年の間、パドマの森に外から人が訪れたことは一度もなかったと聞いている。

 ―――あなたは誰。どうしてここに来たの

 松明の弱い灯りに照らし出される男の顔をじっと見つめながら、リテはその男のなかにある流れを見極めようとしていた。




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