第3話 春祭 (生死不二)



 竜神の滝は、今日も変わらず、白いしぶきを上げながら大量の水を落として、パドマの森を潤していた。

 荒々しい岩の断崖を這い登るようにして黒い常緑樹が茂り、その間から暖かな日差しに誘われて真新しい緑が顔をのぞかせている。少し目線を上にあげれば、森のはるか北の方に、いまだ頂に雪をかぶったままの高い山々がそびえていた。

 深呼吸すると、澄んだ空気の中に、はっきりと濃い春の匂いが感じられた。

 笛の音が高く空に伸びていき、巫子長のエナ、姉巫子のトヨと共に、リテは供物の前に進み出て、滝に向かって合掌がっしょうした。後方に集まった人びとも、皆それぞれに合掌する。頭上で一回、胸の前で一回手を合わせ、膝をついて頭を垂れる。


 花は世界 世界は花

 水の流れが形を成して花となり 花の中に流れが現れる

 万物の王にして我らの親 慈悲深く賢き八百万やおよろずの神々のおさ

 竜神が眠るは深くくらい水の底 何ものにも染まらぬ清らかな流れ

 嵐の雲の上にも太陽が輝く如く 水面みなもが濁るとも水底みなそこは濁ることなし

 たけき濁流が清流を呑み込もうとする時 

 竜神は地より湧き出で 世界を清流のうちに包み込む

 願わくば我ら 竜神の導きに身を任せ 清流の中に生死しょうじを繰り返さん


 笛の澄んだ音色。琴の華やかな調べ。高く低く、それらを支える太鼓の響き。もう随分と腰が曲がっているエナだが、その声は朗々と力強く、祭祀台に響きわたった。

 リテはトヨと共に、エナの後ろで竜の伝説を舞った。花から生まれ、世界をつくり、その姿を流れのなかに隠した竜神の物語だ。白銀に輝く竜の姿で天に昇り、黒い邪竜と戦って、世界を濁流から救ったのだという。

 先人たちが土を盛って造った祭祀台には、ちょうど真ん中に滝が見えるようにして、二本の石柱が立てられていた。海の生き物に山の生き物、空の生き物。それらがぐるりと螺旋になって刻まれ、それらの背後に、石柱全体を使って大きく竜の絵が刻まれていた。

 黄、緑、赤、白、青。鮮やかな五色の旗を縄に連ねて作られた祈祷旗が、石柱の天辺と地面、そして二本の石柱の間を渡すようにして、何本も張られて、風にひるがえっている。

 石柱の前に並べられた供物を囲むようにして、薄紅色のパドマの花が飾られていた。

 音楽がにわかに明るく、にぎやかになると、今年成人を迎える人びとが祭祀台の中央に進み出て、奉納舞を舞いはじめた。

 虹色に織られた肩掛け布を羽織って、春から秋にかけての生活の仕事を演じ踊る人びとを、リテはほっと緊張を解いて、祭祀台の端から見守った。

 リテが成人を迎えてから、もう三年がたっていた。

 リテの母親はリテを産んですぐに亡くなったから、リテには自分の母親の記憶が一切ない。浜にある集落で、父と叔父と、三人で暮らしていたが、叔父が長く旅に出ていたある冬、父は突然の病でこの世を去ってしまった。

 悲しみのあまり泣くこともできずにいた幼いリテに、葬式に来たエナが教えてくれた。

「生きている時も死んでいる時も、命は流れと共にある。死んだからって命が消えるわけじゃない。お前の父親も、ちっとばかし流れに溶けて休んだら、別の身体になってまた戻ってくる」

「じゃあ、また父ちゃんに会える?」

「必ず会える。親子の流れってのは強くつながっているものだからね。今は寂しいだろうが耐えるんだよ。いちばん悲しい思いをした人が、いちばん優しくなれるものだ。今のお前の辛さが、やがてお前を幸せにしてくれる日がきっと来る。親子の流れはつながっとるから、お前が幸せなら、お前の父親も、母親も幸せだ。じっとこらえて、大きくなりなさい」

 その時のリテには、「必ず会える」というその言葉しか分からなかった。

「早く父ちゃんに会いたい」

 やっと泣きはじめたリテに、エナは「なら、お前、巫子になれ」と言って、山の集落にある巫子長の家にリテを連れて帰った。

 他の子どもたちが遊んでいる間、家にこもって文字を覚え、貪るように聖典を読み漁ったのは、ただただ、父が恋しかったからだ。自分のためでしかなかったのに、森の人びとは皆、リテに優しかった。両親を失くし、たった一人で生まれた集落を離れて巫子見習いになったリテを気遣い、いつも温かく迎え、「リテ様は賢い子だから、きっと立派な巫子様になるよ」と励ましてくれた。

 大人になって振り返ってみて、リテは、巫子になることこそが自分の持って生まれた運命だったのかもしれないと思っていた。リテの人生は、流れ着くべくして今のところに流れ着いたという気がしてならない。

 聖典を読み、恩に報いようと森に生きるすべての命を慈しんで生きている今、リテの世界は、深く、高く、果てしなく広がって輝いている。その世界で、父も母も過去に亡くなったすべての人たちも、そしてまた、未来に生まれてくる子どもたちも、皆と共にリテは生きていた。毎日がこの上なく幸福で、この幸福で両親をも包んでいけると思うと嬉しかった。

 奉納舞が終わると、儀式がひと段落した解放感で、祭祀台の上はにわかに騒がしくなる。あとは竜神の泉から汲んできた水で供物を煮て、祭祀台に集まった皆で食べれば、春祭は終わりだ。この特別な昼食を皆が楽しみにしている。もうすでに、子どもたちが供物の前に集まって目を輝かせていた。

 奉納舞に参加した人びとは友人同士で互いを褒めたり、からかいあったりしている。年長者たちに労われ、照れながらも誇らしげな顔をしている者もいる。山の村でいちばん年寄りのホタが、成人したばかりの男に背負われて「こりゃ、楽ちん」と嬉しそうに笑っていた。

 リテはそんな様子を微笑ましく眺めつつ、玉が縫いつけられた重い羽織を脱ぎ、頭帯を外した。上衣も脱いで普段着に戻ると、ふわりと身体が浮き上がるように軽く感じる。

「ああ、暑かった!」

 となりでトヨも髪をかき上げて、服をばたつかせて空気を入れていた。

 いちばん最初にエナがトヨの妊娠に気づいてから、もう四か月になる。着古して柔らかくなった服の下では、そのお腹が膨らんでいるのがよく分かった。

「トヨ姉さま、大丈夫だった?」

 心配するリテに、トヨは笑みを浮かべてうなずいた。

「立ち眩みもしないし、今日は匂いも平気みたい。むしろお腹がすいちゃって、踊っている時にもお供え物のお魚から目が離せなくってね」

 肩をすくめて笑う口元から、白い歯がのぞく。トヨの笑顔は夏の太陽に似ている。

 リテがほっとした時、トヨの足にしがみつくものがあった。トヨの娘、オハルだ。トヨがその身体を抱き上げた。

「母ちゃ、お仕事、終わり?」

「うん。今日はこれでおしまい。オハルはお父ちゃんのとなりでちゃんとお祈りしてて偉かったねえ」

 オハルは、うん!と誇らしげにうなずいた。息子のアキヤがすかさず言う。

「おれも。おれもちゃんとお祈りしてた」

 トヨは「本当に?」と片方の眉を上げてアキヤを見た。

「私がちらっと見たときには、後ろで私と一緒に踊ってるように見えたけど」

 アキヤは「えー?」とわざとらしく首をかしげて、身体をくねくねさせた。巫子としての仕事が終わったトヨと、いつもより早く話が出来るのが嬉しくてたまらないらしい。

 リテはそれを笑いながら、水を汲みに行くために甕を背負った。

「ちょっと待って」

 トヨが言って、村長のところへ小走りに駆けていく。村長が指さしたところから、自分で、リテが背負っているものより少し小さい甕を出して戻ってきた。

「姉さま、だめだからね」

 笑顔で戻ってきたトヨに、リテはぴしゃりと言った。

「姉さまはここで待ってるっていう約束だったでしょう。だからフルナさんもお祭に参加するのを許してくれたのに」

「大丈夫よ、今はあっちで薬の相談に乗ってるみたいだから。今のうちに、ね」

 そのとたん、アキヤが大声で「父ちゃーん!」とフルナを呼んだ。オハルも一緒になって「父ちゃー!」と叫び、気づいたフルナは慌てて駆け寄ってきた。

「まったく君は、油断も隙も無い!いつの間にそんな甕を用意していたんだ」

 言いながら甕を降ろさせようとする。トヨは「だって」と唇を尖らせた。

「リテ一人に水を汲んでこさせるなんて、やっぱり可哀そうよ。真っ暗な洞窟を松明の灯りだけで進むのって、それだけでもけっこう疲れるのよ。足を滑らせて怪我でもしたらどうするの。ねえ、お願い。私も行かせて」

「だめ」

 フルナとリテの声が重なる。

「怪我をして困るのは私じゃなくてトヨ姉さまのほうよ」

「君は自覚してないんだろうが、今、君の身体は本当に体力が落ちてるんだ。つわりがましになって、まだ間もないんだから。今、疲れることをして、身体に悪い風でも入ったらどうする。身籠っている間は飲める薬も限られるんだぞ」

 薬師でもあるフルナの言葉に、リテも力強くうなずく。トヨは言い返すことが出来ずに、むっと頬を膨らませた。

「お前は昔からリテを甘やかしすぎる。このくらいの水なら、普段から担いどるだろう」

 そう言ったのはエナだ。「何よ」とトヨはエナを睨んだ。

「おばあちゃんだって、一人で泉の水を汲みに行ったことなんかないでしょう。今代の巫子が少ないのは誰のせい?もっと増やせば良かったのに」

「そんなもんはその時その時の森の運命だ。あたしに言われたって知らないよ」

 巫子長であるエナとこんなふうに会話ができるのは、森の中では唯一、孫娘のトヨだけだ。

 トヨの母も早くに亡くなったから、トヨはほとんどエナに育てられたようなものなのだが、昔からこの二人は喧嘩が多くて、トヨは「巫子になんかならない!」とたびたび家出を繰り返していたらしい。リテがエナの家に巫子見習いとして来たときには、トヨはそれはもう喜んで、本当の姉のようにリテを可愛がってくれた。

 今日も言い合いを始めそうな二人の間に、リテは割って入った。

「姉さま、大丈夫よ。お水を入れて歩くのは下り坂ばかりだもの。一人でも無事にお水を頂いてくるわ。姉さまはここで子どもたちと待っていて」

 でも、と言いかけたトヨの手を、両側からアキヤとオハルがしっかり掴まえた。

 行くよ、とエナが歩き出し、リテはその後を追って祭祀台から降りた。階段の上から心配そうに見下ろすトヨの両側で、「任せて」とばかりにアキヤとオハルが頼もしい顔をしてリテを見送っている。

「リテさま、いってらっしゃーい!」

 祭祀台の淵から、子どもたちや成人したばかりの年若い人びとが手を振っていた。後ろでは大人たちがエナに向かって手を合わせ、頭を下げている。

「いってきます!」

 リテは笑顔で合掌し、きびすを返した。

 頭上にのびる梢でも、若々しい緑が輝いている。



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