第2話 迷子 (生死不二)


 駅のホームに出ると、とたんに冷たい風がほおを刺した。

 どこを見ても人がひしめいていて、視界がふさがれている。そのボールプールのような人ごみのすき間をって、湊斗は奥へ奥へと進み続けた。

 途中で見つけた空き缶の回収ボックスは、ビニール包装ほうそうやプラスチックカップがねじ込まれて口が塞がれていた。エナジードリンクの缶を捨てようとしたのだが、仕方がないのでボックスの上に置いていった。

 ホームのはしまでくると、人が減ってずいぶん歩きやすくなる。床の案内表示を辿たどって、やっと立ちどまった時、突然、誰かに手をつかまれて身体が跳びはねた。

 振り向くと、瓶の底のようなぶ厚い眼鏡をかけた子どもが、同じように驚いた顔で湊斗みなとを見上げていた。その目が見事にまん丸だ。

「お兄さん、誰!」

 叫ぶように言って、子どもは手をひっこめる。

 ずいぶんせっぽちな男の子だ。わざとらしい仕草しぐさで腰に手を当て、湊斗をにらんできた。

「もう、びっくりさせないでよ!パパかと思ったじゃない!」

 ―――なんで俺に怒るんだよ

 湊斗はあきれて子どもをながめた。高そうなダッフルコートに、そろいのがらの毛糸の手袋と帽子をつけている。犬のキーホルダーがぶらさがった原色げんしょくのリュックだけが安っぽい。小学生くらいに見えるが、舌足らずな言葉と甲高かんだかい声は幼稚園児のようだった。

「お前、ひとりなのか。パパは」

「今探しているところなの!見たら分かるでしょ!」

 一瞬、イラッとしたが、それをぐっと耐えてやり過ごした。多少のことは軽く受け流すのが大人だ。湊斗は大人だ。

「ついさっきまで一緒にいたのか」

「うん。一緒にいたよ」

 子どもは自信満々に言う。

「パパとママとねー、ユウちゃんも一緒に旅行なの。ユウちゃんと一緒に遠くまでお出かけするのは初めてだから、ぼく嬉しいんだ。あ、ユウちゃんっていうのは、ぼくの弟なんだよ。まだ赤ちゃんなの」

 よほど気さくな性格なのか、先ほどとは打って変わって、いかにも幸せいっぱいという笑顔でいてもいないことを喋ってくる。

「一緒にいたのは、どのへんで」

 多少つっけんどんに言ったが、子どもは気にする様子もなく、「えっとー」と考え、手を打ち合わせた。

「思い出した!自動販売機の近くだよ!」

「遠いな!」

 最後に自動販売機を見かけたのはかなり前だったはずだ。

「さっきぼくね、自動販売機にワンワンパトロールの絵が描いてあったから見に行ったの。お兄さん、ワンワンパトロールって知ってる?テレビでやってるんだよ」

「知らないよ。その絵を見に行くのに、ひとりでパパとママから離れたのか」

 そうだよ!と子どもは元気よく答える。

「パパとママはユウちゃんのお世話をしないといけないから、ひとりで行ってきたの。ぼくはユウちゃんのお兄ちゃんだからね」

 得意げに胸を張っているが、そのお兄ちゃんが迷子になってちゃダメだろう。

「ぼくね、スマホでワンワンパトロールの写真をとって、すぐにママたちのところに戻ったんだよ。それなのに皆いなくなっててさ。仕方ないから探してたの。まったく、困っちゃうよね」

 なるほど、この子は迷子という自覚がないらしかった。

「お兄さんはどこ行くの?」

「俺?」

 園に帰るところ、とは言えなくて、一瞬口ごもる。

実家じっかに、帰る」

「ああ!それじゃ、ぼくと一緒だ!ぼくもじぃじとばぁばに会いに行くんだよ!」

 子どもはにこにこして、さらに嬉しそうにする。

「ぼくのばぁばとじぃじは兵庫に住んでてね、帰って来るときに大阪でテーマパークにも行くんだよ!ユウちゃんとぼくにね、大きなぬいぐるみを買ってもらうの」

「あー、そう。良かったね」

 幸せマウントかよ、と皮肉っても、きっとこの子どもは理解しないだろうが、さすがに子ども相手にそれを言うのはかっこ悪い気がして湊斗はだまった。

 園でも、千葉のテーマパークには招待しょうたいしてもらって何度も訪れていた。仲間たちと一緒に、その日のために貯めてきたお小遣いの残りを確かめながら、グッズを見比べたり、職員に相談したりして、真剣になって買うものを選んだ。

 児童養護施設じどうようごしせつといっても、規模きぼしつも様々だ。施設内で暴力がなくとも、管理的で人権が守られているとは言いがたい状況の施設もあると聞く。そんななかで、湊斗がいたほうま園はかなり恵まれたところだった。

あさの中のよもぎ」という言葉は、曲がって生える蓬も、まっすぐ伸びる麻の中で育てばまっすぐ育つように、環境が良ければ人も善人に育つという意味があるらしい。園長先生は、ほうま園において、この言葉は子どもよりもむしろ職員へのいましめなのだと言っていた。まずは大人がまっすぐ伸びなさい、と。正直なところ曲がっているとしか思えない職員もいたにはいたが、卒園した今になってみれば、園長先生の言葉はそれなりに効果があったのだと思う。

 だから湊斗の子ども時代は不幸ではなかった。幸せだったかとかれるとよく分からなくなるが、ともかく不幸ではなかった。そう思うのに、仲の良い家族を見ると、楽しかったはずの思い出が色あせていく。

 けれど落ち着いて考えてみれば、本当に何も問題を抱えていない家族なんてあるわけがないのだ。離婚する家もあるし、暴力がある家もあるし、きょうだいの仲が最悪な家だってある。ネットを開けば、そんな話はいくらでも転がっている。一見、良い家族に見えるように体裁ていさいを保っていても、一枚皮をはぐと、どこか壊れている場所があるものだ。「ずっと仲良く幸せな家庭」なんて、幻想でしかない。

 家庭内の問題を問題だと認識できるのはある程度成長してからだというから、今目の前でにこにこ笑っているこの子どもだって、まだ幼いせいで問題に気づいていないだけかもしれないのだ。

「というか、スマホを持ってるんなら」

 親に電話すればいいのに、と言いかけた時、男の子の首から下がっているスマホの画面が光った。

「おい、電話がかかってきてるんじゃないか」

「え?あ、ママからだ!」

 ぱっと男の子が笑顔になる。着信音は鳴っているのだろうが、周囲の喧噪けんそうに完全にかき消されていた。

「はい、もしもし!……ホームにいるよ!……えっと……ううん、階段もエレベーターも使ってない……」

 困ったように周囲を見回すその子に、耳打ちしてやった。

「三番線ホーム、九号車の乗車口」

 え?と聞き返す子どもに、今度はもっとゆっくり言ってやると、子どもはその通りに母親に伝えた。電話を切った子どもは、あからさまにしょんぼりしていた。

「すぐに行くから、そこで待ってなさいって」

 叱られた子犬のような様子に、思わず笑いそうになる。

「もう一人で親から離れるなよ」

 子どもは眉を下げながら、はい、と真面目に返事をした。

「今日、家を出る時にも、ママとパパから絶対に離れないって約束したんだ。すぐに戻ったら大丈夫だと思ったんだけど。また失敗しちゃったみたい」

 そう言っておおげさに肩を落としてうなだれる。

「あー、まあ、元気だせよ」

「ぼく、障害があるんだ」

 いきなり言われて、湊斗は返事に困った。

「そうなのか」

「そうなの。しえん学校じゃない普通の学校には行けるけど、でも、障害があるから、みんなと同じことをするにはみんなよりもっと頑張らなくちゃいけないの。勉強も運動も難しいし、失敗もみんなよりたくさんするんだよ」

「それは大変だな」

 もっと気の利いたことが言えたらいいのだろうが、会ったばかりの他人を相手に、たいした言葉は思いつかない。

 ほうま園に限った話ではないのだろうが、施設には何かしらの発達障害をもった子どもがけっこういた。子どもが大勢おおぜい集まっているのだから当然といえば当然なのかもしれないが、学校などと比べると少し多いかもしれない。

「でも、元気をなくしてちゃいけないよね!僕は世界の宝物だから、僕の笑顔でみんなを元気にするんだ!」

「自己肯定感がすごいな」

『まもなく四番線を特急列車が通過します。危ないですので、黄色い線までお下がりください』

 ホームにアナウンスが響いた。階段を慌てた様子で降りてくる女性がいて、踊り場で立ちどまって、ホームの人ごみに目を走らせている。

「お前のママ、来たかもしれない」

「えっ、どこどこ!」

 湊斗は子どもの脇に手を入れて、女性が見えるように持ち上げてやった。

「ママ!」

 叫んだところで声が届くはずもないのだが、女性はこちらを見た。その肩から力が抜けて、心の底からほっとした様子が遠目とおめにも分かる。子どもは降ろされるやいなや、すぐに母親のほうへ走っていった。

 途中、人にぶつかった拍子に、リュックにつけていたキーホルダーが外れた。その子どもによく似た、陽気な顔をした犬のキーホルダーは床をすべって、ホームのふちの点字ブロックにひっかかって止まった。

「おい、キーホルダー……」

 子どもはまったく聞こえていないらしく、呆れ顔の母親に無邪気むじゃきに抱きついている。湊斗は息を吐いて、キーホルダーを拾いに行った。

 ホームに特急列車が入ってきた。大きな生き物がえるような音をたてて、湊斗のそばを走っていく。

 すいません、と声をかけると、最前列にいた女性が気づいて、キーホルダーを拾ってくれた。礼を言って受け取った時、湊斗のすぐそばに立っていた男性が、後ろの人の荷物に押されてよろめいた。

 男性はそのまま湊斗にぶつかり、一歩、二歩と湊斗もよろめく。

 ―――やばい。電車が

 思った時には、ただ、衝撃しょうげきがあった。



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