モノクロームの春夏冬

西野ゆう

第1話

 ――春夏冬と笑笑ふ団子色もなく

 そう書かれた短冊が仏壇に添えられている。帰宅した季佳きよが気づいた、普段と違う風景の二つ目だ。その前に気づいた一つ目の違いは「お帰りなさい」の声がなかったこと。

 萌子の姿がどこにも見えない。季佳美に向けられた置手紙もなく、冷蔵庫に貼り付けられた小さなホワイトボードも白いままだ。

「どこ行ったんだろ、おばあちゃん」

 両親が海外で働く高校二年生の琴葉ことば季佳美は、祖母の萌子と二人暮らしだ。季佳美は今では珍しいゼンマイ式の柱時計に目をやった。時刻は昼の一時。三月に入って、学校も午前中で終わったり、休みだったりすることが多い。

「今日早く帰るって言わなかったっけ」

 季佳美は今朝の記憶を辿ったが、確かに「行ってきます」と言う前に、昼食は家で食べると伝えた記憶が鮮明にある。元々留守にすることがほとんどない萌子だったが、居ないものは仕方がない。季佳美は昼食になるものはないかと、冷蔵庫や戸棚の中を物色した。

「あ……そういうことか」

 シンクの下にある戸棚を開いた季佳美は、三つ目の違いを発見した。先日まで戸棚の奥にあった小さな樽が、手前に出されている。漬物石代わりのバネの付いた蓋は外され、普通の蓋に変えられていた。

 季佳美はその蓋を開けてみた。果肉の潰れた梅干が、空腹を抱えた季佳美の食欲を更に刺激する。季佳美はその梅干しが普通の梅干ではないと知っていた。一つ摘んで口へと運ぶ。

「ん、美味しい」

 口の中で蜂蜜の甘さと梅の酸味を楽しみながら、季佳美は冷蔵庫から牛乳を出してコップへ注いだ。そして一気に飲み干す。

「ああ、春だなあ」

 鼻の奥に残る梅花の香りを感じながら、まだ仕事から戻らない萌子のことを思い出した。

「そういえば、今朝元気がなかったような……」

 季佳美は空になったコップを洗わずに水を張っただけでシンクに置き、サンダルをひっかけて外へと出た。萌子が仕事をしていると思われる枇杷の樹の下の斜面へと向かうと、案の定そこで萌子の姿を見つけた。

 斜面には竹で組んだやぐらがあって、そこに乗せた細かい網目のシートに、先程まで梅干しと一緒に漬けられていた梅の花が、汐風を満遍なくその花弁に受けるよう広げられている。

 季佳美がついさっき摘んだ梅干は脇役で、主役はここに干されている花のほうだ。「昔は『花』といえば梅の花のことだったのよ」と言う萌子が作る花見団子には、この梅花が練り込まれる。季佳美にとっての花見団子は、萌子が作った梅花入りの団子だと決まっているが、団子に梅干しで漬けた梅花を使うのは萌子だけだと知ったのは最近のことだ。

 その萌子は、櫓の横に腰を下ろして眼下に広がる海を眺めている。

 泣いている――。

 その背中を見て、季佳美はそう思った。そのまま声を掛けずに家に戻ろうかと思った季佳美だったが、海を眺めたままの萌子が「おかえり」と言ったので、ゆっくりと萌子の横にしゃがみ込んだ。

 制服のスカートの裾を気にしながら隣にしゃがんだ季佳美を見て、萌子は溜息を吐いた。

「また着替えもしないで」

「だっておばあちゃんが……」

「家にいないから心配でもしたの?」

 確かにその通りなのだが、本人の口からそう言われると、なんだか季佳美は馬鹿らしくなったが、そもそもの胸騒ぎの原因を口にした。

「仏壇に置いてあった短冊。『色もなく』って、色が無いってだけじゃなくて、色も涙を流して泣くってこともあるのかな、とか思っちゃった」

 季佳美の言葉を聞いた萌子が嬉しそうに季佳美の顔を見た。季佳美にはやはりその目がいつもより潤んでいるように見えた。

「あれ、読んだのね。なんて書いてあったか、ちゃんと読めたの?」

「うん」

 季佳美は萌子に倣って海へと視線を動かした。

「あきないとえわらうだんごいろもなく」

 春夏冬は、花見団子の色だ。秋の色がないから飽きないという意味があると、季佳美は萌子から聞いたことがあった。

「よく読めたわね」

「だって、おばあちゃんの孫をやって十七年だよ」

「そう……。もう十七なんだね」

 季佳美は寂しそうにそう言った萌子の横顔を、そっと伺い見た。心なしか目じりの皺が深くなったように思える。季佳美が言葉を探している間に、萌子が再び口を開いた。

「季佳美は年々成長してるのよね。でもね、おばあちゃんはずっと変化がないわ。特におじいさんが逝ってから毎年同じことの繰り返し。一年前も、十年前も、二十年前も。……あら、二十年前はまだあの人も生きてたか……」

「私、大学も家から通える所に行くよ?」

「季佳美は優しいわね。でも、そういうことを言ってるわけじゃないの」

 萌子は季佳美の頭の上に手を置いた。季佳美も髪越しに感じた骨ばった手に、自分の手を重ねた。

「おばあちゃん、花見団子の作り方も教えてね」

「いいけど、まだあと二十年はおばあちゃんが作るわよ?」

「わかってるよ。一緒に作りたいの」

 季佳美はそう言って立ち上がると、握ったままの萌子の手を引いた。

「その前にお昼ご飯! もう、お腹が鳴りっぱなしなんだから」

「はいはい。やっぱり季佳美はもうちょっと成長しなくちゃダメだわね」

 掛け声とともに立ち上がった萌子の背中を潮と梅花の香りを含んだ春風が押すと、その中に亡夫の声を聴いた気がして、萌子は涙を溢した。


 今年も季佳美が作った花見団子が仏壇に供えられた。

 艶やかな赤、白、緑の団子の奥で、モノクロームの団子を持つ萌子は変わらない笑顔でそこに居る。

 この時期だけは、写真の中の萌子と団子にも鮮やかな色が差しているようだ。

 季佳美は手を合わせた後、一葉の短冊を添えた。


 ――春夏冬と笑笑ふ団子色も差す 季佳美

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