第五章 闇をさまよう繋ぎ目 The patch in the Dark 

第五章 闇をさまよう繋ぎ目 The patch in the Dark 本文


――


 ――峻厳なるサイエイ(富嶽埼栄フガク サイエイ)――

 いつも同じことを思い出している。

 初めはただ、勧められた道を歩んでいただけだった。証券会社に働く父、教育熱心な母。当然の如く受験に向け、努力を続ける小学校。中学校。高校。大学の六年間の中で、私は初めて世界を知った。医者の世界、都市の世界だけを見てきた私にとって、医療の不足した現場、貧困地域と言うのは今の自分に言わせれば、見た事もなければ、想像することもなかったと言える。そこまでは、ただの一枚の写真の情景に過ぎなかったんだ。

 だが、写真を見ている時でも、そんな世界が地続きであるかどうか、ほんの少し、知りたかった。今思えば、それは『渇き』だったのだろう。研修を終え、直ぐに私は貧困地域を駆ける医師の一人として、不足、不全、不利の場で一刻を争う日々を送った。

 数えきれない患者。

 数えきれない犠牲。

 数えきれない救えた世界。

 後ろを振り向く時間さえもない。

 渇きはまだまだ、満たされない。

 そんな中、私は『奇蹟の医師』と呼ばれる、変わった男に出逢った。


 その男は紙袋を被り、無口で、筆談を必要としていた。私は専門医ではないが精神的なストレス、トラウマからくる失語症の一種であることは分かる。また、彼は私と同じ団体には所属せず、フリーで国々を渡り、医師免許を持たずに、外科医療をすることもある、所謂【闇医者】であったが、彼を捕らえる証拠はどの国も持っていなかった。それは、彼はメスや注射器を使うことなく外科医療を完遂する点にあった。

 彼は私と初めて会った時は精神科医を自称し、医療行為として、カウンセリングを行った。過度なストレス下にある人々をカウンセリングのみで快方へ導く姿は、奇妙なほどに淡々としており、特別なカウンセラーであるようには思えなかった。だが、患者は回復した。

 また、私は彼が外科医療を行っている姿を偶々覗き見てしまった。十分な施設が用意できず、病院の手配も後に回された患者の回診にその家に訪れた際に、彼は患者を紋章の中に寝かせ、手に何も持つことなく、メスを引くような動作をするだけで執刀し、外科手術を行っていた。それは正に魔術。メスのない執刀、鋏のない切除、糸のない縫合。私はそれを見て以降、ことあるごとに彼のその魔術的な医療行為を盗み見て、そのメカニズムを探った。紋章の意味、彼が医療行為を行う前の呪文。内科医療の際の各種呪文や手の印。その一つ一つを狂気的なまでの執念で、私は調べ尽くした。


 その日々の中、突然、彼は失踪した。

 後に残ったのは、呪医の知識を得始めた、一人の医師。そして、間もなく。私は『隠者の薔薇』によって体系的な呪医の知識を得た。

 より多くの患者の為に。私は呪医となった。

 そして今なお、私は渇いている。


――


 ――〇――

 2022年3月24日18時25分、イスラエル、エルサレム、『隠者の薔薇秘密神殿元老会議講堂』にて


 「――以上が評議会から『秘匿されたる知識(ダ・アト)』への指令の全てだ。第666号作戦においてこれらの指令を履行せよ。なお、この指令は『至高の三無』による『慈悲(ケセド)』のゲドゥラー師に与えられた預言を基に、『勝利(ネツァク)』のカリオストロ氏を中心に策定されたものだ。作戦の総指揮においてもカリオストロ氏に一任されている。元老院の承認を以て『秘匿されたる知識(ダ・アト)』はこの指令を忠実に履行するように」


 暗闇の中、円卓を囲む十の影はその中央に映写される顔の見えない、スーツの男の姿を睨む。

 「了解。偉大なる至高の三無、そしてその目標の為に」


 『秘匿されたる知識(ダ・アト)』と呼ばれた男はそう語り敬礼を行う。


 『偉大なる至高の三無の為に!』


 元老院の十の影は全員同じく立ち上がり、そう言うと敬礼を行う。映像は消え、全員が席に座る。


 「……カリオストロ……。彼は我々に本当に『勝利』を齎すものか……それとも……」


 「南極卿との戦争は今回で20回目、だが【奴】が現れた事は一度のみ……。その一度の回は、今回の様に『至高の三無』の預言に邪魔が入ったのち……。『真なる鍵』の預言があった!」


 「あくまでも文献上での記載だ。本当にそのような次第であったのか、また南極卿が現れたのが事実なのかも不明であろう?」


 「彼奴は文献上にも記憶の上にも名称以外を残すことは不可能。全く異なる形容のみが伝えられる存在。この情報を掴むことさえも我々の研究機関のみならず奴らの研究機関の情報を必死で集めることでやっとつかめたのだ……。奴の存在への確信は不可能と言える」


 「『来るべき最終戦争』……。一体、幾度、我々がそれを挑み、魔界の各特別指定級術師に軍を壊滅させられてきたと思っている? このような無駄遣いは……」


 「貴様、『至高の三無』を疑うのか?」


 「背教者か?」


 「裏切りか?」


 「異端か?」


 「……いや、その、違う。ただ……」


 「口には気をつけることだな。たとえ元老院議員であろうとも」


 『至高の三無への疑いは万死に値する』


 「裏切者は『触手供物』か、『男爵の贄』か、『結晶化』か……」


 「私は、まだ、その……」


 「『ピラミッド』を持ってこい。新入りに『至高の三無』の畏怖を教えねばならない」


 「やめろ、私は、私は評議会新月党の代表も務めたのだぞ? その私が背教者など」


 「そんなものは関係ない。発言一つで貴様の命は危ぶまれる。ここはそう言う場所なのだ。だが安心しろ、『至高の三無』は飽きられやすい方だ。少し貴様を弄べば、直ぐに捨てて別の場所へ行かれる……そうでなければ貴様は死ぬがな……。クックックック」


 「カッカッカッカ……まあ冗談はそのくらいにしておこう……。これに懲りたら、至高の三無を悪くいうのはやめることだな。極刑を処すことはないが……。我々の根幹にかかわる存在だ……」


 「はっはっは、驚いたお前の顔ときたら……」


 「あ、ああ、失礼した……。出過ぎた真似だったな……」


 老人たちの笑いが会議室に響く。その中には机の下でこぶしを握り締める者が数名、座っている。薄氷の上で愛想笑いと冷笑が交差していることを彼らのほとんどはよく知っている……。


――


 2022年3月22日13時12分、東京都千代田境界区神祇寮宇美部篤郎葬儀会場にて

 宇美部来希:雨が降っている。父さんの葬式会場の裏口、階段に腰掛けて僕はぼうっとそれを眺めていた……。後ろの扉が開く。歩か。


 「来希……」


 憐れむような目を向けないでくれ。僕は背を向けていても君の表情がわかるのだから。


 「歩……」


 「ごめんな、遅れて」


 そう言って、歩はわざとらしく首を掻いた。その動きは少しぎこちなく思えた。歩にそんな癖はないから……。あいつも堪えているのだろう、わざと気丈にふるまって……。恩人である父さんが死んだ。いや、恩人どころではない、僕と同じ、あいつにとっても、彼は父親だった。そして僕らは……。


 「今月は違法団体の活動が減った代わりに、各所の封印が妙に揺れていてな……。それの確認と封印強化で忙しくて……」


 歩は続ける。


 「僕の分の仕事も、やってるしな」


 僕は歩の顔を見ずにそう吐き捨てた。会場の裏口、誰もいないこの場所でも、今の僕では彼に顔向けできない。


 「……それは……」


 「いや、いいんだ。お前がそうしたいと言ったんだから。僕にそれを拒否する権限はない」


 僕の力は君に及ばない。


 「そういうことじゃ」


 「じゃあ、なんだよ」


 どこまでも僕の弱さが憎い。歩は強い。僕は弱い。嫌というほど知っている世界の理。努力の差も、才能の差も、生まれの差も、全て、よく知っている。


 「ほら、お前の怪我も万全じゃないだろ、あの三人組がリハビリ手伝ってくれてるし……」


 歩は真っすぐと僕を見てそう言った。心配そうな表情を僕に向けている。向けられた瞳、眉間に寄った皺、傾げられた首、固く結ばれた唇……。僕は直ぐに眼を逸らす。


 「ああ……そうだ。……済まない。取り乱したな……。もう、十分だ」


 僕は俯いてそう言う。歩は僕の肩に手を伸ばすが、触れることはない。

 お前はいつも、僕に気取られないように、気遣いを回す。

 そこも僕は負けている。


 「そうか……。来希」


 ただ僕はお前の隣に立っていたいだけなのに。


 「何だ」


 僕にその資格はない。


 「その……いや、何でもない……。会場に戻ろう」


 叶うなら、僕はその資格を。


 「……そうか。ああ、戻ろう」


 全てを壊してでも手にしたい。


――


 ――〇――

 2022年3月31日19時21分、日本海、地下200m地点、潜地艦『アレッサンドロ・ディ・カリオストロ号』にて


 「……本当にこれは……ただの呪物なんですよね?」


 峻厳なるサイエイは勝利のカリオストロにそう伺う。その手には木箱が抱えられている。


 「ええ勿論、秘匿一課を呼び寄せるための只の撒餌、大した効果はございませんが、一度箱から出すと一気に魔力を放出してしまうので、ご注意を。使い終わってから現地でお開きください。そうでないと魔力の残滓があなたに残ります。ただでさえ、ここでもこれだけの魔力を放出しているのですからね……」


 「……そうですか。まあ、今までの協力から疑うことはありませんが……」


 「ええ勿論……。では、サイエイ氏。ご武運を」


 カリオストロは笑顔でサイエイにそう言う。


 「ええ……。負傷者が出た際はご連絡を。直ぐに行きます」


 「大丈夫ですよ、サイエイ氏。我々はあくまで特殊工作班。軍が突入するのはしばらく後です」


 「……戦争になれば敵味方多く負傷するでしょうから、その際は直ぐに向かいますよ」


 「ええ、そうですね」


 「それでは……」


 白衣のサイエイは箱を抱え、エレベーターホールへ向かう。ブリッジにはカリオストロ、ゲドゥラー、ジュンの他、トロネゲのハゲネを筆頭にカリオストロの私兵が整然と並んでいる。


 「さあ皆さん。我々の勝利の日は目前です。全ての駒、全ての筋書きが、偉大なる至高の三無の元で動いています。今回こそが『来るべき最終戦争』その真実の日なのです。4月1日。我々はこの手で至高の三無を顕現し、我々はこの目で至高の三無の御姿を拝み、我々はこの足で勝ち取った大地を踏みしめるのです。我々は魔界府を新しい秩序で染め上げる! 至高の三無による整然とした勝利の世界へと染め上げるのです!」


 ブリッジ上部に取り付けられた三つの大モニターにはそれぞれの勢力を代表する実力者が映し出されている。

 中央のモニターは『秘匿されたる知識(ダ・アト)』のヘブライ語と紋章のみが映り、向かって右側のモニターはそれぞれ安部家、土御門家、幸徳井家の家紋が示された画面に分割されている。向かって左側のモニターには神祇寮の紋章が映し出されている。

 カリオストロはモニターに向け謝辞を述べ始める。


 「協力に応じてくださりました『青き血の新秩序』の皆さま、そして評議会から派遣された『秘匿されたる知識(ダ・アト)』の御仁、この場を借りまして、改めて感謝を述べさせていただきます……。さて、では皆様方、確認事項がございましたら何なりとお申し付けくださいませ」


 『……では、私から良いかな』


 「はい、神祇寮の『青き血の新秩序』代表者様」


 『正直私は、急な抜擢だったもので本作戦の詳細を聞いたのも先日なのだが……。君たちが我々神祇寮の『新秩序』に求めることは本当に【無い】のか?』


 「ええその通り、我々はあなた方の『目的』を達成してもらえばそれでよいのです。もっと言えば、我々はあなた方が戦争中に暴れてくれればそれでよいのです。それが我々の求めることですから」


 『……了解した。我々神祇寮は『青き血の新秩序』としての使命を果たす』


 「ええ、そのようにお願いいたします……。それでほかに質問は?」


 『伏魔殿の『新秩序』を代表して私から質問させてもらおう』


 「はい、土御門家代表者様」


 『今回の我々の真の目標は【対象〈賀茂瀬里奈〉の抹殺】なのだが、そちらの作戦要項には【対象の封印】に留まり、手を下すのはカリオストロ氏になっていることだ。これついて理由をお教えいただきたい』


 「それは単純明快、あなた方では殺せないからです。相手は特異指定存在でしょう? 封印が関の山。あなた方の力では、たとえ相手が丸腰で動けなくとも殺すことは絶対にできない。そう断言できます」


 『……では『抹殺』を試してもよいと?』


 「ええ、やってみたくば、どうぞ、いくらでも。特異指定存在は、そんなヤワな基準ではありませんのでね」


 『その通り……。特異指定存在に立ち向かえるのは最低でも特別指定級術師。二級や一級程度をそろえたところで、かすり傷ひとつ負わせられないよ』

 

 神祇寮の紋章が光る。


 『……新参者の神祇寮は黙っていてもらいたい、いくらトップと言えど、我々はあくまで対等な協力関係だ』


 土御門の代表者がそう述べる。


 『ふっ……そっちにも特別指定級はいないだろ』


 安部家の家紋が光る。


 『はっは……神祇寮には申請していない術師は何人かいる。この短期間で一気に覚醒した者もな……引き入れるさ』


 『なんだと?』


 安部家の代表者は怒りをにじませながらそう言い放つ。


 『……安部家は黙っていてください。……失礼しました』


 カリオストロは扇で口元を隠しながら笑う。


 「フフフ。いえいえ、気にしておりませんよ。こうして伏魔殿と神祇寮が、ある程度の協力関係を結ぶことは、あまりないというのは私も承知しております故」


 『ありがとうございます。……こちらからの質問は以上です』


 「ええ、では、質問は他には……ない様子ですね。ではブリーフィングは終了といたします。協力者の皆様は作戦開始までにご準備を……」


 モニターの画面が消える。


 「ヤレヤレ、ナカナカの面子が集まったものダネ」


 栄光のジュンはふわふわと空中に浮遊し、寝そべってそう言う。


 「軍はトンネル式の『孔』を利用するようだが、魔界府では先の『神聖』の件で周辺領域の警戒態勢が強められておるようだ……。我々が突入するまで奴らは入れんな」


 そう語るゲドゥラーは空中で座禅を組み、瞑想の形を採っている。


 「問題ありません。全て想定通りです。私の私兵アバンチュリェが先方として攻撃を行い、魔界府を一気に混乱させ、更に軍が入ることで事態を混沌とさせる算段です……。その先は……」


 「ワタシたちの出番ダネ」


 「儂も協力はしよう」


 「ふっふっふ……実に心強い……。これだけの戦力ならば軍による同時襲撃などよりもずっと確実に、魔界府を占領できましょうぞ……」


 黒鋼の艦は静かに海を越え、東の不落の大地へ潜入した。


――


 2022年4月1日7時12分、魔界府黄泉平坂市黄泉区霊魂流留街、民主社会党組 合会館にて。


 「じゃあ、金剛さん、行ってきます」


 ――鳥羽或人――

 今日は、金剛さんは午前休で孤児院に向かうそうで、僕は一人で秘匿課に出勤する。


 「ああ、鳥羽殿、気をつけてな……」


 金剛さんは何か用事があるのか、そう言った後すぐに奥の部屋へ向かっていった。

 僕は外に出て、集中して印を結ぶ。金剛さんは僕に呪文詠唱の練習をしておくように言っていた。何事も慣れが重要だとも。それもあって出勤時は空中浮遊術を使うようにしている。直ぐにバテてしまったり、動きが遅すぎたりしていた時期も過ぎて、僕はもうこの術にかなり慣れてきた。

 ここまで空中浮遊術に慣れるとは一か月前には思いもしなかったものだ。何か道具を使って浮遊してもよいのだが、ベアトリーチェさんはそういうのを使っている様子もなかったので僕も何となく、素手で浮遊することを選んだ。


 『翼もなく、空を舞い、信仰もなく、生きながらえ、それでも人だと嘯いた』


 僕はラテン語の呪文を唱える。文法が複雑だが、詩形はかなり自由で音律もよいこの言語と呪文はベアトリーチェさんから教わった。何でも彼女の故郷に伝わる古い歌の一部だそうだ。

 空中浮遊、ヘルメス、蜜蝋の翼、アポロン、鳥、反重力。空中浮遊術の構成は、自身の周囲に薄い境界術の膜を張り、その内部を重力と反発する力学状態とすることで少しの操作で空中を、泳ぐように浮遊できるという仕組みになっている。重力・大気圧を自動的に感知しそれに合わせた反発力を生み出す術式であり、仕組みとしては宇宙における疑似的な無重力状態が発生するのと似ている。


 僕の身体はふわりと浮かび上がる。僕は住宅街を下に見ながら、魔界府の中心である府庁の方へ進む。

 飛行機から見る景色の様に家々は小さくなっていく。空中道路をすぐに追い抜き、更に上へ、浮遊車両は空中10メートルから30メートルの間にある空中道路での走行が義務付けられているらしい、有馬さんはよく無視しているが。生身で浮遊する人は結界に触れなければどう飛んでも基本的に自由らしく、僕は住んでいる『霊魂流留街』を少し眺めながら、黄泉区をゆっくりと抜ける。……ゆっくりと言ってもかかった時間は十分程度だが。


 黄泉区は住宅街や暗い商店の通りなどが多い。少々治安としても良くないそうだが、金剛さんのおかげもあってか寺院の周辺では事件がほとんどないようだ。なんでも、金剛さんが見かけた暴力団員やギャング、街の不良と言ったものまで全員片っ端から殴り飛ばしてしまうためらしい。

 ちょっと怪しげな人物に対して金剛さんが、少し煽る様な態度で対応するのはそのためなのかと納得してしまった。金剛さんは常にニッコリとした笑いを浮かべているためか、柔和な印象を受け、話しぶりも理知的かつ温厚だが、やっぱり良くない大人なのかもしれないと何度もハッとさせられる。


 そう思いながら進んでいくうちに、黄泉区を抜け、黄泉平坂区の中央台が見えてきた。周辺の平地はオフィス街となっており、北の桃源区を抜け高天原区まで続く一直線の中央通りはずっとオフィスビルが立ち並んでいる。


 黄泉平坂区はその名の元である伝承の通り『三途河』という河が台地を避けて中央に流れているが、幽霊話は少ない……。というか霊魂は当たり前すぎて怪談にならない。どうも自然に霊魂が発生するというのは秘匿課が出動する案件らしく、単なる事件として捉えられるようだ。

 むしろ呪物による怪談の方が、人気があると秘匿二課の山川さんが教えてくれた。呪物による怪談は現実味がある方が怖いから、ということらしい。確かに身近に呪物や魔術が込められた道具がある生活の中で、人を簡単に殺せる呪物が存在すると言われれば現実味は世俗のそれとは比べ物にならない。前に春沙さんの呪物を見せてもらったが、トランプ一枚一枚に様々な地域の神が召喚できる術が刻まれ、更に春沙さんの手によればカード自体が鋭利な刃物以上の切れ味を持つというので、ちょっとした恐ろしさを手に持った時に感じた。


 そうこうするうちに目的地だ。中央台の中心にある大きな鳥居を組み込んだ府庁の建物、その入り口付近に降りて、僕は府庁へ入る。階段の方を見ると春沙さんが丁度、上から降りてきて地下階へ行くところだった。


 「オヤ、鳥羽君。Hello」


 「おはようございます。春沙さん。もうお仕事ですか?」


 「ああいや、ちょっと一服ね……。琉鳥栖とハルト君がもう仕事場に居るよ。あいつ等、徹夜してた癖にギャーギャーうるっさくて」


 琉鳥栖さんとハルト君は技術者として一緒に働いているようだが、終業後も残って勝手に何か兵器や道具を日々作っているようだ。週末は琉鳥栖さんが一人で病院の方へお見舞いに行っているらしいことをハルト君から聞いた。


 「仲が良いようなら何よりですね」


 「そうかな? 割とマジの喧嘩に見えるがね……。お互い言い含むところも多いように思えるし……。おっと、俺はもっと下に用があるから、それじゃ、鳥羽君……。がんばれよ」


 「? あ、はい……」


 春沙さんはそう言って階下へ降りてゆく。下の階は物品の一時保管庫や留置場があると聞いたけれど、何の用だろうか? 春沙さんは毎日、様々な物品を回収しているようなので資料作成の為の確認や見回り……。という事なのかもしれない。


 僕はそのまま事務室へ入る。事務室では琉鳥栖さんとハルト君が言い争っていた。


 「だから、この術式を組み込む場合はこの条件設定のコマンドを外しちまった方が効率的に動くし、コードもシンプルさが保たれるだろ。これを無理に生かそうとするからいつも判りにくくなるんだよ」


 「シンプルシンプルうるさいな、こっちの方が効率的だろ、元からある術式と組み込む術式の繋ぎ目がわかりにくくなるが、その分、介入される心配がなくなる」


 「介入だぁ? 刻印式の魔術結合で介入されることなんざ、聞いたことねぇ! 整備しにくいだけじゃねえか? それでなくてもアンタの機械を整備できるのは、俺以外にほとんどいねえんだよ。おかげでこっちも眠れねえし、ある程度はシンプルに作らねぇと運用コストが高くなりすぎて意味ねーんだよ!」


 技術的な面での言い争いがかなり熱を帯びている。というか技術的な面での話し合い以外で彼らが話しているところを見た事がない。ハルト君の救出以降、琉鳥栖さんがハルト君の面倒を見ているようだが、一体どんな生活なのかちょっと想像できない。


 「……おはよう或人……お前ら朝からやかましい!」


 出勤してきたベアトリーチェさんが二人を叱る。二人はにらみ合いながら作業へ戻る。作業に戻れるのはちょっと不思議だ。作業に支障がないのなら何で言い争っていたんだ?


 「おはようございます。ベアトリーチェさん」


 「ああ……或人、今日は森と物品封印の任務に出てもらう。詳細は資料に載っているが……。お前の封印術の研修も兼ねている。今回の任務では戦闘は発生しないと思われるが、呪物・魔術物品はその魔力量以上に、術の性質が厄介なことが多い。軽率な行動は控えろ……。特に自らを犠牲にするような行動は……」


 「はい、わかってます……」


 「……即死の罠があると思え。お前の死体なんて見たくない」


 そう言って僕は資料を渡された。京都の山奥、ここからそう遠くない位置の村落で『強度:メガトン級』の魔力を観測、黙示録級魔術物品『サピエンティア・オクリースのピラミッド』と類似した魔力観測波形から同物品の欠片である可能性が高く、魔道具として加工され、特殊な魔術が使われている可能性を考慮し秘匿一課の封印師・呪医:森水都と特異指定存在:鳥羽或人が担当者として指名された……。

 資料を読んで、要点をまとめている内に森さんが出勤してきた。


 「おはようございます」


 特殊な機械音声ですぐに分かった。


 「あ、森さん、おはようございます。あ、今日、僕と森さんで任務みたいです。これ、資料です……」


 森さんは資料に目を通した後、僕を向く。バケツのような被り物のどこで見ているのかは全く不明だが顔は僕の方を向いている。


 「鳥羽さん、移動の方は私の車で大丈夫ですかね」


 「ああ、ええ、問題ありませんよ」


 「では、私は準備するので、駐車場で待っていてください。直ぐに向かいます」


――


 ――〇――

 2022年4月1日9時15分、隠者の薔薇、東アジア支部地下梁山泊にて


 ――王冠のヨトゥム――

 中国魔界省の切り崩しには各地方に分散された地域拠点を抑えるのも重要……。しかし【仙界】内部の中央省庁を攻撃しなければこの広大な土地を手中に収めることは不可能だ。前回の襲撃以降、中国の特別指定級術師が省庁に集まりつつある……。黄金の教示のメンバーとして私と兄者が出張っているが軍には特別指定級と戦える者は少ない……。魔道具……。いや、呪物を利用したいところだが『アレ』は制御が出来ん……。


 「ヨトゥム様。理解(ビナー)のヴィクトリア様からの緊急連絡です」


 作戦指令室に音もなく現れたギーゼルヘルが報告する。


 「何? ……直ぐにつなげ」


 「はい。映写します」


 ギーゼルヘルが掌を差し出し、その上空に映像が現れる。そこには理解のヴィクトリアの姿が投影されている。


 「呪物管理局からの報告が先ほどありました。『サピエンティア・オクリースのピラミッド』が評議会の承認によりカリオストロによって持ち出されたとのことです」


 「『ピラミッド』を? あれは最重要禁止呪物だ! 黄金の教示の会議によって査定しなければ……。ミハイルは何をしていた?」


 「持ち出されたのは本日、指令も、勅許も本日付けで、ミハイルはアフリカ支部の支援のため不在でした。また、ゲドゥラー師が受け取りに来たことで局員も止めることができなかったようです」


 「ゲドゥラーが……。カリオストロは今……」


 「不明です。移動手段がわかっていません。彼を尾行していた諜報員の情報によると邸宅から出た形跡はないそうですが……」


 「いや、もう既に奴は日本にいるだろう……一手遅れるのは仕方ないか……」


 「如何いたしましょう。日本での作戦の中止は……」


 「作戦箇所が減れば南極卿の介入による潰走の痛手が増える。ただでさえ奴が出張れば勝ち目はゼロになるのだからそのリスクは負えない。それにカリオストロが向かっていると目されている日本魔界府には金剛破戒居士や有穂歩、賀茂瀬里奈、鳥羽或人といった特異指定存在が集中している、カリオストロの一派がぶつかれば、そ奴らに対しても勝機が生まれよう」


 「ではこのままで……?」


 「ああ、計画に変更はない」


 「はい、では引き続き各地域での監視を続けます」


 映像は切れた。ギーゼルヘルは一礼して指令室を出て行く。

 カリオストロの計略の大詰め……。一体何が待ち構えている? 我々への妨害がぱったりと消え、奴らの手の者が全て去った。奴とともに……。

 まさか逃避? いやそれはない。何らかの方法で奴は軍勢を日本魔界府へ輸送している。我々も知り得ない方法で……。奴の輸送手段……。奴は、ナチスと繋がりがあった。【地下潜航技術】か。秘密裏にナチスの技術を盗むか、取引で得ることで奴は自由な移動手段を手にしていた。ナチスはそのためだけの人員か……?

 ナチスの壊滅により我々は助かったが。奴らも?

 奴らの目的は不明だが日本魔界府への攻撃は我々と同じ……?

 何故日本魔界府に拘る?

 日本魔界府の特異性はあの鳥羽或人、そして特異指定存在の複数保有。今更誘拐を目的にしているというのか?

 ナチスが失敗したことを今更?

 同じような手で?

 ……それはあり得ない、絶対にありえない。


「ヨトゥム。大丈夫?」


「ああ、兄者。いや、少し考え事を、な……」


 心配げな目線を私に向ける。


 「ヨトゥム……。ここでの特別指定級術師との交戦以降は君、日本魔界府へ行きなよ」


 「それは……。いいのか?」


 「ああ、ここは本来、僕だけでも十分……。カリオストロの事で僕は妙な感覚を覚える。ゲドゥラーほどじゃないが、予知能力がそう言っている」


 「私も同じ考えだ。奴は、何かとんでもないことをしでかそうと、準備してきた節がある。そしてそれは、あのゲドゥラー師を完全に奴に寝返らせるほどのモノだ」


 「それ、本当かい? ……なら、尚更、君は向かわないといけない」


 「ああ……当面の問題は、ここの特別指定級術師を、如何に早く釣り出すか……。だな」


 私はパイプに火を点けた。作戦指令室の机の上には数々の地図と人員配置図が示されている。


――


 ――〇――

 2022年4月1日10時20分、滋賀県東部上空にて


 ――鳥羽或人――

 森さんの車は四人乗りの軽自動車で、後部座席には大量の資料が山のように積まれていたので、僕は助手席に座った。眼下には滋賀県から京都府にかけての森の様子が映り始めている。森さんは無口で、あまり話すこともなく、僕は外を見て暇をつぶしていた。


 「……良い天気ですね、鳥羽さん」


 「あ、ええ、そうですね。昨日雨だったし、こういった任務の日が晴れると良いもんですね、空飛んでるわけですし」


 「ええ。本当……」


 「……他の皆さんはパトロール任務が多いようですね……」


 「ああ、最近、警戒を強めているみたいですからね……。僕の誘拐時にもなにか、襲撃があったそうですから……」


 「そうですね……」


 何か話したいのかな? と言ってもいい話題が向こうから降って来ないので、僕が気になっていることを聞くしかないな……。


 「ああ、その、失礼じゃなければ聞きたいんですが……。森さんの、その被っているモノってどこかに穴が開いてるんですかね? どうなってるのかなぁって」


 「ああ、これですか。これは普通のバケツです」


 ……バケツなんだ。いや、どう見てもバケツなんだが、その。なんというか。


 「へえ、バケツなんですか。えっと、じゃあ、その声は……」


 「これはバケツの中に音声ソフトを入れたスピーカーを入れておりまして、僕の口の動きと作られた魔術結合に合わせて発話してくれるように琉鳥栖さんに頼んで作ってもらったものです。失語症でして」


 「あ、そうだったんですか。いや、気づかなくって」


 「いやいや、別に気にされなくて大丈夫ですよ。聞こえにくかったら言ってくださいね、何パターンか声の種類もあるので」


 森さんはバケツの中の小さなつまみを回しているようで、声のトーンや高低が簡単に切り替わってゆく。本当に市販の音声ソフトを使っているようだ。


 「今のところ聞こえにくかったことはないですね、むしろ聞き取りやすいくらいですよ」


 「そうですか、それはよかった……かなり昔から声が出せない状態でして……」


 森さんはつまみを弄り元の声に戻した。仕草がそうなのか、少し悲しげに思える。声で示せない分、彼も努めて素振りで伝えようとしているのかもしれない。


 「昔からですか……。琉鳥栖さんに作ってもらう前は筆談とかですか」


 「そうですね。魔力で文字を書いて読んでもらうことはできるので魔界では問題なかったのですが、それよりも前は世俗でしたので……」


 「へぇ、もともと世俗にいらっしゃったんですね」


 「ええ、金剛さんと同じような経緯でこっちに入ったんです。元は違法術師っていう……。その金剛さんにスカウトされたんですがね」


 金剛さんが違法術師なのは案の定といったところだが、森さんがそうであったのは意外だった。それに金剛さんは秘匿課員のスカウトまでやっているのか……。もう何をしていてもあまり驚かない。


 「森さんがですか……。それは、ブラックジャック的な……」


 かろうじてイメージできる違法術師、森水都の様子はまさにそれだった。


 「ハハハ、そんなに名医ではありませんが……闇医者という点では一緒ですかね。私は、元々は言語学の方が得意だったのですが……。まあ、家が医療関係だったのでそちらの方の知識や勉強をそれなりに……。おっと、もうそろそろつきますよ」


 はぐらかした感じで森さんはそう言った。見るともう地面も近い。山奥にぽつぽつと家々が見える。あれが目的地か。車は世俗の空中では精神操作術により幻影で見えなくなっている……というよりも、正確には気にならなくなっている。なので、地上に降りて現れてもそこまで違和感はないのだという。


 僕たちの車は地面の道路へと降りた。山奥の道らしく舗装はガタガタで、本州特有の細い道だ。故郷の北海道や雪の降る地方にこのような道幅の道路はない。


 「見えてきました、名前は祁霧けむ村だそうですね」


 上空から見た通り人の行き交う様子もほとんどない寒村で、家も二十に満たない小集落だ。歴史自体は古いように見える。村に通じる道は非常に狭い他、一本しかないようだ。


 「村の人は……。あっ……あなたは……!」


 森さんは村の道に立ち、こちらを見る一人の男性を見て息を詰まらせた。その人は白衣を纏い、黒いシャツに赤いネクタイを締めた姿で、眼鏡をして、黒髪が後ろで一部縛られているのが特徴的だった。前髪も長い。そして何やら木箱を抱えている。木箱自体はしっかりとした作りと言うわけではないようで、何かの輸送用と思える様子だ。


 「埼栄さん……」


 彼はそう言うと車を出て、白衣の男性の元へ歩き出した。僕も車の外へ出る。

声のトーンは機械ゆえに一定だが、様子から動揺していることがわかる。森さんの知り合いか……? サイエイ? 珍しい、名前? 


 「【真なる鍵】鳥羽或人君……知っている筈だ。私の事は……。隠者の薔薇、黄金の教示『峻厳(ゲプラー)なるサイエイ』……。『国境なき呪医団』の管理者。そして森水都君の友人だ」


 ――森水都もり みずと――

 彼と私のたもとは、既に分かたれてしまった……。私の『答え』は、まだ、変わっていない。


 「前にも言っている筈です……。私は違法術師に戻るつもりはない」


 ――鳥羽或人――

 淡々とそう語る。白衣の男性も慣れたように手を広げ語り始める。少し呆れた様ではあるが、嫌味な感じはしない。黄金の教示、隠者の薔薇の幹部……。あの『栄光ホドのジュン』と同格の男……。違法団体だが、彼自身からは悪党と言った感じもしない、医者であるように見えるが……。


 「違法、適法……。それは君たちが勝手に決めていることだ。私たちがやっている事業は君たちのそれよりもずっと多くの人を救っていはずだ」


 「法治と民主主義に基づいた国連が認可した自治体の連合、それが私たち秘匿課の所属する魔界です。その魔界が無くなればそこの住人は」


 「我々も多くの人民と自治体を抱えている。民主主義に基づいてもいる。法治主義の考えも根付いている。国連常任理事国、ひいてはこの日本を含めた100か国以上の国家の中枢機関に協力者が多く在籍している……。何も違わない、ただ君たちは私たちのような大規模な慈善事業は少ない」


 信念に裏打ちされた鋭い瞳が森さんを見つめる。薔薇は違法ではあるが……。そこまで腐った組織とは思えない。彼の言うように本当に慈善事業をやっているのならば。……だがなぜ、わざわざ僕たちと対立するのだろうか?


 「私たちも医療の必要があればすぐに……」


 「君はここに医療のために来たわけではないだろう? 私は呪医を増やすために来ている……。この世界でも五指に入る呪医をね」


 「……」


 「君が我々とともに来ればより多くの人を救える。もう、その手から命を零さずに済むんだ。こんな先進国で君が働いたところで、世界の不均衡はさらに加速するだけだ……」


 不均衡……。それは確かに存在する問題だ、だが……。


 「意見を変えるつもりはありません……。私はこの仕事にやりがいを感じています」


 「……やりがい……。君自身を否定するつもりはない……だが……。いや、いい……。ほら、呪物だ、持って帰りな」


 サイエイと呼ばれた人は抱えた木箱を森さんに手渡す。森さんの細長い腕の中に木箱が収まる。


 「残念だよ……。至高の名医はここにはもういなかった……」


 そう吐き捨てた時、自転車が僕の前を横切った。村の住人だろうか、特に気にせず通って行ったが数メートル先で突然自転車から転げ落ち、地面でバタバタとのた打ち回った。


 『大丈夫ですか?』


 二人の医師は同時に、即座に駆け寄った。のた打ち回る男性は苦しそうに口を押えている。彼らが事情を聴こうとした途端、彼は口から大量の触手と目玉のようなものを吐きだした。


 「何だ、これは!?」


 サイエイさんが驚愕の表情でそれを見る。


 「呼吸は……。気道がふさがっているわけではないですね。大きい異物が胃から嘔吐として排出される症状……。呪術や魔術に類例は多いですが……」


 森さんは冷静に触診を始める。サイエイさんもまた直ぐに落ち着きを取り戻し、分析を始める。


 「身体変容術に思われるが……。身体に兆候は?」


 森さんは何かに気づき患者の腕をまくる。


 「……! ちょっと失礼……。右腕に急激な代謝が見られます。粘質のある体液と吸盤、こちらも触手化が始まっているようですね……。発熱はなし……。気持ち悪い感じはありますか?」


 「ハァ……ハァ……は、吐き気がします……。ウウッ」


 森さんは冷静に症状を分析し、患者を安全な体位へ運び、問診していく。患者は呼吸が浅く、苦しそうだ。


 「結合が見られないが……。あの箱か……?」


 彼らは地面に置かれた箱を見る。僕はサイエイさんに訊く。


 「え、中身知らないんですか?」


 「魔力量の強い呪物だとは聞いた。魔術的結合を見たが特に飛散するような様子もなく正常だったが……。何か条件があったかもしれない。渡して来た人間は……。くっ……。アイツを信じた、私のミスだ……」


 サイエイさんは拳を固く握りしめる。


 「とにかく、患者を屋内へ……。近くに診療所がないので車に積んであるテントを利用します」


 森さんがそう言うと、彼はカーリモコンを取り出しスイッチを押す。すると、彼の車のドアが開き、中からテントの骨組みなどが現れ、直ぐに大きめのテントが設営された。機材などが運び込まれる。簡易ベッドの上に患者を寝かせると、森さんは外で木箱を開け、中を確認した。


 「……これが『サピエンティア・オクリースのピラミッド』……。始めて見ますが……。伝承が本当なら、これが原因かもしれません」


 前に金剛さんが話していた『自然結界を破壊できる可能性のある呪物』の一つだ。


 「それはいったいどういうモノなんですか?」


 森さんが説明を始める。


 「サピエンティア・オクリースというのは世界中にごく少数の信者が存在する奇妙な宗教の神の名前です。由来も発生場所も異なる複数の宗教のはずが同一の存在を崇めているという奇妙な特徴があります。様々な儀式、しきたり、聖典がありますが、このピラミッドと呼ばれる法具は必ず、この神を崇拝する際に求められるものなのです。作り方は不明な点が多いのですが『神との交信』を通して得られるとされており、これは彼らが言うところには『神の難題』なのだそうで、強力な魔力を秘めている代わり、世界に厄災を振りまくと言う伝承があります。国連秘匿保障委員会では破壊、もしくは完全封印が義務付けられている呪物で、数十年に一度発見されると聞きます……」


 『神の難題』……?


 「災厄……。それがこの症状だと?」


 「恐らくは……。とにかく呪物の結合を確認しましょう」


 森さんは木箱から慎重に三角錐の黄金の物体を取り出した。日光を反射し輝いている上にその反射した光はプリズム反射のあとのように虹色に輝いている。よく見ると、その物体には瞳のマークと幾何学模様が全ての面に彫り込まれている。また、強力な魔力とその奥に複雑な魔術結合が潜んでいることも感知できる。全く不明な文字、アルファベットの他にも無数にそれが存在している。


 「これは……。ラテン語……。だが、それ以外はなんだ?」


 「サンスクリット語、象形文字、楔形文字? 甲骨文字……。わかるだけでも20を超える古代から現代の様々な言語が利用されていますね。意味不明なものも多い……」


 知識がなさ過ぎて僕には様々な模様がランダムにこの物体の奥に潜んでいるようにしか思えない。これは文章なのか?


 「ラテン語の部分は疫病を示す文章のようだ。どうもこれは疫病を生み出し拡散する術が根底にあるな。古代から現代まで呪いとしてはメジャーだが、必要な魔力と知識が桁違いだ、成功率の高い術師は古くは少なかった……。このラテン語部分が起点であるならここに介入するのはどうだ?」


 「これは……。いや、これは独立した魔術です。結合が患者に飛散している様子はどこにもない」


 完全に呪物は孤立状態にある。どれだけ目を凝らしてもここから結合の糸が患者へと跳んでいる様子は全く見られない。


 「僕にも見えません。恐らく隠匿術などはないと思います」


 「ならばどういう……」


 サイエイさんがうなる。森さんが何か気付いたように呟く。


 「これは……。ちょっと待っていていください」


 森さんが車から急いで自分の鞄を持ってきた。その中に入っていたタイプライターのような機械を取り出すとそこに何かを入力し、出力された画面を見ると、彼は鞄の中の紙にメモをしていく、しばらく後、彼はこちらを向き報告する。


 「DNA……。これはDNAです……。この結合の文字は全く不明な文字を多く含んでいますが、頻度分析などの暗号解析でわかりました」


 森さんが紙を見せる。文字とは思えない模様の羅列が丁寧にほぐされ、英語と数字による規則的な羅列へと変換されている。


 「この様子だと……。細菌感染か」


 サイエイさんがその羅列を見てそういう。


 「昔、細菌を創り出す術師と会ったことがあります。人間離れした修練と遺伝学に対する深い知識が必要ですが、人間にも可能でした。呪物にも可能かと」


 森さんが長い指で呪物をつつく。


 「細菌ならば、このDNA配列から細菌のタンパク質構成を特定し細菌のみを滅菌する方針で治療可能では?」


 サイエイさんは紙を読みながらそう語る。


 「私は経験から言って、それは最後にすべきだと思います。細菌の内部に術式が組み込まれている可能性が高いのです。この奇妙な文字羅列の後の文章はかなり長く、複数の言語にわたって説明されているのですが、それを虫食い状に翻訳した結果、遺伝子からタンパク質翻訳などを行った後にかなり複雑な指令が為されていることがわかりました。細菌単位の微小な結合を発生させているようです」


 「細菌レベルの結合だと?」


 サイエイさんが驚く。その後、近くの住居から叫び声が次々に上がった。


 「まずい、これは……。感染力が強いぞ。空気感染だ!」


 サイエイさんがそう言い、住居の中へ入っていったとき、森さんはバケツの中の装置の電源を一時切り、呪文を唱えたようだ。その呪文の息遣いの後、彼を中心に地面に焦げ跡が発生し、直線として100メートルほど直進したのち、それは円を描き、この村落をすっぽりと覆う結界を発生させた。結界が完成したのち森さんは音声機械の電源をつける。


 「密閉するだけの結界ですが、空気感染のレベルが予想以上でなければこれで大丈夫でしょう……。明らかに我々が発症していないコトは異常ですが」


 サイエイさんが住居から出てきて結界を見る。


 ――峻厳なるサイエイ(富嶽埼栄)――

 流石だな……。これだけの術式を即応展開……。やはり彼は黄金の教示に比肩する実力者だ。


 「その手掛かりを探るにはやはりこの起点だけでなく、細菌本体を感知する必要があるが……。細胞レベルの感知能力者は生憎、私の呪医団にはいないぞ」


 ――鳥羽或人――

 森さんはサイエイさんの話を聞いて僕の方を向く。


 「え? いや、僕は確かに金剛さんに細胞レベルの感知のコツは教わっていますけど、成功したことは少ないですよ」


 「でも、少なくとも一度は成功したのですね?」


 「……」


 やってみる、それ以外の選択肢はないようだ。人の命がかかっている。なら早くにトライして、エラーを重ねていく必要がある。とにかくやってみるしかない。


 「わかりました。とにかく早く始めましょう……」


 「鳥羽さん。こちらに……」


 そう言って森さんはテント内の地面に触れる。するとたちどころに地面に紋章が焼き付けられ、その紋章が光を放つ、紋章はとぐろ巻く蛇の杖と杯が中心に描かれている。


 「この結界は呪医結界を改良したもので、集中力を高める環境になっています。また、一時的ではありますが、集中力を高める効能をもたらす護符も付与しておきました……気休め程度ですがね」


 僕がそこへ入ると、世界は静寂に包まれた。全くの無音ではなく、心地よい静けさ。僕は目の前に倒れる人の身体へと集中した。……集中。戦闘時ではなく感知をより深めるときは、とにかく集中すること、ただ一点へ、ただただ微小な一点へ肩の力を抜きつつ、呼吸を忘れるほどに集中し続ける。彼の体外と体内の魔力の動きが捉えられる。それをもっと微細に見て行く。10倍、100倍、1000倍、10000倍、レンズ倍率を変えるように十の累乗の如く……。細部へ。人間の身体は魔力に溢れている。だがそれも微細なスケールで見れば間はある……。その中でもとりわけ奇妙な力……。波長……。これだ!

 この波長、この自然の中で、今までの人生の中で出会ったことのない波長。他の何ともにつかぬ孤独な波長を見つけた! そこにはロケットのような形の奇妙な物体と共に、深淵の様に長い魔術的結合が潜んでいた。


 「紙を……」


 僕のその声に、森さんは直ぐに紙とペンを僕に渡した。僕はそこで見たものを一心不乱に、正確に模写し書きなぐった。意味は分からない。だが、とにかく正確に写す。一枚二枚三枚、どんどん余白が埋まり、次、余白が埋まり次、と書き散らし、15枚目でようやく止まった。


 「……あれ? サイエイさんは?」


 「村の他の家を回って患者を診ています。この結合以外に分かったことはありますか」


 「……あの、本体、が他の細胞の核に自らの術式と何か、細いものを注入して、その細胞がみるみるうちに変質して剥がれ落ちていきました……」


 「その部位はどこですか?」


 「確か、肺胞?」

 

 「なるほど……」


 森さんはまとめられた15枚の紙を見ながらあの機械に入力と出力を定期的に行う。その間にサイエイさんが戻って来た。彼も何枚もの資料を持って帰って来た。


 「……どうだ?」


 「文字は全く意味不明ですが、一部解読可能な箇所がありました。暗号化されたラテン語文です。DNA配列の参照の部分と書き換えと思われる部分がそれに該当します。DNAのどの部分を参照しているのか……。難しい。判定はドコだか……」


 「私の方は患者と無症状者の情報を集めてきた。説明も済ませてきたぞ……。手荒なことはできるだけしたくはないからな……。ざっと40人分、年齢と性別はバラバラだが……。共通項が見られた。血液型だ」


 サイエイさんがカルテと思われる資料を振る。


 「血液型?」


 「ああ、AB型の村人は必ず無症状であり、O型、B型A型の村人が発症している……。O型は村人に関しては全員発症。A型、B型は一部無症状がいるが、容態の急変した患者もいる。私達には抗体があるのか発症していない、私はAB型だが森はO型だ。鳥羽君は……」


 「僕はどうも、菌自体が僕に近づくだけで死滅しているみたいです……」


 先程の感知で僕の周囲にある極めて強い魔力に多くの魔術的結合を持つ細菌が死滅していることが分かった。


 「……AB型とO型から生じる血液型はA型か、B型。AB型はあり得ない……」


 森さんが作業を進めつつそう語る。


 「その通り、私の仮説は、根源となる菌は二種、私のようなAB型血液を持つ人間の内部に生育している菌と森のようなO型血液を持つ人間にいる菌、この二種がどこかで交配し繁殖して感染しているのではないかという仮説だ。あまりこのタイプの細菌には考えられないが……。鳥羽君が他の菌を観測できれば立証及び反証ができるはずだ。確証を持ちたい、長い作業になるがな……」


 「……やりましょう、それでわかるのなら……」


――


 ――〇――

 2022年3月31日付、南極卿財団緊急全体会議資料

南極卿財団全体会議出席者

・南極卿執務室代表V・12号

・戦争管理局代表V・140号

・信仰根絶局代表V・666号

・金庫拡大局代表V・506号

・自己実験局代表V・69号

・記憶保管局代表V・263号

・財産浪費局代表V・46号


会議会場:なし

会議時刻:測定不能


南極卿財団全体会議緊急招集の理由

南極卿執務室代表V・12号による動議。4月1日予定される隠者の薔薇の世界同時多発攻撃の際、日本魔界府において南極卿信条第1条の侵害が起きるため。


南極卿全体会議の結論

 南極卿信条第一条の侵犯発生時は事前予定通り南極卿権限の一部解放・権限委譲を認定する。理由としては二つ、一つは直接介入は鳥羽或人という人間の成長を促すものではないため。もう一つは面倒くさいため。以上の理由から南極卿権限の一部である世界法則術の使用と最大魔力量の10%限定解放を認可。また、南極卿の宿主・鳥羽或人へその権限の一時的な委譲を認可。会議では全会一致で可決となった。


この資料の南極卿以外の閲覧を禁ずる。何見てんのよ、このヘンタイ!


――


 ――森水都――

 雪深い場所だった。私の故郷は、雪深い場所だった。一晩で家が埋まってしまうほどだ。人里からも孤立していて、祖母と、父と、母と、兄がいた。

 祖母は産婆と呪医を兼ねた存在だった。少し離れた村から連絡があればすぐに向かい、怪我や病気、お産を指揮した。今思えば的確な指示と確かな医学知識があったと確信できる。よくあるまじないや呪い、眉唾な術を試すような術師ではなく、今の私も扱うような現代呪術医療を修めたうえでの術だった。私はその知識をずっと後に、実家の本棚から知った。


 私が9歳の時、学校の冬休み、私の家族は旅行に出かけた、三日間だけの旅行。あまり遠出をしたことのない私には、他の土地は魅力的に映った。祖母も、父も、母も、兄も、久々の遠出を楽しんでいた。

 利用していたバスが運転手の居眠りで横転し、私と祖母が助かった。父と母と兄の死体を私は見た。祖母は彼が即死していたのを直ぐに悟り、私の怪我が軽かったのを見ると、直ぐに他の患者を診た。おかげで数名の命は救われたが、私はそれを不審に思ってしまい、口を利く方法を忘れた。


 その二年後に、過労と心労が祟ったのだろう。祖母が死んだ。

 祖母は私を常に気にかけてくれていたが、それに気づいたのは死んだ後だった。私はいつも、一歩遅い。

 私は実家を跡にする際、全ての本を持っていった。ゆっくりと、時間をかけて、様々な言語に渡るその書物の数々を読むうちに、私は高校、そして大学へと進学し、言語学を学んでいた。大学3年の時点で私は全ての本を読み終わり、幾つかの魔術を修めていた。そして、私は、思い出すようになった……。この力さえあれば、家族をもっと救えた。事故の時、祖母が私を魔術で守ったように。もっと私が早く……。

私は大学を中退し、医者を志した。それは祖母の呪医を継ぐためであり、もっと私が多くを救うためだった……。


 医療大学は最高峰でなくても良かった、医師免許、いや、そんな悠長にしていられない、もっと早く、もっと早く。そう私は焦り、医大に入り五年生の研修医期間の途中で私は姿を消した。もっと早く、全ての人を救うため。

 法や制度を無視し、あらゆる場所を渡り、医療の不足した場所で呪医医療を行った。奇跡の名医ともてはやされ、多くの表の医者に、それとなく、この呪医医療の技を見せ、この道へと誘引した。それは全体のための奉仕であると私は確信していた。

違法呪医として私は魔界で有名になっていた。


 私を狙い、多くの賞金稼ぎ、秘匿課、違法術師が私に攻撃や捕縛を試し、私は何時の間にか戦う時間の方が多くなっていた。人を傷つけないように戦うことはほとんど不可能だと私は思い、呪医の知識と技術を、人体の破壊や足止めに利用した。私はもう、完全に道を踏み外していたが、それに気づくことはなかった。


 私が見せた呪医医療を埼栄という有望な医者が理解を示し、彼の真っ直ぐな医療への道を見た時、既に私の心は自分自身の歩みに疑問を持っていた。彼のような歩み方をもしかしたら、あのまま、医大を卒業していたら……。私は彼のように人を救えたのでは? と。

 そして、その日、私は初めて気づいたのだ。私自身の医術の粗さに。埼栄との会話で、私は各種専門医療に関する最新知識などに不足が感じられた。私は知識の収集を怠っていたことで、一部不適切な処置をしていたことに気が付いた。


 その心の揺れを『あの人』は見逃さなかった。

 私を殴り飛ばした拳は、奇妙にも私の内部を傷つけることはなかった。私よりもずっと力のある魔術師ながら、人を壊さずに戦う術を知っていた。彼は言葉によって私を打ち負かし、拳の技術によって私の医療技術に勝利した。世界でも屈指の特別指定級術師、金剛破戒居士。

 彼は私が被っていた紙袋を破ることも、傷つけることも、脱がせることもしなかった。私の誇りを言葉で傷つけることもなかった。ただただ、彼は私の攻撃全てを受け入れ、私の疑念を鋭く指摘し、私は、ここでやっと気づいたのだ。


 ただ、目の前の人を失いたくないだけだったと。

 それが私の深い傷となり、執念となっていた。そして彼はそれすらもそのままでいいと語り、私に更生の道を幾つも示した。国際的な呪医資格を得たうえで、世界を渡ること。違法団体の慈善組織に入り、世界中に魔術を広めること。そして、彼と共に魔界府の秘匿課でじっくりと魔術と呪医医療を研究すること。選択肢はもっとあろうが、どの道を選ぶのかと彼は問うた。


 私の答えは彼と共に行くことだった。


 速さは確かに人の命を救う。だが、本当に大切なのは技術を研鑽し、安全な枠組みの中へ人を組み入れる事。孤独に世界を救うことは誰一人としてできない。あの金剛破戒居士でさえ、一人で世界を救おうとはしない。あの埼栄でさえ、多くの人と協調している。本人はそれを忘れているのかもしれないが。

 私はもう、早さを求め過ぎない。

 あの時の祖母の様に……。救える人を見極め、自らの研鑽を忘れずに、慎重に。

 より多くの人を。

 研究者としての道を歩む。

 それが今の私の答え。


――


 ――〇――

 2022年4月1日14時25分、京都府南丹市祁霧村にて。


 ――鳥羽或人――

 村人の無症状者、患者、そしてサイエイさんと森さんの体内の細菌に刻まれた術式を僕が確認したあと、森さんは解読を必死に進めている。サイエイさんは村の人々と話し合い、治療のための最善を尽くし、必ずこの原因を取り除くことを全ての人に説明して回っている。僕も患者のケアとして患部を冷やすタオルを変えて回ったり、容態が悪い人の介助などの手伝いをして回った。


 「それぞれの解読が完了しました」


 森さんが僕たちの前に瞬時に現れる。結界を使った移動らしい。


 「埼栄さんと私、二人の体内にある細菌は特殊なものらしく、症状を示す効果もないようですが……。私たちの肺胞の一部を変質させ空気中に細菌株を散布しているようです。一部不明な術式箇所がありますが、私たちのDNAから血液型の遺伝情報を採取していることがわかります。また、患者に見られた細菌の形は細菌が基本ですが、一部奇妙な変容が見られました……。細菌同士の遺伝子の混入による疑似的な交配と思われます……。作為的なものでしょう、私たち二人の体内に見られた型のみがその行動の傾向を持ちます……。マイクロロボット的な運用と言えるでしょう」


 サイエイさんが患者の処置を完了して振り向く。


 「仮説はほぼ立証という事か」


 森さんが頷く。


 「患者の皆さんの患部の細胞へ変質を促している細菌の多くにA型・B型の血液型遺伝子配列が見られます。細菌のDNAと術式が一体になっているせいでしょうか、細菌本体の遺伝子配列も混入しているようです。また、血液が細菌の運搬の根幹となっているようです。このことから見るに、A型もしくはB型の血液型遺伝子を参照することで血液のA型抗体、B型抗体などに順応し、血液と自身を偽ることで免疫をパスしていることが予想されます」


 「……血液か……。血清などを利用した介入術式はどうだろうか。君が危惧しているのは恐らく、たんぱく質を溶かした際の術式の暴走だろう? 血清か何か……。血中に混ぜてよいものに介入術式を混ぜて循環させ、血液中の術式に一気に介入するというのは……」


 サイエイさんの提案に森さんは首を掻きながら考えているようだ。


 「それは、あり……。ですかね。血液の遺伝子参照の部分は確定しているのでそこにピンポイントで介入するか……。遺伝子なら終止コドンを滑り込ませる術式が良いでしょうか……。いや、微細過ぎてポイントでの介入は難しいか……。いや、待てよ。遺伝子参照部位の部分だけ暗号化されている言語で、他言語との共通性がほとんどない……。ならばここにのみ介入することは可能……。多めの遺伝子情報を書き加えるもしくは削除する術式を介入すれば……。行ける。行けます。先ずは血液採取での実験です。そのあとは……。血清ですね、車に血漿があったはずです、こちらを使いましょう」


 「私も持っている。早速実験しよう」


 二人の呪医は共同して血液を採取し、介入術式による効果を調べた。僕も感知能力を利用して協力し、結果を報告。結果は術式の想定通りの介入を確認。目立った変質もその他になく無力化は成功していると思われた。


 結界に術式を注入し空気中の菌の無力化を森さんは完了した。それだけでは体内の術式が無力化されないのは恐らく、生物の体内は生体の魔力による防御機能が強いために空気中と同じく他者の魔術的結合が安易に介入することができないという事なのだろう。前に金剛さんの授業で教わったことだ。強度の強すぎる術式ではそのまま生物を破壊しかねないし、強度の弱い術式でも体内の魔力に邪魔されてしまう。術式の結合を小さくする技術も通常ではあまり試されることのない方法のようで、できる人間は少ないと聞く。そして細菌を利用した術式、触手を生み出す術……。とても人間業には思えない……。


 そして森さんは先ず自らの感染源の一角となっている細菌を取り除くため、最初の被験者となった。血漿注入後も何の問題もなく、サイエイさんも自身に血漿を注入。二名とも30分以上経過を観察したが問題はなかった。

 一人の患者でも同じく僕が血中や細胞での経過観察を行い術式の無力化、容態の安定を確認。血漿を注入された患者は触手に変容した腕はゆっくりと無数の黒くてうねり続ける触手や瞳が剥がれ落ち、元の姿を取り戻していった。


 「かなり良くなりました……いや、医者にはあまりかかったことがなくって、こんな目に合うのは初めてで……。どうもありがとうございます」


 「どういたしまして……。ここだと少し難しいかもしれませんが、いつ病気になるかはわかりません、定期的な健康診断や、ちょっとした体の不調でも相談の為にかかりつけの医者があると便利ですので……」


 森さんらは一人一人、患者となった人たちや無症状の家族らへの説明などに奔走した。僕も助手のような立場であるからできる限りの手伝いはしている。

 症状が治る過程で、患者から落ちた触手などは外の土の下へと素早く潜ってゆく。僕はその触手から妙に嫌な予感がしたので、幾つか追って潰したりしたが、無数に存在するために放置するしかないと分かった。


 「触手部分が独立しているのが非常に奇妙です。ここだけ独立した生物だ」


 森さんはその触手を見ながらそう語った。


 「……新たな生命を生み出す術か……。理論上は可能だが、ここまで精巧に術式を練り上げているのは見た事がない……」


 ――峻厳なるサイエイ(富嶽埼栄)――

 まさに『神の難題』か……。私が持ち出した責任がある……。それにあのカリオストロ……。私を利用したようだな。

 ――何度もヨトゥム氏に打診し却下された、森の『薔薇』への勧誘を実現させたと思えば、この仕打ちか。クソッ……。


 ――鳥羽或人――

 サイエイさんは思いつめた表情で患者の治療に当たっている。一人、また一人と治療が完遂してゆく。数多の触手を吐きだし、逃しながら……。


 最後の患者を治療し、家の外に出た際、森さんが話し始めた。


 「記憶処理は一人一人やっていきますが……。やはり量がある。空気感染の危険性もないので秘匿課へ連絡し二課や三課の人を応援に呼びますか……」


 「いや、私が一気にやってしまおう。この状況になった責任は私にある。事前に村人全員にマークはしておいている。彼らも巻き込まれただけだが……。君たちもいろいろ手伝わせてしまって済まない……」


 サイエイさんは深々と頭を下げ、僕たちに謝罪した。


 「いえ、良いんです……。それでは、結界を解除しましょうか……」


 森さんは森の中心に向かい、そこで術式の焼け焦げた跡に再度触れて呪文を語り始める。詠唱が終了し、結界がするすると消えて行く。夕焼けの空の輝きが結合に邪魔されず僕たちを照らし始める。


 ゆっくりと結界が消えてゆくにつれ、うるさい音が、どこからかなっているのが聞こえてきた……。結界が消失すると森さんの車から、けたたましい音量のサイレンが鳴っているのが分かった。


 「森さん、あれはいったい?」


 「秘匿課緊急連絡……? 災害時や特別の緊急時にのみ鳴るものです」


 「馬鹿な、まだ予定時刻より早い……。カリオストロ、まだ何かしていたか……」


 サイエイさんはそう言うとそそくさと村中に向け術の結合を飛ばし記憶処理を行う。


 『魔の夢は醒め、魔の現は消え、夢無き世には石だけが残る。現無き夢には魂だけが揺らぐ。』


 呪文の響きはラテン語のようだ、流石に聴きなれてきて意味も分かるようになってきた。


 「……急いだ方が良い。私から言えるのはそれだけだ……。私は君の勧誘に際して、不注意と不備を繰り返しているようだ。この件の責任の一端も私にある。この物品の処分も君たちに一任……」


 僕が『サピエンティア・オクリースのピラミッド』を見ると、奇妙な魔力の鳴動が見られた。それは突如空中に浮遊し、虹色の光彩を放ちその光が球体上の形状を造り出した。


 「何だ?」


 サイエイさんが叫ぶ。凄まじい風が吹いている。外を歩く人々の様子は静止しているようだ。時が止まったように停止している。


 「わかりません!」


 風に白衣が煽られながら森さんが答える。


 「これは……。『門』?」


 僕はその球体状の空間を見て、それが『門』のようなものであることを悟った。僕の感知能力はその球体内に存在する無限に広がる空間を認知し、僕はそういう判断を下したのかもしれない。その空間は突如、暗い空間へとつながったのだ。暗い。深淵の如く暗い。その奥からゆっくりと光の反射する様子が見える。それはヌルヌルとした粘液を思わせる類の光の反射であった。

 それは先程見た触手だった。見れば地面にも触手が地下から這い出し、その球体へと集まっている。球体の中からゆっくりと這い寄る蛸のように、巨大な、粘液に塗れた黒い触手がその球体から外部の空間へと発露し、大量の目玉が粘液に絡みあいながら触手の地面へずり落ちて行く。


 「何だ……? 奥から何かが……」


 サイエイさんのその言葉の通り、その触手が流れ出る奥地からゆっくりと、光を反射しない物体が現れた。それは、形容することができない幾何学形であり、常にねじれ、変容しているように見えるが、それは目の錯覚によるものであることがなぜか理解できる奇妙な形状で、曲線のない球体だった。


 ――富嶽埼栄――

 これが……神の力だというのか。人知の及ばない形状。人知の及ばない力。魔術の大前提として、物質の瞬間移動は不可能と言うのがある。ワームホール、ワープ、それは宇宙物理学者の理論上の話であり、魔術界においても再現できていない技術……。ここで、その技術が……。今、発揮されているのだ……。


 『素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしいぞ人類種よ。富岳埼栄、森水都、鳥羽或人、ヴィクトルよ。我が難題をよくぞ解決した。面白い、まこと面白い……』


 ――鳥羽或人――

 突然その声が空間に響く。びりびりと肌が震わせられる感覚を覚える。声の感じは機械音声のような感じもするが、人間の声帯であることは妙な確信がある。


 『汝らは我が難題を見事に解決した。その褒美を与えよう。おやおや……。汝らの一人は臨戦態勢のようだが……。いや、安心してくれたまえ。今回は汝と争うつもりはない、吾輩の気分が頗る良い故。この世界を破壊するのはまた別の機会でいい。それよりも汝らに褒賞を与えよう。誉……。汝らに耳よりの良い情報を与えよう、これくらいならば汝ら四人の一人も怒るまい……』


 何を言っているのかよくわからない。ここには三人しかいないはずだ。だがその事を聴こうにも今は体が動かない……。全く動かない。麻痺や筋弛緩ではない、これは時間が停止されたような停止だ。


 『今、時間の間隙である四次元の偏在時空に汝らを半ば拘束しているが、安心したまえ、直ぐに戻してやる。では、褒美の情報だが……。汝らの一人……。富嶽埼栄。汝は薔薇の一員だな……。よしよし、ならばこういうヒントを与えよう……。【薔薇の支配者は本来三柱。だが、今は四柱だ】。よく覚えておくように、ここにいる全員が関わる問題だ。まあ、汝らのうちの一人は既知の情報だろうが……。ああ、つまらん奴め。ああ、そう怒るな、帰る、今戦争する気はない……。それではさらば、大変面白かったぞ……』


 ……。


 「は?」


 僕たちは村の中心に立っていた。あのピラミッドが光る前と同じ様子で……。あのピラミッドは……。魔力が封印されたままの状態で静かに光っている。時間も一秒と立っていない。腕時計は正常に時間を刻み午後4時1分を指示している。

 車からアラートがまだ鳴り響いている。その音が僕たちを現実へと引き戻した。


 「……今のは一体……」


 サイエイさんも森さんも、困惑した表情で周りを見る。だが、周囲は何事もなかったかのように動き、そよ風が吹いてる。サイレンの音はまだうるさい。


 「と、とにかく、秘匿課に戻りましょう、鳥羽さん」


 「は、はい」


 僕はピラミッドを木箱に納め、車へと急いで乗り込む。


 「埼栄さん、乗りますか?」


 森さんは乗りこむ前にサイエイさんに聴く。


 「いや、自力で行く。君は早く行け、おそらく医者が必要だ。私は全員の記憶処理を、責任をもって確認した後向かう」


 ――森水都――

 ――ありがとう。


 ――富嶽埼栄――

 森は一礼して車に乗り込みエンジンをかけた。私は何もかも間違っていた。尊敬する人間が道を踏み外したと思い違い、その人を取り戻そうと手を借りるべきでない人の手を借りた。薔薇の戦争は回避できないものだったのか……。ここ最近はずっとその疑念を考えないように、森に執着していたのかもしれない。だが、薔薇以外に国境なき呪医団を認可する組織は考えられない。私の向かうべき道は……。

 ふふ、私の方が、迷っているではないか……。

 彼の向かった道は彼にとっては正しいモノだったのかもな……。



 「森さん……。サイエイさんは……」


 「……私の間違いをいつも正してくれる友人です……。今回もきっとそのために来たのでしょう。彼自身の迷いよりも、私の事を優先してくれる最高の友人の一人ですよ。こんな人は秘匿課の人々以外ではなかなか会えませんからね……。私の答えは今もしっかりと信念になっています。彼の求める答えではなかったかもしれないですが、彼は私の答えも認めてくれたようです……」


 ――鳥羽或人――

 僕には森さんの機械音声が心なしか感慨深げに感じた。夕陽の空の中、僕たちは魔界府へ車を飛ばした。


――


 ――〇――

 南極卿執務室への緊急報告。


 4月1日14時58分、魔界府府庁にて全国緊急ロックダウンが発令、このロックダウンは魔界府知事・曲山馬琴、及び魔界府警備課長・山岡恒夫の権限により発令されたが、府知事は外出中であったため、何者かが知事執務室と警備課長執務室へ無断で立ち入り、ロックダウン用の鍵を盗みだしたと考えられる。府庁庁舎は外部からの侵入が困難となり、日本の各魔界府に緊急避難指令および、世俗渡航規制が敷かれた。

 魔界府府庁の警報システムに不審者の存在は確認されず、魔力観測においては知事執務室、警備課長執務室への両者不在時の訪問者は一名。秘匿一課員が確認されている。

 15時1分。秘匿一課課長ベアトリーチェ・カントルがロックダウン中の府庁の壁を破壊し各階の警備課員、秘匿課員の移動経路の確保を開始、同時に事件の原因の調査を開始した。

 15時15分。府庁四階で爆発。以降秘匿課及び警備課は各界の爆発物の確認へ動く。

 15時16分。府庁地下より留置場に収容されていた隠者の薔薇構成員の脱出を確認。黄泉区の監獄から南鳥島監獄への輸送予定者4名である。ベアトリーチェ・カントルは脱獄囚の他、隠者の薔薇構成員と思われる人員10名を確認。一時交戦するが、突如現れた5名に予期せぬ奇襲を受け全員が逃走、ベアトリーチェ・カントルは緊急報告のため逃走者の追跡を警備課に委任、緊急報告を以降断続的に継続。

 15時20分。魔界府黄泉平坂市各区にて隠者の薔薇構成員のテロが確認。秘匿課、警備課が各所へ派遣され、隠者の薔薇構成員との戦闘が勃発。

 16時1分。魔界府黄泉平坂市黄泉区無限に隠者の薔薇による正規軍の突入を確認。すでに分散していた警備課はこの対応のため指揮系統が一時混乱。秘匿一課課長ベアトリーチェ・カントルは秘匿課のテロ対処を指示し、警備課長・山岡恒夫に軍の対処を要請。警備課は軍への対処に専念する形となった。


 南極卿執務室へこの件の対処のため応援を要請する。

 日本魔界府府庁秘匿一課課長ベアトリーチェ・カントル


返答:現在全世界206か所以上の魔界で隠者の薔薇による軍事作戦が展開されており、各魔界はその対処のため人員が不足している。日本魔界府の状況は特殊であるが、応援に送る人員が不足しているため本日中の応援人員輸送は不可能である。

南極卿執務室


――


 2022年4月1日16時40分、魔界府黄泉平坂市高天原区魔界府入り口検問所にて。


 ――鳥羽或人――

 魔界府の入り口の検問所はいつもならばトラックなどが並んでいる筈だが、今は車一つない。それもそのはずで入り口の大門が封鎖されている。これでは僕たちの車も出入りできないどころか、僕たちが入ることすらもできない。


 「車を置くわけにはちょっといきませんね……。検問所の中から操作します。鳥羽さんは車に居てください」


 そう言って森さんは車を出て、門の扉の横にある、建物に入った。壁代わりの結界は地上に近しい場所は魔力が濃すぎて先が見えない。遠くからは単なる湖の水の一部に見える、人の認識へと介入する不可思議な結界だ。僕は秘匿課に来てから、よくここを出入りするが、車でこの入り口に入る際、湖に突っ込むのがどうも慣れない……。水がないのは判っている筈だが、不思議と溺れるのではないかと言う感覚が僕を支配する。これも魔術の効能なのか?


 そうこうしているうちに門が少し開いた。急いで森さんがやってくる。


 「一時的に車一台分を開けただけですので、急ぎましょう」


 そう言って車を門の中へ進める……。

 これは……なんだ?


 「府庁が……。燃えている?」


 そう森さんが言った瞬間、正面の中央台に鎮座する巨大な鳥居を持った、我らが魔界府府庁が大爆発により東側の四階から三階の壁が吹き飛んだ。周囲を見れば他にもビルやマンションが火を噴き、結界内部の空は火の粉が降り注いでいる。


 「戦争……?」


 各所からアナウンスが流れている。


 『市民の皆様、避難プロトコルに従い、地下避難施設へとご避難ください。これは訓練ではありません……。市民の皆様、避難プロトコルに従い、地下避難施設へとご避難ください。これは訓練ではありません……』


 「避難……。森さん、これは」


 「……鳥羽さん、あなたは直ぐに府庁の課長の元へ向かってください。私は避難誘導と負傷者の治療に当たります」


 僕はそう言われ、即座に車のドアを開き、空中浮遊術を使って、府庁へと急いだ。オフィス街は燃え、何人かの術師が炎を放っている。散発的な戦闘が各所で起きている。秘匿三課、秘匿二課と思われる人々が隠者の薔薇の構成員と思われる人々と魔術と体術、武器や兵器を駆使した戦いを繰り広げ、各所で発砲音と悲鳴、叫び声が聞こえてくる。火の粉は空を舞い、人が死んでゆく。

 一体なぜ? なにがあった?

 僕は一心不乱に府庁へと急いだ。ベアトリーチェさん……。


 夕陽は沈みかかり、時刻は夜へと近づきつつあった。


〈第五章 完〉

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