七章 夏の終わり
四十二話
それはひぐらしの鳴き声が遠くで聞こえる夕方の事だった。
「刃君に一つお話があります」
「どうかした?」小さく切り揃えられた果物や生クリームの乗った、豪勢な豆丘さん特製パンケーキに舌鼓を打っていた俺は、視線を何故か正座している豆丘さんに向ける。
「そろそろ夏が終わりますね?」……何故敬語なのだろう。
「まあ確かに。お盆も過ぎたしね」
「そこで問題です。夏といえば?」
「……暑い?」
「そう!暑い!」やけにテンションの高い豆丘さんはスマホをこちらへ向ける。
画面にあるのは南国のビーチで、水着を着た家族が笑顔を浮かべ砂場で並んでいる写真だった。
「海!行きましょう!」
豆丘さんは興奮冷めやらぬといった様子で、嬉々とした表情を此方へぐっと近づける。
直視するには眩しすぎる顔からすっと目をそらし「ま、前も言ったけど外出は禁止だって言われてるからなぁ。それにもうクラゲとか増えてるし海水浴はなかなか難しいよ」そう続けた。
「……クラゲ?」
「そうクラゲ。刺されると痛いし痒いよ」
コチラに向けていたスマホをゆっくりと自分へ向け、すいすいとスワイプ操作。
そして少しの沈黙の後、豆丘さんはうぅと唸り、ぺたりと座り込んだ。
「な、ならせめて海を見に行くくらいは」と上目遣いでこちらを見てきた。
「うーん……でもなぁ」俺はもう一度目が合わないように視線をそらす。
「黒服にバレずに移動する位なんてことないから一緒に行こうよー」
……黒服?「え?黒服って何?」
「何時もそこで見張ってるよ?」豆丘さんは立ち上がりカーテンを開く。
「ほらあそこの」黒い爪の光る先をチラリと一瞥すると、一台の軽自動車がそこには停まっていた。
「……マジ?」
マジと頷き「刃君は今日の夜、ここの上で待っててくれたらいいからさ。ね?」両手を合わせ懇願するその姿は、男なら断れない方法を知っていて、なおかつそれを実践している様だった。
「……分かった」
「やったー!」
「……でもバレたらマズイから見たらすぐ帰るよ?」
「勿論!」わーいと万歳している豆丘さんを見ていたら、まぁ少しくらいなら良いかと思えた。
それから数時間が経ち、一通のメールが来たのを確認し、俺は最早第二の玄関と化した自室の窓から外へと出た。
ふわふわと浮遊しながらアパートの上まで来ると下に夕方に見た自動車が止まっているのが見える。
マジで見張りだったのか、と思っていると、突然耳に息を吹きかけられた。
驚きのあまり「っあぁっ!?」と情けない声が反射で口から出た。
「へっへっへー」
背後から何故か満足げな声の豆丘さんの声がする。
耳を抑えながら振り向くと豆丘さんが腕をゆっくりと羽ばたかせながら、そこにいた。
「……急になにすんの」俺はニヤニヤと笑みを浮かべた豆丘さんに不服を唱える。
「いやさ、どんな反応するか気になっちゃって」
「……もう俺帰ろうかな」
「ごめんごめん」
そうは言いつつ顔はニヤけたままだった。
「まぁいいや」……思うところがないわけではないが、そこに固執しても仕方ないと思いスマホのナビを見る。
ナビでは海水浴場到着までニ時間と書かれているが、それは陸路で道交法を守った場合の事。
空路を行く予定の俺達なら時間短縮は間違いないだろう。
「ほら行くよ」俺は携帯を見ながら目的地の方向へと前進する。
「あ、うん」少し遅れて豆丘さんは着いてくる。
「どれくらいかかるの?」
「ニ時間くらいらしいけど、想定が車の目安時間だから正直分かんない」
「そうなんだ」
「休憩したくなったら教えてね」
「はーい」
それから俺達は、街灯のある見慣れた住宅地を抜け、まるで昼のように明るい繁華街を越え、そして名前も知らない山を空から眺めながら進む。
地上の明かりのない場所に来ることで、地上には柔らかい月の光が降り注いでいた事に、今更気がつく。
月明かりって明るいんだな、そう思いながら山の頂上を抜けた先、広がった視界の奥に水平線が目に入った。
潮の匂いが鼻をくすぐる。
「海だ……!」僅かに右後方にいた豆丘さんが感嘆の声をあげた。
今までとは違うアングルから見た夜の海は、光の道が暗闇の海に一筋、そして終点には光り輝く満月が映し出されていた。
それはまるで海中にも月があるように見えた。
俺がそれに見惚れていると、微かに羽ばたく音が耳に届いた。
―――横から強風が発せられる。
「……え?」
俺が視線をそちらに向けようとするよりも先に、何か高速な物体が俺の横をすり抜け海の方へと抜けていった。
ぼうっとしていた意識をリセットし、それに慌てて視線を合わせると、それの正体が白い両翼―――ではなく、両腕を広げた人間大の物体、豆丘さんだと理解できた。
「あっ、ちょっと待って!」
静止を求めるが既に距離が離れており、声は届いていないようだ。
追おうと目一杯速度を出す。
だがとても追いつけるとは思えないほどに、俺の
「……速すぎだろあれ」
半分呆れながら、徐々に離れて小さくなっていく豆丘さんの背を追う。
数分後、月の光を受け青白くなった砂浜―――海の方向へと続く大型の鳥のような、彼女特有の足跡が見えた―――に一人、海を眺め立っている、豆丘さんの姿を見つけた俺は近くにゆっくりと着地した。
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