三十七話
前回訪れた時とは部屋の様子が変わっていた。血の匂いや胃液の臭いがミックスされた悪臭に思わず顔を顰める。慣れていなければ最悪嘔吐するであろう臭気が部屋にこもっていた。
そんな病室のベッドに、これまた前とは違う色のパジャマを着た彼女が横たわっていた。
元々血色の良いわけではない彼女だったが現在の顔色は最悪だった。
青を通り越して土気色に変色している。
死人顔と言うに相応しい顔色。
そんな様相から死が僕の頭をちらついた。
思わず呼吸が止まる。
―――が、耳に入ったのはすうすうと規則正しい寝息だった。
一度大きく深呼吸をして静かに椅子へ座った。
彼女の顔色、部屋の様子、この臭い、先程見たシーツ、どれだけ彼女は苦しんだのだろうか。
医者であるはずの自身の不甲斐なさに腹が立った。
その時ゆっくりと背後の扉が開き、清掃用品を纏めたバケツを持った先程の看護師が「掃除をと思いまして」と病室に入ってきた。
……掃除?と思い部屋の片隅を見ると彼女の血が壁に付着しているのが目に入る。
「……僕も手伝うよ」
「助かります」
僕は看護師の持ってきたそれから布巾を手に取り、静かに壁に着いた体液を拭き取る。
無言で掃除を続け数分。
殆どは恐らくシーツに吸い込まれたのだろう、少しだけ飛び散っていただけの様で掃除は終わった。
「先生、このあと少し良いです?」看護師は僕の肩を叩く。
ちらりと彼女の様子を見る。
先ほどと同じ体勢で眠っていて、すぐには起きないだろう。
ここで話して彼女を起こすのは忍びない。
「あー、うん別に大丈夫だけど」
「先に休憩室行っておいてください。私片付けてきますね」と僕の手にあった布巾を取り、部屋から出ていった。
その後僕は小さな休憩室―――診察室の隣にあるそれは、黒色のソファーに挟まれるようにローテーブルがあり、角には飲み物の自販機が置かれている―――のソファーに座っていた。
自販機で買った缶コーヒーを飲みながら清掃用品を片付けに行った看護師を待つ。
休憩室の窓から外を眺めると、ビルとビルの間から太陽が沈み始めているのが見えた。
「すみません、遅くなりました」
背後から声をかけられる。
そちらの方へ視線を向けると、看護服から私服に着替えた看護師が軽く頭を下げた。
「いや気にしなくていいよ。……今日はあがり?」
「そうです」看護師はそう言って、自販機でミルクティーを買い僕の向かいにあるソファーへ座った。
「さっきから思ってたんですけど、先生目の隈凄いですよ?寝れてます?」
「まぁ……うん。最近あんまり寝れてなくてね」
「医者の不養生は患者さんに笑われちゃいますよ」
「それもそうだね。気をつけるよ」
そうしてください、と看護師はミルクティーへ口をつける。
「僕を呼び止めたのは目の隈の事?」
「まぁそうですね。後、眠れない理由ってやっぱりあの子の事で、ですか?」
「そうだね。……色々調べてはいるんだけど。医者なのに情けない事この上ないよ」溜息が思わず口から出た。
「……あまり思い詰めないで下さい。私も知り合いに掛け合ってみますね。
海外に行った知り合いもいますし、もしかしたら新しい情報が貰えるかもしれないですから」
「……それは助かる、ありがとう」
僕は感謝の言葉と共に、缶コーヒーの残りを飲み干した。
「ではまた今度」
「お疲れ様」
出入り口へと進む看護師の後ろ姿を見送る。
―――今度と言われて、どれだけの時間が経ったのだろうか。
もうあの看護師とは会うことはないだろう、と思った。
病室に戻った僕は寝ている彼女の隣に座る。
窓から見える外は完全に日が落ち、空は黒が支配していた。
彼女の表情は安らかだ。
そんな顔を見ていると睡魔に誘われる。
最近まともに睡眠をとれていなかったせいもあるのだろう。
僕はそれに手を引かれるまま、組んだ腕を枕にし、彼女の邪魔にならないベッドの隅に上半身を預けた。
点いていたはずの明かりが消え、暗い病室で目を覚ました僕が見たのは窓側を向き、背を向けた彼女の後ろ姿だった。
窓から差し込む月光が、彼女の影をやけに強調しているように見える。
「あぁごめん、僕も寝ちゃってた。おはよう」
「大丈夫ですよ」
「……なんで部屋か暗いか分か―――」
る?、と続けようとした僕を遮り、彼女は話し出す。
「火葬ってあまり自然じゃないですよね。自然に還るって感じがあまりしない気がします」
「……急に何を―――」
「先生はどう思います?」
そう発した言葉には、私の質問以外は喋るなと言う意味が込められているように感じた。
「じ、じゃあどういうのが自然だと?」
「私は獣に食べられて、蟲に食べられて、土に還り草木へと変わる。
それこそが自然だと思います。
それに生き物は食べられて死ぬ際、脳内物質を放出するから苦しまずに逝けると本に書いてありました」
……自然かどうかと言うのは建前なのだとその口調から察する事ができた。
彼女にとっての本題は苦しまずに逝けるなのだろう。
これ以上の会話はマズイ。
何でもいいから話を逸らさなくては。
きっとこのままだと彼女は―――
「あぁでも、私薬漬けだし食べてもらえないか」
「先生」
駄目だ、それ以上は。
「先生は私を食べてくれますか?」
そう言って彼女は振り向く。
彼女の瞳は涙で濡れており、そして怪しげな光を発していた。
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