三十六話
とある市街地にある大きな総合病院の中、白い廊下をコツコツと歩く若かりし頃の羅夏万太は、一つの病室の前に立ち止まり、「入るよ」と一言発し扉を開いた。
「こんにちは、先生」病室のベッドに座る淡い青色をしたパジャマ姿の少女は会釈をする。
「こんにちは、今日は具合良さそうだね」
「えぇ、とっても」羅夏は青白く細い手に握られたブックカバーに入った文庫本を一瞥し、「何読んでるんだい?」とベッドの横に置かれた来客用の椅子に座る。
「なんだと思いますか?」
「……んー君が読む本だろう?恋愛小説、とかは読みそうにないしなぁ」
「偏見ですよそれ。……まぁ確かに恋愛小説ではないですけど」
「答えは?」
「んー……内緒です」クスクスと少女は笑い本を枕元にある棚へと置いた。
また、別の日。
同じように診察に来ていた羅夏に、「先生は死んだらどう弔われたいですか?」少女はそう言った。
「……なんだい急に?」突拍子もない話題に羅夏は困惑した表情になる。
「良いから答えて下さい。先生」少女の黒い瞳が羅夏をまっすぐ見据える。
羅夏は頬を照れくさそうにかきながら、「僕は……そうだね、普通に火葬されて両親と同じ墓に弔われたいかな」と答えた。
「……普通すぎて面白くないです」
「普通すぎるって言われても。どんなの期待してたの?」
「なんか宇宙葬とかキノコ葬とか」
「日本人でそれらを望む人は相当変わり者だと思うよ」
「先生は変わり者じゃないんですか?」心底信じられないと言った少女の表情を見て「どういう意味かな?」苦笑いを浮かべる。
「毎日昼休みとかも私に会いに来てくれるんで変わり者だと思ってました。
もしくは仲の良い同僚がいない可哀想な人」
「……そうだとしても、本人の前でそういうこと言うの本当良くないよ」
「……さ、流石に冗談ですよ先生」明らかにトーンが落ち込んだ羅夏の声に対して、少女は慌てたようにフォローを入れていた。
カタカタとキーボードを叩く音が羅夏が住むアパートのリビングで響いていた。
一人暮らしの男にしては小綺麗な部屋の中、PCで調べ物をしている。
「……駄目か」
伸びをしながら一人そう呟く。
モニターに映し出されるは様々な言語による検索履歴。
一つの病、全痛症についての物だった。
原因不明のその病は臓腑の全てを裂かれるような、またはぐつぐつに茹だった大釜に沈められるような、全身を激痛―――と言っても痛む箇所に物理的ダメージがあるわけではなく、その痛みは脳の誤作動から来ていると仮定されている―――が包む奇病だった。
そんな殆ど症例もない病に少女は罹っていた。
特に有益な情報を集められたわけではないといった様子の羅夏は、PCの電源を落とし立ち上がり、キッチンへと向かう。
羅夏は冷蔵庫に入った缶のブラックコーヒーを取り出し、プルタブを開け中身を口に運ぶ。
一息に飲み干し、手の甲で口を拭い缶をゴミ箱に放り、リビングへと戻る。そしてPCの脇にあった折りたたみ式携帯電話―――ピカピカと赤く光っており着信が来たことがわかる―――を手に取った。
僕は部屋着のまま自転車を息を荒げながら全力で漕いでいた。
家を出て十数分、口に鉄の味が広がるがそんな事は気にしていられない。
足がもつれ、自転車ごとアスファルトへ体を打ち付ける。
日も傾き、帰路に着いたであろう人々の視線が何事だと、こちらへ向くのを感じるがそんな事はどうだっていい。
すぐさま立ち上がり、漕ぐ作業へと戻る。
急ぐ理由は先程の電話だった。
彼女に発作が起きた。と病院から電話があったのだ。
今まで発作と言うのは一定の周期、決まった時間帯に毎回起きていた。
予想できた時間帯は麻酔や薬等で意識を失わせる事で、痛みを感じないように処置していた。
だが、今回の発作は今までの周期時間帯共にズレていた。
……いや法則性があると思っていたのが間違いだったのかもしれない。
これからの対処と彼女の事を考えていると、いつの間にか病院へ着いていた。
自転車から飛び降り、院内に入り病室へ向かう。
廊下を走り、階段を駆け上がる僕に対して咎めるような声が所々で上がっていた気がする。
……だが、今はそれどころではない。
やっとの事で彼女の病室の前へとたどり着いた。
荒れた呼吸を少しでも整えようと大きく深呼吸をしながら、ドアへ手を伸ばす。その時扉が開き、吐瀉物や血で斑模様となったシーツを持った顔馴染みの女性看護師が出てきた。
「か、彼女は?」ぜえぜえと肩で息をしている僕を驚いた顔で見ると、「今は安定してますよ。……痛みから気絶しちゃったので」
「……分かった。ありがとう」
「では」と立ち去る看護師に礼を言って病室のドアを開けた。
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