二十六話

 その先は今回の騒動で書類などが散らばったデスクの並ぶオフィスだった。

 左側には連続した窓が並び、月明かりが射している。

 ドアから飛び出た司は右へと方向を変え、扉の正面の位置から素早く離れる。

 瞬間、ドア周辺の壁ごと破壊しながら犀男は現れた。

 腕を顔の前でクロスさせ、走ってきた犀男は左右へと目を走らせ、目当てのものを見つける。

 腕を下ろしながら口を歪ませ「逃げんじゃねェ」と中指を立てた。

 司は近くのデスクへと近寄ると、「なに、逃げた訳じゃないさ」犀男から視線を逸らさずに机上を物色し始める。

「……なにやってンだ?」

「教えてほしいのか?……お前が真摯にお願いするなら、教えてやらんこともないかもな」右手で何かをスラックスのポケットにつめながら司は言った。

「馬鹿言ってんじゃねェ」

 犀男は近くのオフィスチェアを掴み、力任せに放り投げる。

 司の元に高速で飛来するオフィスチェア。

 金属の左腕でそれを払いのけ、そして右腕をまるで人を殴るかのようにしてその場で振った。

 犀男は困惑する。

 、10mは離れていた犀男の顔面を叩いたからだ。

「?!」予想していなかった事に犀男はたじろいだ。

 伸びた右腕は伸ばした時の軌道のまま司へと素早く戻っていく。

 犀男はその様子を見て「お前の腕どーなってんだァ?」殴られた場所を手で押さえながら表情で司へ問う。

 司はそれには答えず構えをとる。

 犀男はため息をつき「……丁寧にしたのによォ」と、司の元へと走り出した。

 犀男に、黄土色の物理的に伸びる右ストレートが放たれる。

 が一度見たからか、冷静にそれを躱す。

 自身の背後に伸びる司の腕を沿うように詰めてきた、犀男の拳が届く後一歩と言う距離で犀男の視界が大きく変化した。

 大きく仰け反り、白色の天井を眺めることになったからだ。

 そんな天井を見上げる、額から出血した犀男の右隣。

 金属でコーティングされた左拳に血をつけ、伸ばしたゴム製の右腕による弾性により高速で移動する司。

 左拳は犀男の額を捉え、右手は背後の窓枠を握りしめていた。



(ゴムの加速を乗せた拳だ。効いてくれよ……)

 そう思いながら右手を開き、窓枠の手前で体を犀男の方へ向けながら着地する。

 犀男は出血している額を触っているようだった。此方からはごつごつとした灰色の背面しか見えない。

 犀男は此方へと振り向くと、オフィスデスクを片腕で軽々と持ち上げ此方へとまるで野球のボールを投げるかのように投擲した。

 引き出しに入っていた小物を回りにぶちまけながら、飛んでくるそれを一瞥し、(受け止めるか?……いや、違う)と直ぐ様左右に目を走らせ掴めそうな場所を探す。

(あれだ……!)そう決めた俺は、留置場とは逆のオフィス出入口にある円柱へと右手を伸ばす。



 だが―――「やらせるわけねェだろうが!」伸ばした右腕が空中で大きく弾かれた。



 犀男は椅子を投げ、俺の伸びている右手へ当てられたのだ。

(……クソッ、もう避けるには時間が……)

 右腕を自身の方へ戻しながら、左腕でデスク落下の衝撃へ備える。

 右腕が戻ってきた瞬間、左腕にずしりと重みが掛かった。

「ぐっ……!」それも一瞬、ずりずりと左腕から滑るようにしてデスクはずんと音をたてながら床へと落ちる。

 ……左腕が多少痺れるが、ダメージは無―――

「やっと止まってくれたなァ!」拳を振り上げた犀男が目前だった。

 素早く飛び退き、その拳を寸でのところで回避する。

 が、猛攻は止まらない。

 右の次は左。左の次は右。

 大きな体躯から放たれる、一撃が致命傷に成りうる必殺の拳は雨霰のように降り注ぐ。

「っ……!」

 気がつくと足で接地しているのは足先だけだった。

(足を止めたらまずい……!)

 上体を素早く動かし、的を絞らせないようにしながら、出来る限り左右へと跳ねることで拳を紙一重で回避する。


 そんな犀男の左のアッパーを避けた時だった。

 左足が突如ずるりと滑った。

 体勢が崩れ、思わず足元へ視線を落とした先。

 あったのは1つのボールペンだった。

 先程デスクからこぼれ落ちた小物の一つだろう。

 一瞬、俺の足は止まってしまう。

 時間にして一秒もなかっただろう……。

 長い一瞬だった。

 視線を戻す。

 目に写るは喜びの表情を浮かべる犀男と、それが放った迫る巨大な拳。


 俺が出来たことは、顔面を両手で交差させその拳から、身を守ろうとする事だけだった。

 月明かりが優しく警察署全体を照らす、しんとした夜。

 そんな警察署の窓から、警察車両が数台止まっている駐車場へ一つの人影が窓からガラスを割りながら投げ出された。

 勢いのついたそれは、アスファルトへ激突し、ごろごろと転がりそして街路樹へ背を預けるような形で、衝突し停止した。



 ゴホッゴホッ。

 咳で一瞬トンでいた意識が戻る。

 全身を襲う強烈な痛みで呼吸すらままならない。

 全身の痛覚がサイレンを鳴らしている中、なんとか口の中にある鉄臭い物をべっと吐き出した。

(……なんとか生きては、いるみたいだな)

 ゆっくりと目を開く。


 始めに目に写ったのは、交差している右腕―――いつの間にかゴムではなくなっていた―――の先に垂れ下がった手首だった。


 皮で繋がってこそいるが完全に前腕部が砕けているのだろう。

 一応指先を動かそうとしてみるがぴくぴくと痙攣するだけで、まともには動かない。

(右腕は……駄目か。ゴムで覆っていた筈だったが)

 ……幸い左腕はなんともなさそうだ。

 金属で覆われたまま、特に問題なく機能している。

 下半身に力を入れれば両足も動く。

(……まだ戦える、な)

 立ち上がろうとすると、動かした部位がなおのこと強く痛む。

(……この痛みさえ無視出来ればの話だが)

 体をゆっくりと動かし、背を預けていた街路樹に左手をかけながら立ち上がる。

「根性あるなァお前」

 声の主は、割れた窓枠から頭だけ此方へと覗かせた犀男だった。



 犀男はのろのろと立ち上がった司を見て、口を開く。

「立ち上がったのは誉めてやる。

 ……だがよー、殺虫剤かけられたゴキブリみてーに弱ったお前になにが出来るってんだァ?」

 司はちらりと犀男を見ると、左手を手刀の形にする。

「死ぬまでやろーってんだな?……良いゼ、付き合ってやるよ」

 犀男は窓枠を強烈な前蹴りで破壊し、そのまま窓枠だった壁から駐車場へと出てくる。

 その瞬間だった。


 司が手刀で自身の右手首を切り飛ばしたのは。

 切断面から勢いよく血が吹き出し、アスファルトを赤く染める。


「な、何ィ?死ぬ気かお前……?」

 犀男は突然のことにたじろぐ。

 そんな犀男とは対照的に、落ち着いた様子で司は左手で背後の街路樹へ触れた。

 それから数秒。

 司の右腕に変化が現れ始める。肩の方から順に樹皮が覆い始めた。

 それが前腕部まで広がるにつれて、出血は治まり始め、手首の切断面が樹木と人のキメラめいてきた所で、血は止まった。

 司はその断面をちらりと見て、今度は手刀を頭上の枝へ当て枝を切り取る。

 枝の断面を見て、ふぅと一つ大きな息を吐いた。

 何処か覚悟したような様子の司は―――


 突然、その枝の断面を右腕の断面へと突き刺した。


 司は体を丸め呼吸を荒げ、全身をカタカタと揺らし、歯を食い縛り痛みに悶絶している。

 呆気にとられ動けない犀男の瞳には、司の右腕に突き刺した枝が不気味に蠢き、何らかの形に変化していっているのが写った。

 それから数十秒。

 司の右腕には樹皮が所々張り付いている、木製のデッサン人形のような手首があった。

 節々はまだ完璧ではないとはいえ、手首としての最低限の機能はあるように見える。

「……待たせたな。さぁ、来いよ」と荒れた呼吸のまま司は生やした右手をギシギシとぎこちない動きで手招きした。



(ンだよ、こいつ……)

 目の前のずたぼろになった全身傷だらけのスーツ男が不気味だった。

「手首切ったり、生やしたり……なんなンだよお前……?」

 力で負けているつもりはない。

 ダメージだって確実にあいつの方がでかいはずだ。

 だがどうしても足が先に進まない。

 少しも種が分からないマジックを見せられているような、気味の悪さがそこにはあった。

「さぁな。……なんだどうした、来ないのか?」

「……うるせェ!」

「怖じ気づいたのか?……でけえ身体ナリしてんのによ」男は嘲る。

「……ブッ殺す」

 足に力を入れ、眼前に腕を交差させ突進の構えに入る。

 ……そうだ、俺は何をビビっているんだ。

 今まで通り詰めて殴る、それだけであいつは倒せる。

 腕が生えたからなんだってンだ。

 木だろうが鉄だろうがブッ壊す。

 それぐらい今の俺ならガキの手を捻るよりも簡単に出来る。

 そのまま腰を落とし、俺は走り出した。

 力強くアスファルトを踏みしめると、みるみる距離は縮まる。

 交差させた腕の隙間から男を視認する。

 男は片ひざをつけしゃがみこんでいた。

(まともに立ててねーじゃねぇか……。ンだよ、こけおどしか)

 そしてその距離があと一歩という所に来たときだった。


 俺の下顎に強烈な衝撃が走った。

 頭がぐりんと空を向く。

「あ、が……」

 独りでに口から喘ぎが漏れる。

(何を食らったんだ……?)

 俺が最後に見たのは真っ暗の空だった。



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