Side→K 3話

 数日後、陽向は退院した。

 身体はすっかり元通りに回復したようだ。

 現代医療に感謝しながら、とりあえず身体は完治したことを喜ぶ。


 けれど、問題なのは心の疵の方だ。

 あまりに深すぎて、回復の傾向が見えていない。

 カウンセラーの手によりカウンセリングは行われるが、肝心の本人が回復を望んでいないのだ。

 自殺は思いとどまってくれたものの、羽根をもがれた蝶のように、その場に佇むだけだ。

 時折本を読んだり絵を描いたりと意識を外に向けつつ暇を潰す。

 他人に危害を加える心配はなさそうなので、閉鎖病棟は免れたが、医師もカウンセラーも匙投げ秒読み状態だ。


 心身の健康の為には環境を変える事が肝要だ。

 誰からも侮辱されずに傷つけられずにのびのびと過ごせる場所が必要だ。

 けれど、カウンセリングは続けていかなければならない。

 実家の近くで調べたものの、良いカウンセラーは近くにはいないようだ。

――今の病院の近くに住んでカウンセリングを続ける……?

――カウンセリングはやめて、実家でのびのびと過ごさせる……?

――それとも心療内科に通える別の遠い場所でやり直す……?

 ぐるぐると問いが回るが、何度問いかけても自分の中で答えが出ない。


 息子が近寄ってこない事がようやく分かったのか尾行もなくなった。

 とりあえず退院した事を喜ぼう。スーパーでお寿司でも買おう。

 荷物を両手で持って病院を出て、そのまま店に寄って握り寿司を吟味する。

 好物の鯛とサーモンが多めに入っているものを選ぶと、陽向がほんのりと微笑んだ。

 会計を済ませ、一旦宿泊しているホテルに戻る事にする。


「今日はお祝いよ。鯛もサーモンも沢山食べてね」

「うん……」

 陽向はぼうっとしている時間が多く、それでも真澄についてきてくれる。

 嗚呼、心が壊れてしまった。

 壊れた心は簡単には戻らない。

 分かっている。分かっているのだ――。


 けれど、自分の後ろを歩く娘を、電車を待っている間自分に凭れて眠る娘を、どうしても守りたい。

 

 先が見通せなくて苦しい。

 本当は私だって泣きたいのに。


「……誰か、助けて――……」

「……喜んで」

「え……」


 独り言に返事が来た。

 人の居なかったはずの電停に、一人の男が立っていた。

 30代くらいだろうか。すらっと背の高い優男。柔和な微笑みを浮かべている。


「あの、何か……?」

 警戒を滲ませて尋ねると、青年は困ったように微笑んだ。

「……随分とお困りのようだったから。何かお力になれたら、なんて」

 真心なら嬉しい申し出だが、胡散臭い事この上ない。

 変質者なら大変なことになる。自分はどうにでもなれ精神だが、陽向をこれ以上傷つけるわけにいかない。


「ありがとうございます……。でも……」

「……貴方は、この世の絶望を見たような顔をしていたから。なんとなく放っておけなくて」

 青年は歩いて陽向と真澄の前を通り過ぎて、真澄の隣に座った。

「僕だったらお願いを叶えてあげられるかもしれないよ。

こう見えてもお金は持っているから。人の来ない落ち着ける場所くらいは提供できると思うよ」

 人が来ない落ち着ける場所。

 お金があって生活に困っていない。

 今現在喉から手が出るほどに欲しいものだ。自分の力でそれが得られれば本望なのに。

「あの……。貴方は……?」

「僕はグレイ。通りすがりの魔法使いだよ」

 やっぱり胡散臭い。厨二病だろうか。

「ふふ、そんなに警戒しないで。

僕は、人の来ない落ち着ける場所を提供することが出来る。

薬師でもあるから、一般の薬剤師程度の薬の調合はお手の物だよ。

今までの自分を知られることのない、平穏な生活が欲しいと思わないかい?」

 欲しい。心の底から渇望している。

 でも、でも……。

「でも、それを私達に提供して、貴方に何のメリットがあるんですか?」

「僕はね、とても寂しいから」

 眉を下げてグレイが肩を竦めた。

「最愛の妻が亡くなってから年月が経っているのに、未だに彼女の事ばかりだし。

少しでも寂しさが埋められるなら。人助けはしておくものだよ」

 なぜだろうか。

 妻を亡くしたという話は嘘ではない気がした。

 この男は儚さと優しさを内包している。


「といっても、突然現れた僕の事なんて怪しくてたまらないだろうから。

頼っていいと思ったら、また声を掛けてよ。

その時はこの電停においで」

「…………」

「じゃあね。また会える事を願って」


 優しく風が吹いた。

 瞬きをした後、男の姿は目の前から掻き消えていた。


「………幻……?」

 呆然とする。とうとう自分も精神がやられたのだろうか。

 都合の良い幻覚を見たのだろうか。


「……お母さん……?」

 陽向が目を覚ましたようだ。

 ふわりと優しい笑顔を浮かべて娘と話すが、甘美な誘いに後ろ髪を引かれたままだ。


 もし、もし。

 あの男が真心を持っていて、本当に落ち着ける場所を提供できるなら……?

 薬師だとも言っていた。お金があるとも言っていた。

 落ち着いて治療が出来る場所だとしたら……?


 頭の中で何度も首を横に振るが……。

 今の病院でカウンセリングを続けたとしても。

 投薬治療をやめてのびのびとした場所で過ごしたとしても。

 別の場所でやり直そうとしても陽向にその気がないのなら。


 その全てが上手く行くはずないじゃないか。


――もしかしたら私も狂っているのかもしれないけど――。


 ホテルに戻ってから、黙々と人形のように表情を変えずに寿司を食べてから直ぐに寝落ちた陽向を見て、真澄は大きな賭けをする事を決意した。


 翌日に朝早くからチェックアウトの準備をする母親を見て、陽向はゆるりと首を傾げた。

「お母さん、どこに行くの……?」

「今までの私達の事を知らない場所でゆっくりと休めるなら……。陽向は来てくれる?」

 真っすぐと顔を見据えて語り掛ける母親からは、今まで以上の決意と覚悟が感じ取れたから。

「……わたしは、どこまでもお母さんに着いていくよ」


 たとえ行く先が地獄だとしても。苦しみが続くのだとしても。

 陽向は母親の手を取った。


 そして真澄は魔法使いの手を取った。

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