Side→K 2話

 真澄は両手いっぱいに買い物袋を下げ、ホテルに戻った。

 生活用品に出来合いの総菜。

 ホテルの中で自炊が出来ないので栄養が偏ってしまうし費用もかかるが仕方ない。

 実家の両親の家に住んでまた働けばなんとかなるだろう。


 カードキーは部屋に差したままなので、陽向に電話を掛けた。

 帰る時間は伝えていたので、起きてくれているはずだ。

「………?」

 何度掛けても出ない。寝ているのだろうか。

 気疲れが晴れないだろうから、寝るのはいいのだが……。

 フロントに相談して、部屋に電話を掛けてもらうが繋がらない。

 連泊にしてあるので最初の段階でちゃんと宿泊されている事が証明されていたので、ボーイと共に部屋に上がった。

 隣の部屋からの視線を感じる。刑事かな。ご苦労様です。

 ボーイに部屋の鍵を開けてもらい、お礼を言って中に入る――。


「陽向!?」


 守りたい少女が床に倒れていた。

 血は流していないが、顔色も唇も真っ青である。

 机に置かれていたのは、真澄が服用している糖尿病用の服用薬だ。

 血糖値を下げる役割があり、毎日服用しているのだが……。


 確認してみると、その錠剤が5粒ほど減っているではないか。

 間違いない。陽向が飲んだのだ。

 サーっと一瞬にして真っ青になる。

 通常一錠ずつ飲んでいるものだ。一気に飲んだらどうなる?

 そもそも健康な人間が血糖値を下げる薬を飲むと命に関わる!!


 母の判断は早かった。

 急いでカードキーを持ち、廊下に出て、隣の部屋のドアをゴンゴンゴンゴンと叩く。

「刑事さんいるんでしょ!!急いで!!大変なの!!」

「え、ええ……??」

 目を丸くした張り込みの刑事が出てくる。

「奥さん、一体どうし……」

「娘が私の薬を大量に飲んで倒れていて!糖尿病の薬!!」

「なんだって!!!??」

 敬語をショートカットした簡潔な説明で、現場の刑事は事態を把握した。

 大変だ、命に関わる。張り込み対象とは言え家族に罪はない。優しい家族である事はもう分かっている。

 というか自分が張り込んでいる間にそんなこと起きたら始末書で済まない気がする!!

 部下を慌てて呼び、部屋にあるスティックシュガーを持ってこさせる。

 再び部屋に舞い戻り、応急処置をしながら救急車を呼んでもらう。

 そうだ血糖値が下がっているなら応急処置は砂糖だ。自分の珈琲用のお徳用スティックシュガーがあるではないか。

 刑事さんに差し出すと倒れた娘の口の中に更に砂糖が突っ込まれる。

 バタバタと走り回る様子を呆然とした様子で眺める事しか出来ない。

 けれど足に力を入れて立ち続けた。

 涙が溢れるせいで体の変な所に力が入って痛いけれど構うものか。

 やがて救急車が到着し、娘が搬送される。

 呼吸は止まっていないし、心臓も動いていたらしい。

 けれど、意識はない。後遺症があるかもしれないし医学的な事は分からない。

 手を固く握って無事を祈る。

 救急車の中のベッドの隣に座り、ひたすら祈りながら救急隊員の質問に答え続けていた。


 処置室に運ばれて数時間。

 看護師が出てきて、命に別状はない事が告げられる。

 目に涙を一杯に溜めて、何度も頭を下げた。

 良かった。本当に良かった。

 意識はまだ戻っていないが、直ぐに戻るだろうとの事だった。

 通常は面会謝絶だが、状況が状況なので特別に許可された。


 陽向の部屋は当然個室だ。

 集中治療室は急患が入ってきて、なおかつ命に別状がないことは保証されているので一般病棟に移されている。

 ソファーもあり、自分の泊まり込みも叶うかもしれない。

 治療費も掛かるのでホテルは今日を以って出よう。多大な迷惑も掛けたし。

 ベッドの傍で意識が戻るのを待つ間も頭は冷静に回っている。


「! 陽向!!」

 ぴくりと陽向の瞼が動いた。

 呼びかけ続けると、少女の瞼がすっと開けられた。

「…………」

「陽向、陽向…!!大丈夫?身体痛いとかない?」

「……お、母さん……?」

「そうよ、お母さんよ!分かる……!?」

 良かった。知的能力は落ちていない。

「うん……。お母さん……」

 真澄は娘の手を強く握りしめた。

 良かった、良かった、助かったのだ。

 大きな安堵に包まれたのも束の間、次の瞬間に塗り替えられる。


「どうして……わたし、生きてるの……?」

「ひ、なた……?」

「わたし、死にたかったのに。どうして、助けたの……?」

 やはりそうだ。自殺未遂だ。

 そんなことさせてはいけない。説得しないと。

「陽向、お願い、生きて……。

あなたに死なれたら、もうどうしていいか分からないの……。あなたに死んで欲しくない」

「わたしは……もう、生きたくなかった……。

こんな酷い人間ばかりの、世界で……。嘘つきで、人を傷つけるのが当たり前の人ばかりの世界で……。生きていたくなんてなかった!!

ねえ、死なせてよ……。生きていたくないっ!!」

「お願い、そんなこと言わないでぇぇ!!」

 声を聞き付けて看護師が飛んできた。

 意識が戻ったことは良い事だが、精神錯乱が見られると判断され、医師と看護師が複数人駆け込んできた。

 意識のチェック、精神鑑定、安定剤の投与。

 あれよあれよという間に病室を追い出された。心配でたまらないが、必要なら仕方が無い。

 病院の広い待合室でひたすら待つ。

ーーどうしてこんな事になったの……?

 今度は間違えまいと気をつけていたはずだ。

 娘とコミュニケーションレスにならないように心を配っていた!

 それなのに、何が彼女を追い込んだのだ。

 ちゃんと、ちゃんと会話をしないと。

 結局その日は面会の許可が降りなかったので、元のホテルを出て、病院に一番近いホテルの連泊の予約を取った。

 ダブルにしておけば、退院してからも大丈夫だろう。

 陽向は体調の回復を優先させるものの、精神安定剤も投与され、カウンセリングも行うらしい。

 プロの決断に従うべきだ。

 電話越しに頭を下げ、医師の治療が実を結ぶのを待った。

 

 数日待ったが、漸く面会の許可が降りた。

 はやる気持ちを抑え、病院に辿り着き、指定された部屋のドアをノックした。

 看護師が部屋のドアを開けてくれる。

 どきどきどきと鼓動が煩い。

 一歩一歩進み、ベッドの上で身を起こしている娘と対面をした。

 少しぼうっとしているのか、ゆっくりとこちらを見てくれる。

「陽向……」

「……お母さん……。来てくれたんだね……」

「勿論よ。陽向、身体は大丈夫?」

「少ししんどいけど、後遺症の心配とかはないみたい……。

頭はぼうっとする……」

 見れば、陽向の足が拘束されているようだ。手は拘束されていない。

 部屋を出て行ったり窓から飛び降りないために身体拘束を行うと説明もされており、同意書にはサイン済みだ。

「陽向が無事で本当に良かったわ……。

少しづつ元気になっていきますか?」

「そうですね。身体は回復傾向にあるので、あとは心を落ち着かせる方向で行きましょう。

出来るだけ休める場所に行かせてあげてください」

「ありがとうございます。退院後は田舎に引っ越す予定です」

「分かりました。けれど、退院後も通院してカウンセリングを受けていただくことになるかと思います。医師の説明をお待ちください」

「分かりました」


 医師の指示を受けるため、看護師が席を外した。

 ベッドの隣の丸椅子に座り、陽向の手を取った。

 こんなに小さくて痩せていた手だったのだろうか。とてもか弱く見えた。

「陽向、ごめんね……今度こそ守りたかったのに……。

でも今度はちゃんと守るから、お母さんにチャンスを頂戴」

「……うん……。あのね……お母さん……」

「うん」

「お兄ちゃんはいずれ見つかって逮捕されて……罪を償うじゃない?」

「そうね……」

「罪を償ってからまたわたし達、手を取り合えるって言ってくれたじゃない?」

「ええ」

「わたしも、それは思うよ。お兄ちゃんはわたし達を大事にしてくれる……」

 ゆっくりと語りかけてくれる。

 心の内を聞かせて欲しい。覚悟ならとうに出来ているから。


「でも、それって、いつの話なの……?」

「…………」

「終身刑の可能性も充分あるよね……」

 下手したら死刑なんて事も……。ううん、考えたくない。

「それまで、わたしは、お母さんと二人だけで頑張るの……?」

 紡ぎ出された言葉に、真澄は押し黙ることしか出来ない。

「………周りの人は皆、嘘つきだったの。

友達のふりして近寄ってきて、結局は酷いことをしてきて……。

わたしの大好きなお兄ちゃんを侮辱することばかり言ってくる……。それが、わたしは許せなくて……とても心に来たの……。

退院して、引っ越しても……。わたしは同年代の子達を信じられない。

ううん……余程救われることがない限り、わたしは人を信用することが出来なくなったの……。

こんな地獄の中、敵だらけの中、頑張りたくなんてなかった」

「陽向……」

「お母さんは、頑張れば道は開けるって、言ってくれるよね。

………、………でも、わたしは……お母さんみたいに強くないよ……」

 ごめんなさい。ごめんなさい、強くなれなくて。

 繰り返し謝りながら俯くと、涙が滴り落ちた。


 嗚呼……。

 真澄は察する。

 否、人から指摘されたことはあるのだ。自分は心が強すぎるのだと。

 自分ではそれが当たり前だと思っていたし、それが引き起こす事なんて予測してすらなかった。

 娘は最初から自分に追いつけていなかったのだ。

 遠く遠く、手を伸ばしても届かない。

 希望に挫けそうで絶望に呑まれそうな中、ずっともがいていたのだ。


ーー私が、傷つけてたのね……。

 守りたい大切な娘を深く傷つけた。

 何度語り合っても、心を理解なんて出来ていなかった。


 ごめんね、ごめんね……。

 真澄は何度も繰り返し謝りながら、陽向を抱きしめ続けることしか出来なかった。 

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