Side→S 13話

 人がほぼ来ない廃ビルを見つけ、何の躊躇いもなく侵入した。

 階段を上り、真っすぐ屋上まで上り詰めた。

 返り血が渇いて気持ち悪いのに、風は気持ち良くて空は不気味なほどに青くて雲一つもない。


――ああ、死ぬのか。

――これでもう終わりなんだな。

 生に名残惜しく思いながら、一歩一歩端に寄って行く。


 下を見下ろした。

 地はコンクリートだ。草のひとつも生えていない見事な灰色。

 このまま真っすぐ落ちて頭を打てば、直ぐにあの世へ行けるだろう。


 荷物を近くに下した。

 すとんと荷が下りるような心地さえした。

 その時、秀一を現実に引き戻す音が聞こえた。

 ピリピリピリという、電話の発信音だ。

――あれ、誰だろ……。

 無視しても良かったのだが、全てを終わりにする前だ。確認くらいはしよう。

 ディスプレイには妹の名前と番号が表示されていた。

 思わず秀一は電話に出た。


「もしもし、陽向?」

「あっ、お兄ちゃん、今どこ!?大丈夫!?」

「……どうしたんだ、陽向。そんなに焦って」

 思わず笑みを浮かべながらいつものように対応する。

 妹を焦らせてはいけないな。大事な妹なんだから。

「今騒ぎになってるよ!お兄ちゃんの仕事先で何人か死んでるって!

お兄ちゃんは無事なの……!?」

 嗚呼、もう発覚したのか。早いな。誰か来たなこれは。

「……大丈夫だよ。俺自身はそんなに怪我してないから。

もう大丈夫だからな」

「お兄ちゃん……?」

 声音にただならぬものを感じたのか、陽向の声が震えた。

「今から会える……!?」

「ああ……。ごめんな、陽向。もう会えないよ。もう終わりだから」

 この人生に悔いなどない。幕を引くべきだ。

 もう会えないと、終わりだと言う発言で聡い娘は全てを察した。

 間違いない。手を下したのは秀一だ。

 その罪を抱え、この兄は死ぬつもりなのだ。

 そんなことさせない。

「お兄ちゃんが死ぬことない!あの人達はずっとお兄ちゃんを苦しめてたんだから!自業自得なんだよ。

ねえ逝かないで!もう会えなくなるのやだっ!!!」

「陽向……」

 涙で濡れた声に秀一の心が大きく動かされる。

 俺を惜しいと言ってくれているのか。

 嗚呼、俺の居場所はここにあったのか。

 それに気づかず説得も気づかずに突っ走って……。


 俺は本当に馬鹿だな。

 どうしようもない大馬鹿だ。


「ありがとう、陽向。お前は自慢の妹だよ。

俺がいなくなっても、強く生きて幸せに……」

「お兄ちゃんがいなくなったらわたしも死ぬ!

わたしにも何もないんだからっ!!」

 悲痛な声に、秀一の意識が強く惹きつけられた。

「何もないって……。陽向には罪はないだろ?

これからの未来があるし……」

「……学校も地獄だし、世の中は嘘だらけだよ。

もう疲れたよ……」

 ぽつり。

 か弱く小さな声だが、威力は凄まじかった。

 嗚呼、嗚呼。

 陽向は幸せではない。

 俺と同じように人生の苦しさに悶え苦しみ、這いつくばっているのか。


「……俺がいなくなるの、嫌か……?」

「うん!」

 縋るように手を伸ばされるように――。

「……少し、考えさせろ。じゃあな、陽向。また会えるなら、そのときに……」

「!待って、今から会って話を……!」

 兄を引き留めようとするのを振り切るかのように電話を切った。


 これでいい。

 陽向は俺とは違う人間だ。

 まっとうに幸せになってほしい。


 改めて下を見下ろした。

 真っすぐ落ちた後に待つのは何もない“無”だ。


――俺の居場所はここにあるのに……?

――あれ、俺死ぬの……?

――あいつらなんかのために……?


 許さない。絶対許さない。

 俺をこんな風にした会社の上司も。

 陽向を苦しめる周りの人間も。

 絶対に赦さない。赦してたまるものか。


 心に深く灯った憎悪は、今の今まで持っていた諦めの感情を覆した。

 踵を返し、屋上を後にして、一歩一歩階段を下りる。


 生きるのだ。

 陽向を今から巻き込まずに、逃げ延びてやる。

 

 秀一は、罪を償わずに逃げ続ける選択肢を選んだ。

 一番過酷で苦労の多い道を択んだ。


 こうして、若い男の逃亡劇が始まった。

 逃げて逃げて、這いつくばる。

 やがて指名手配された後も、路地裏を走って地下を走って、ドブネズミと一緒に眠る。

 俺の価値は鼠以下だ。


 やがて迷い込んだ森の中で秀一は全てを手放した。

 妹を護りたいという想いも、この世への恨み全ても。

 強い想いも逃亡を続けた苦しみの果てに挫けた。


 そうして男は辛い過去と記憶を自らから切り離した――。


 柊は目を開けた。

 目尻から涙が溢れて止まらない。

 柊は、秀一は……全てを思い出してしまった。


 熱情に浸っても、逃げ続けても、俺自身の心があり様が全てを赦してくれない。

 ここは安全な場所なのに。


「……、ちゃん……」


 傍には愛おしい温もりがある。

 離し難い温もりが……。


 秀一はロゼッタの身体を見下ろした。

 綺麗な金髪、まるでハーフのように整った顔立ち。

 過酷なトラウマ持ちで苦しんでいる。

 苦しみを感情を隠し、笑うのが得意で。

 その笑みはまるで太陽の下に咲く向日葵の花のようで――。


 嗚呼、嗚呼。


 ロゼッタが陽向だなんて、そんなこと、あるわけがないんだ――。

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