Side→S 12話
身を重ねて熱を奪い合う。
初めて知る女の味にくらくらと眩暈がした。
一度枷を外せばもう歯止めは効かない。
このまま堕ちていく――。
夢のような夜だった。
少しでもロゼッタが辛い事から逃げられればいいと願いながら、彼女を抱く。
そうすることで自分が救われているのだと思い知りながらも溺れていく。
やがて激しくお互いを求め合った後、眠りに落ちていく。
幸福感に満ちていた。
もし悪夢を見てもきっと耐えられると、二人なら乗り越えて行けると。
柊はそう夢見ながら、また黒い夢に手足を掴まれる。
◆
「早く用意しろ、三宅。ホント使えないな」
「すみません、先輩」
嗚呼、淡々と答える自分は機械のようだ。
三宅秀一はどうすれば早く仕事が終わるか、効率的に成果を出せるかに頭をフル回転させた。
大学を出て、やっとのことで就職したこの零細企業は所謂ブラック企業だった。
週休1日。残業は毎日平均2時間。
時間で言えば大したことないかもしれない。同級生にもっと酷い人もいるからだ。
特に酷かったのが人間関係だ。
これが俗に言うパワハラなのだと、今は分かる。けれど、当時は分かっていなかった。
自分は本当に使えないのだと、無価値な人間なのだと毎日思い知らされた。
どうにかして引き継ぎもろくに受けていない難しい仕事を身に着けるかに毎日集中していた。
根が真面目だと周りの人は言ってくれる。
しかし秀一は自分に自信がなかったから、ひとつひとつのものに常に全力で当たっていた。
怒られるときも失敗した時も、すべて全力だった。
それがモラルのない上司のストレスの捌け口にされているとも知らずに。
一か月、二か月、半年。
年月が経てば経つほど体重は落ち、やつれていった。
辞めれば良かったのだと今なら分かるのに、当時はどんどん選択肢が狭くなっていっていた。
辛い、苦しい。けれど働かなければ生きていけない。
仕事を続けなければ転職先も見つからない。
だって俺は無能だから、働かせてもらえる場所も簡単には見つからない。
だから今日も仕事に行かなきゃ。
「秀一、無理しすぎじゃないの」
「母さん……」
夜遅く帰ってきて、風呂に入りひと眠り。
その後直ぐに仕事に向かおうとする息子に、母親は心配そうに声を掛ける。
「働き過ぎよ。ご飯は食べれてる?」
「あんまり……」
「ねえ。このままだと倒れてしまうわ。今日明日は休んだ方がいいわ」
「そんなことすると仕事が溜まってしまうだろ。説教もひどくなる」
「え……。ねえ、仕事辞めて新しく探した方がいいわ」
「……仕事を辞める……」
母親の言う事が正しいのだとどこかで分かっていたけれど。
今まで覚えたことが全て無になる気がして許せなかったから。
「大丈夫だよ、母さん。それに貯えもあまりないんだろ」
「そうだけど……」
「大丈夫だ。もっと上手くやるから」
家は母子家庭だ。
幼い頃に父が病死しており、未亡人となった母が女手ひとつで自分と妹を育ててくれた。
そんな母にこれ以上無茶はさせられない。
遅刻をしないようにと必要以上に早く家を出る息子を母は心配そうに見送った。
もっと強く説得すれば良かったのだと母は後に後悔する。
けれど、家計が苦しいのも本当だったから、しっかり者の息子に甘えた。
「まだそんな事も覚えてないのか!前教えただろ」
「先輩。前教わった事とケースが違いま……」
「言い訳すんな!!いつも右から左へ流しているからだろ!」
「そんな事ありませんよ……」
嗚呼、心がなくなりそうだ。
心に蓋をしないと崩れそうな感情が耐え切れない。
けれど、職場の上司達はそれすら許さない。
あなたのために言っているのだと優しく取り繕いながら、いつだって都合の良い人間を探している。
――疲れたな……。もう何もしたくないな……。
――死にたいな……。
カンカンカン。
踏切の音を聞きながらふとそんなことが頭に過ぎり、急いで踏み切りから離れて帰路に着いた。
そんなことを考えてはいけない。
ちゃんと社会人として自立するのだ。
「お兄ちゃん、起きて」
「
いつの間にかソファーで眠ってしまっていたようだ。
パジャマ姿の高校生の妹に起こされ、眠い目をこする。
「あと1時間でいつもお兄ちゃんが出る時間になるよ。
お兄ちゃん、昨日お風呂入ってないでしょ。さっぱりした方がいいよ」
「ああ、そうだな……」
「ご飯作っておくからちゃんと食べてね」
「ありがとう」
妹にお礼を言い、バスタオルを取って風呂場に向かった。
後姿を見ながら、陽向は考える。
本当は明日お休みを取ってほしい。
土曜は朝から晩まで仕事に行ってしまう。本来なら週休二日のはずなのに、兄は日曜しか休んでいない。
兄にお休みを勧めても、仕事だからと断ってしまう。
目の下のクマがどんどん酷くなっている事を、肌がどんどん黒ずんでいる事を聡い妹は感じ取っていた。
このままでは兄が死んでしまう。そんな恐怖感に囚われ、必死に兄を止める。
けれど、秀一は笑って言うのだ。そんなに心配しなくても大丈夫だと。
仕事を辞める事を勧めても、首を横に振る。
何かに酷く恐れているように見えた。
今思えば、秀一は今やめれば努力が無になると恐れていたのだろう。
そんなことはないのだと、寧ろ身体を壊すような仕事は毒にしかならないと言えれば良かった。
けれどそこまでの語彙力も説得力も持たない妹の言葉は届かなかった。
そして、とうとう最悪の日を迎える。
「え……?」
ある日、秀一は社長に呼び出された。
取引先が怒って取引を打ち切ってきたと。その取引先はとても大きなところだと。
どう責任を取るつもりかとにじり寄られ、言葉に詰まる。
――あれ、昨日は手一杯で先輩に任せたよな……?
社長になんとかその説明をし、本人を連れてくるのでと説得して一時離席に成功する。
「矢部さん!」
やがて直属の上司を見つけ、呼び止めた。
とても不機嫌そうに返されたが、昨日の仕事の件を確認するととんでもない答えが返ってきた。
「お前の取引先なんだから、お前の仕事だろ?」
「あの、何か相手方に失礼な事をしたんじゃ……。その確認をしたいんです」
「してねえよ。相手が急に怒ってきたんだよ。何が悪かったか俺も分からねえよ」
「それなら社長にその話を……」
「うるせえな!」
強く体を押され、栄養のほぼ取れていない体はあえなく吹っ飛んだ。
そのまま壁に頭を打ち付けずるずると座り込む。
――嗚呼。この先輩の身代わりになるのか。
――こんな最低な野郎の身代わりに。
責任を取って辞める事にしようか。
矢部が去った後に場に現れ、助け起こす社長が命じるのは減給半年だ。
それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
――あれ……。俺、こんな仕打ちを受けても頑張ってきたよ……?
いっそ辞めさせてくれと頼んでも首を縦に振らない。
ただでさえ最低賃金を割るような月給なのに、減給されれば俺の価値もなくなってしまう。
所詮俺の値打ちなんて、人の気まぐれで減らされるようなものなのだ。
そう感じたとき、秀一はゆらりと立っていた。
踵を返した時、視界に入ったのは下卑た笑いを浮かべる矢部だ。
そして半分倉庫となった部屋の隅に置かれていた角材を手に取り、思いっきり振りかぶった。
静止の声も届かない。
殴って殴って、そうすれば壊れた心が満たされる気がした。
崩して崩して、そうすれば楽になれる気がしたんだ。
もう終わらせてほしかった。
切なる願いを胸に抱きながら、ひたすら笑い続けた。
会社の人員が複数人血だらけで倒れ伏した状態で、秀一は会社を後にした。
さあ、終わらせよう。
全てを終わらせよう。
笑みが、嗤い声が零れる。
荷物を取って人気のない道を一人向かう。
電車に乗るには返り血を浴び過ぎた。
さあ、どこかのビルに不法侵入して、屋上から飛び降りよう。
これで幕を下ろせばすべてが終わる。
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